第16話 鈴を、鳴らさない
その小さな鈴は、ミレアが持ってきた。
「お店の前に、こういうのがあると便利よ」
パンの籠と一緒に差し出されたのは、親指くらいの銀色の鈴だった。
赤い紐がついている。
「引っぱると、ちりん、と鳴るの。奥にいても、お客さんが来たって分かるでしょう?」
「たしかに」
ひよりは鈴を手のひらに乗せた。
小さく振ってみる。
ちりん。
その音で。
木箱のそばにいた灰色の子が、飛び上がった。
毛が、ふわ、と逆立つ。
ノアの肩も、同じように跳ねた。
ひよりは、すぐに鈴を握りこんだ。
「ごめんね」
店の中が静かになった。
ミレアが、困った顔をする。
「あら。大きかったかしら」
「ううん。鈴は悪くないですよ」
ひよりはそう言ってから、少し考えた。
「でも、今日は出さないでおきます」
ノアは床を見ていた。
灰色の子は、木箱の影に半分だけ隠れている。
ミレアは、すぐにうなずいた。
「じゃあ、また必要になった日に」
「ありがとうございます」
けれどミレアが帰ったあとも。
ノアは、なかなか顔を上げなかった。
ひよりは水差しの水を替えながら、何も聞かなかった。
ルゥが小さく浮かぶ。
『鈴、びっくりする音だった?』
「びっくりしたね」
『ルゥも、ちょっと、びっくりした』
「うん」
ノアが、やっと言った。
「前にいたところで」
ひよりは、手を止めた。
「鈴が鳴ると、呼ばれるんだ」
「そうだったんだね」
「急いで行かないと、怒られる」
それだけ言って、ノアは口を閉じた。
ひよりは、銀色の鈴を窓際に置いた。
「じゃあ、この鈴は、しまっておこう」
「いいの?」
「うん。お客さんには、扉をノックしてもらえばいいし。声をかけてもらってもいい」
「でも、ひよりさん、分からないかも」
「そのときは、待ってもらおう」
ひよりは笑った。
「ととのひ整体所は、急がない店だから」
ノアは、窓際の鈴を見た。
「鳴らさない?」
「鳴らさないよ」
灰色の子も、金色の目で鈴を見た。
その日のお客さんは、みんな扉を二回ノックした。
こん、こん。
ひよりが返事をしてから、ゆっくり入ってくる。
グラムさんは、杖で床を二回叩いた。
こつん、こつん。
「これでよいか」
「はい。よく分かります」
ノアは、その音なら大丈夫そうだった。
灰色の子も、耳を伏せなかった。
夕方。
ひよりが看板を中へ入れようとしたときだった。
風はない。
それなのに、窓際の鈴が。
ちりん。
と鳴った。
誰も、触っていない。
ルゥが、水差しの中で丸くなる。
『ひより。鈴、鳴った』
「うん」
ノアが、入口のほうを見た。
灰色の子は、木箱から出ていた。
小さな身体をまっすぐにして、町の外れ――森のほうを見ている。
耳が、ぴんと立っていた。
「どうしたの?」
ノアが、灰色の子に聞く。
返事はない。
でも、灰色の子は入口まで歩くと、そこで止まった。
外へは出ない。
そして、ひよりのほうを見た。
金色の目が、いつもより大きく見えた。
そのとき。
遠い森の向こうで。
ごう、と。
風でも、雷でもない音がした。
空が、どこかで長く息を吐いたみたいな音だった。
町の屋根にとまっていた鳥たちが、いっせいに飛び立つ。
ノアが、ひよりの袖をつかんだ。
「これ、なに」
「分からない」
ひよりは正直に答えた。
灰色の子は、小さな前足で、入口の床を叩いた。
とん。
もう一度。
とん。
ひよりは、その子の目線まで腰を下ろす。
「怖い?」
灰色の子は、少しだけ首を横に振った。
それから、ノアのほうを見る。
ノアは、袖をつかんだまま、ゆっくり息を吐いた。
「怖いけど」
小さく言った。
「ここに、いる」
ひよりはうなずいた。
「うん。今日は、ここにいよう」
窓際の鈴は、それからもう鳴らなかった。
けれどその夜。
ととのひ整体所の戸は、いつもより少しだけ早く閉めた。
もちろん、鍵はかけなかった。
ノアが、出られるように。
灰色の子が、入口を見られるように。
そして、遠い森のほうから、もう一度だけ聞こえた大きな息を。
みんなで、ただ聞いていた。




