第15話 名前を、そっと置いておく
次の朝。
入口の木箱のそばには、灰色の子がいた。
昨日と同じ場所。
けれど、毛布は乾いている。
小さな鼻先だけを出して、雨上がりの町の匂いを嗅いでいた。
「おはよう」
ひよりが言うと、丸い耳が一度だけ動いた。
返事は、それだけだった。
奥の小部屋では、黒髪の子がまだ眠っている。
眠っている、ということが、ひよりには少しうれしかった。
昨日までなら、音がするたびに起きていたからだ。
「ルゥ。お水、替えようか」
『うん』
ルゥは水差しから浮かび上がり、窓から差す朝の光の中で、ぷるんと丸くなった。
『灰色の子も、お水飲むかな』
「飲むかもしれないね」
小さな皿に、きれいな水を入れる。
ひよりは木箱から少し離して置いた。
灰色の子はすぐには動かない。
でも、ひよりが背を向けて棚を整えているあいだに、水が少し減っていた。
午前の最初のお客さんは、グラムさんだった。
今日は杖をつかずに、入口まで来た。
もちろん、ゆっくりだったけれど。
「おはようございます」
「うむ」
グラムさんは、木箱のそばの灰色を見た。
灰色の子は、毛布の奥へ鼻先を引っこめる。
「新しい客か」
「たぶん」
「腰は痛くなさそうだな」
「そうですね」
「では、わしより元気じゃ」
「グラムさんも、今日は杖がないです」
「忘れた」
「大丈夫ですか?」
「戻るのが面倒じゃ」
ひよりは笑った。
グラムさんは、木箱の横を通るとき、わざと少し大きめに足を踏み出した。
灰色の子がびくりとする前に。
「すまん。ここにおるとは聞いとらんかった」
と、言った。
それから、灰色を見ないまま、いつもの長椅子に座った。
「おはよう。驚かせたな」
灰色の耳が、また一度動いた。
グラムさんの腰は、昨日より少し楽そうだった。
ひよりは施術のあいだ、足元の木箱をそのままにしておいた。
グラムさんも、そこへ足を置いた。
「この箱、今日は別の役目もあるようじゃな」
「そうですね」
「座る前の場所か」
「うん。たぶん」
グラムさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「わしにも、昔あった」
「そうなんですか?」
「人の家の縁側じゃ。中へ入れと言われても、靴を脱ぐまでが長かった」
「どうして入れたんですか?」
「茶が冷めると言われた」
ひよりは、少し笑った。
「それは、急かしてますね」
「いや。冷めても、また淹れてやると言っておった」
グラムさんは目を閉じた。
「じゃから、入った」
施術が終わるころ。
奥の小部屋の戸が、そっと開いた。
黒髪の子が出てきた。
昨日より、髪が少しだけ跳ねている。
「おはよう」
「……おはよう」
その子は、木箱のそばへ行った。
灰色の子は、逃げなかった。
ただ、金色の目で、じっと見ている。
「ここ、寝られた?」
黒髪の子が聞く。
灰色の子は、しばらく考えてから、尻尾で床を一度叩いた。
「よかった」
グラムさんは立ち上がると、入口でひよりに小さな袋を渡した。
「りんごの干したやつじゃ」
「わあ。ありがとうございます」
「小さいのにも、やってよい」
灰色の耳が、ぴくりと動いた。
「一つだけ、置いてみますね」
ひよりが言うと、黒髪の子が手を出した。
「ぼくが置く」
「うん」
その子は干しりんごを一つ、木箱の脇へ置いた。
そして、急に言った。
「ぼく、ノア」
ひよりの手が、止まった。
グラムさんも、杖のない手を止めた。
でも、誰もすぐには何も言わなかった。
黒髪の子は、床を見ていた。
「ぼくの名前」
声は、昨日よりずっと小さかった。
「ノアっていう」
ひよりは、ゆっくり息を吐いた。
「教えてくれて、ありがとう」
ノアは顔を上げなかった。
「言ったら、呼ばれるから」
「うん」
「呼ばれたら、返事をしないといけない」
ひよりは、すぐに「そんなことない」とは言わなかった。
ノアにとっては、そうだったのかもしれない。
「ここではね」
ひよりは、木箱のそばに座った。
「ノアって呼ばれても、返事をしなくていいよ」
黒髪の子が、わずかに顔を上げた。
「返事をしたい日だけでいい」
「……いいの?」
「うん。名前は、見つけるために置くものじゃなくて。呼びたいときに、そっと置いておくものでもいいと思う」
ノアは、しばらく黙っていた。
それから、木箱の上にある灰色の毛布へ目を向ける。
「この子にも、名前、あるかな」
灰色の子は、干しりんごを鼻先でつついた。
けれど、食べない。
金色の目で、ノアを見ている。
「あるかもしれないね」
ひよりが答える。
「でも、まだ聞かない」
ノアは、うなずいた。
「うん。まだ、聞かない」
グラムさんが、入口の外へ出た。
少し歩いてから、振り返る。
「ノア」
ノアの肩が、少しだけ上がった。
でも、グラムさんは続けた。
「返事は、せんでよい。りんごは甘いぞ」
そう言って、今度こそ歩いていった。
ノアは、長いこと入口の外を見ていた。
やがて、灰色の子が干しりんごをくわえた。
そして、半分だけ噛んで。
残りを、ノアの足元へ置いた。
「半分、くれるの?」
灰色の子は、尻尾を一度だけ叩いた。
ノアは笑った。
声は出なかったけれど。
ひよりには、ちゃんと笑ったように見えた。
木箱のそばには、まだ呼ばれていない名前が一つと。
呼ばれても、返事をしなくていい名前が一つ。
どちらも、朝の光のなかに、そっと置かれていた。




