第14話 入口までの、四歩
お昼を過ぎたころから、空が暗くなった。
雨は、急に降り出した。
ととのひ整体所のひさしを、細かな雨粒が、ととと、と叩く。
外の待つための椅子は、ひさしの下に半分だけ入っていた。
いちばん端の椅子も、その半分だけ。
灰色の毛布の端が、じっとりと濃い色になっていく。
「濡れちゃうね」
ひよりが言うと、毛布の下から、金色の目が見えた。
すぐに隠れる。
「中、入る?」
返事はない。
黒髪の子が、入口の内側から外を見ていた。
「来たくないなら、来なくていいよ」
ひよりは続けた。
「でも、濡れない場所は、中にもある」
毛布の下で、低い声がした。
うなるような、困っているような、小さな音。
黒髪の子の肩も、少しだけ固くなる。
「中に入ったら」
その子が、ぽつりと言った。
「扉、閉められるかもしれない」
ひよりは、入口の戸を見た。
「そう思うよね」
「ぼくも、思った」
雨の音が、少し大きくなった。
ひよりは店の奥から、古い木箱を持ってきた。
いつも、足を乗せてもらうために使っている箱だ。
それを、入口のすぐ内側に置く。
「ここまでなら、どうかな」
毛布の子は、動かなかった。
「扉は閉めないよ」
「ほんと?」
黒髪の子が聞く。
「うん。今日は、雨をよけるだけの日にしよう」
ひよりは、戸を大きく開けたまま、壁際に腰を下ろした。
毛布の子から見えるように。
でも、目は合わせないように。
ルゥが水差しから、そっと浮かんだ。
外の雨に気づくと、身体の端がふるふる揺れる。
『雨、いっぱいだね』
「うん」
『お外の子、濡れてる』
「うん」
黒髪の子が、ひよりの横へ座った。
椅子ではなく、床に。
それから、自分の毛布の端を、入口の外へ少しだけ伸ばした。
地面と店の床を、つなぐみたいに。
「これ、濡れないところまで、線にする」
「線?」
「うん。ここから、ここまで」
指で示したのは、外の椅子から木箱までだった。
「線の上なら、だいじょうぶ」
ひよりは、静かにうなずいた。
「いい線だね」
しばらくして。
灰色の毛布が、もぞり、と動いた。
最初に出たのは、あの小さな前足だった。
細い黒い爪が、雨で濡れた石畳に触れる。
次に、丸い耳。
灰色の毛に包まれた、小さな顔。
金色の目は、店の中をまっすぐには見なかった。
床の毛布の線だけを見ている。
「一歩でいいよ」
ひよりは言った。
「一歩じゃなくてもいい」
毛布の子は、前足を上げた。
とん。
椅子の下から、石畳へ。
それが一歩目だった。
黒髪の子は、手を伸ばさなかった。
ただ、息をゆっくり吐いた。
「はぁー……」
ひよりも、同じように吐いた。
ルゥも、水の身体をすこししぼませるようにして、静かに揺れた。
『はぁー……』
毛布の子の耳が、ぴくりと動いた。
それから。
とん。
二歩目。
とん。
三歩目。
灰色の子は、入口の前で止まった。
店の中には、乾いた床がある。
木箱がある。
ひよりがいる。
黒髪の子がいる。
開いた扉が、雨の向こうまで見えている。
毛布の子は、小さく唸った。
「閉めない?」
声ではなかった。
それでも、黒髪の子は聞いたように答えた。
「閉めない」
ひよりも言った。
「閉めないよ」
灰色の子は、長いこと動かなかった。
雨は、まだ降っている。
やがて、その前足が、毛布の線を踏んだ。
とん。
四歩目。
木箱のすぐ手前まで来て、灰色の子は丸くなった。
中には、入った。
でも、木箱には乗らなかった。
それでいい、とひよりは思った。
黒髪の子が、自分の毛布を少しだけ手繰り寄せた。
「そこ、濡れない?」
金色の目が、ちらりとこちらを見る。
返事の代わりに、灰色の尻尾が一度だけ床を叩いた。
「よかった」
その日、ととのひ整体所には、お客さんが二人来た。
どちらも、入口の木箱のそばで眠る小さな灰色を見た。
けれどひよりが、小さく指を口元に当てると。
何も聞かずに、靴をそっと脱いだ。
夕方には、雨が上がった。
戸口の向こうに、水たまりが夕焼けを映している。
毛布の子は、まだ木箱のそばにいた。
いつでも外へ出られる場所で。
でも、もう雨には当たらない場所で。
ルゥが、そっと尋ねた。
『四歩、歩いたね』
「うん」
『次は、五歩?』
ひよりは、眠っている灰色の耳を見た。
「次があるかは、明日になってから聞こう」
黒髪の子が、木箱のそばへ小さなパンを置いた。
そして、灰色の毛布に聞こえるくらいの声で言った。
「今日は、四歩でいいよ」




