第13話 毛布の下の、小さな爪
朝の光が、少しだけ傾いてから。
奥の小部屋の戸が、きい、と鳴った。
ひよりは、長椅子の上で目を開けた。
「おはよう」
返事はなかった。
けれど、戸の隙間から、黒い髪がほんの少し見えた。
「お水、ありますよ」
水差しを指すと、そこにいた子は、ゆっくり出てきた。
毛布を肩までかけたまま。裸足で。昨夜より少しだけ、目の下の影が薄い。
「……外、見てもいい?」
「もちろん」
「開けても?」
「うん。出るのも、戻るのも、好きにしていいよ」
その子は、入口まで行った。
でも扉を開ける前に、ぴたりと止まった。
耳を澄ませている。
「どうしたの?」
「いる」
「だれが?」
子は答えず、入口の外を指さした。
待つための椅子。そのいちばん端。
昨夜、誰かが忘れていったらしい灰色の毛布が、くしゃりとかかっている。
風はない。
それなのに、毛布の端が、もぞ、と動いた。
ルゥが水差しの中で、小さく震えた。
『毛布が、起きた?』
「たぶん、毛布じゃないね」
ひよりは、すぐには近づかなかった。
朝の町では、パン屋の戸が開く音がした。荷車の車輪が、石畳をゆっくり通る。
いつもの音がしている。
でも、椅子の下だけは、ずっと息をひそめていた。
「お腹、空いてるのかな」
ひよりが言うと、黒髪の子がこちらを見た。
「分かるの?」
「分からないよ。だから、聞いてみようかなって」
「しゃべれないかも」
「そしたら、別の聞き方にしよう」
ひよりは、昨日の野菜スープの残りを温めた。
その匂いが店の中に広がると、椅子の下から、ふたたび、もぞり、と音がした。
黒髪の子の肩が跳ねた。
ひよりは木の小皿に、やわらかく煮た芋を二つだけ乗せた。
「ここに置くね」
椅子から、三歩ぶん離れた場所に置く。
それから、店の中へ戻った。
「近づかないの?」
「近づかれたくない顔をしてたから」
「顔、見えなかった」
「そうだったね」
黒髪の子は少し考えた。
「でも、そういう感じはした」
「うん。私もそう思う」
しばらく、何も起きなかった。
ひよりは看板を外へ出す。
黒髪の子は、その隣に立った。昨日よりも、ひよりから半歩だけ近い。
そのとき。
毛布の下から、小さな爪が出てきた。
ふわふわした灰色の前足だった。
爪は細く、先だけが少し黒い。
前足は小皿まで伸びて、芋を一つつかんだ。
つかんだまま、引っこめる。
毛布の奥から、しゃく、しゃく、と小さな音がした。
ルゥが、水面から目だけ出した。
『食べてる』
「食べてるね」
黒髪の子が、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その直後だった。
通りがかった野菜売りの男が、椅子の下を見て、足を止めた。
「なんだ、あれ」
毛布の下から、低い唸り声がした。
小皿が、からんと揺れる。
黒髪の子の手が、ぎゅっと拳になった。
「追い出す?」
声は小さかった。
誰に聞いたのか、分からない声だった。
ひよりは、椅子のほうを見たまま答えた。
「まだ、ごはんを食べてるから」
「でも、魔物だよ」
野菜売りの男が言った。
「そうかもしれません」
「噛むかもしれん」
「近づいたら、噛むかもしれませんね」
ひよりはうなずいた。
「だから今は、近づかないでおきましょう」
男は、拍子抜けしたように口を閉じた。
そこへ、パン屋帰りのミレアが大きな籠を抱えてやって来た。
「あら。朝から、ずいぶん賑やかね」
「毛布のお客さんがいます」
「まあ」
ミレアは椅子の下をのぞかなかった。
籠から、端が少し焦げた丸パンを一つ取り出す。
「硬くないやつのほうがいいかしら」
「どうでしょう」
「じゃあ、置いておくわね」
ミレアは、ひよりの小皿から少し離れた場所にパンを置いた。
「お代は、食べられるようになってからでいいわ」
それから、野菜売りの男へも言った。
「ほら。あんたは野菜を売りに行きなさいな。朝の芋は、忙しいのよ」
男は何か言いかけて、結局、荷車を押していった。
黒髪の子は、ミレアの背中を見送った。
「あの人も、見なかった」
「うん」
「どうして?」
「見ないほうが、安心する子もいるからじゃないかな」
子は、毛布の下を見た。
しばらくしてから、自分のパンを半分に割った。
「これも、置いていい?」
「いいと思う」
「ぼくが置いても?」
「うん。でも、行けそうなところまででいいよ」
黒髪の子は、扉の外へ出た。
足取りは、ゆっくりだった。
小皿まであと二歩というところで、止まる。
そしてパンを地面に置いた。
「食べるなら、食べて」
小さな声だった。
「ぼくも、昨日……食べたから」
毛布の下で、何かが動いた。
灰色の前足が出てくる。
今度は、パンを取った。
けれど、すぐには引っこめない。
小さな爪の先が、地面を、とん、と叩いた。
黒髪の子の指先も、同じように、とん、と自分の膝を叩いた。
「……どういたしまして」
ひよりには、それが返事に聞こえた。
昼前になると、灰色の毛布は、椅子の上に少しずつずれていた。
下から見えたのは、丸い耳。
灰色の毛に包まれた、小さな頭。
それから、眠たそうな金色の目が、ほんの一度だけ外を見た。
目が合うと、すぐに隠れた。
黒髪の子も、それを追いかけなかった。
「名前、聞かないの?」
ルゥが、ひよりの耳元で尋ねる。
「まだ、聞かないよ」
「どうして?」
ひよりは、奥の小部屋を見た。
そこには、昨夜まで毛布を肩まで引き上げていた子がいる。
「名前より先に、眠れる場所がいる日もあるから」
黒髪の子が、こちらを見た。
そして、椅子の下の灰色へ向かって言った。
「名前は、明日でもいいよ」
毛布の下から、返事はなかった。
ただ、小さな爪が一度だけ出てきて。
さっきより少しだけ、のびのびと、木の椅子を掴んでいた。




