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第17話 森へは、迎えに行かない

 翌朝。


 町の外れの森は、いつもと同じ色をしていた。


 緑で。


 静かで。


 遠くから見れば、何も起きていないように見える。


 でも、ととのひ整体所の前を通る人たちは、みんな森のほうを一度だけ見ていった。


 口には出さない。


 けれど、歩く足が少し早い。


「森に、何かいるのかな」


 ノアが、入口の木箱に座って言った。


 灰色の子は、その横で丸くなっている。


 いつもなら眠っている時間なのに、今日は目を閉じていなかった。


「いるかもしれないね」


 ひよりは、看板の文字を拭いた。


「なにが?」


「それは、まだ分からない」


 ノアは、少しだけ口をへの字にした。


「分からないの、嫌だ」


「うん。嫌だよね」


 ひよりは、それ以上、すぐには言わなかった。


 分からないことに、きれいな答えをつけるのは、もっと嫌なこともある。


 午前の遅い時間に、ブラムが来た。


 いつもの見張りの服のまま。けれど、顔には少しだけ寝不足の色があった。


「森の手前まで、見に行ってきた」


「危なくなかったですか?」


「手前までだ」


 ブラムは、店の中に入る前に靴の泥を落とした。


「森の中へは入っていない。鳥も獣も、奥から出てきている。森番にも、近づくなと言われた」


「何がいたんですか?」


 ノアが聞く。


 ブラムは、ノアの目線までしゃがんだ。


「分からない」


 ノアの眉が、少しだけ下がる。


「でも、分からないからって、勝手に追いかけるものでもない」


「助けを呼んでるかもしれない」


 ノアは、森のほうを見た。


 灰色の子も、耳を立てる。


「そうかもしれない」


 ブラムは否定しなかった。


「だから森番たちが、見ている。町の人は道を空けて、待っている」


「待つの?」


「待つのも、できることの一つだ」


 ノアは、すぐにはうなずかなかった。


 そのとき、灰色の子が立ち上がった。


 入口を出て、石畳を二歩だけ歩く。


 前足で何かを押している。


 それは、葉っぱに包まれた、小さな欠片だった。


 青白く、半透明の欠片。


 朝の光を受けると、内側から淡く光る。


「これ、どこで?」


 ノアが聞いた。


 灰色の子は答えない。


 ただ、森を見た。


 ブラムは欠片に触れず、ひよりに目だけで聞いた。


「触ってもいいと思います」


 ひよりは、そっと葉っぱごと持ち上げた。


 不思議なくらい、あたたかい。


 湯たんぽのような熱ではない。


 手のひらの中で、まだ眠っているものの熱だった。


 灰色の子が、小さく鳴いた。


 低く、かすれた声。


 ノアは、その声を聞いて、ひよりの袖をつかんだ。


「迎えに行く?」


 ひよりは、青白い欠片を見た。


 それから、ノアを見た。


「今は、行かない」


「どうして?」


「森の中にいる誰かが、私たちを呼んだのか。逃げているのか。ひとりになりたいのか。まだ、何も聞けていないから」


 ノアは黙った。


「迎えに行くって、いいことに聞こえるけど」


 ひよりは、ゆっくり言った。


「相手が来たくないときには、追いかけることにもなるでしょう?」


 ノアの指が、ひよりの袖を少し離した。


「……うん」


「だから、迎えに行かない。代わりに、来られるようにしておく」


 ブラムが、少しだけうなずいた。


「それなら、俺にもできる」


 その日の午後。


 ひよりは、店の隅に小さな籠を置いた。


 中には、水筒。


 やわらかいパン。


 りんごの干したもの。


 それから、毛布を一枚。


 ノアが、籠のそばに小さな木の札を置く。


「何て書く?」


 ひよりは訊いた。


 ノアはしばらく考えた。


 文字はまだ書けない。


 でも、札の上を指でなぞる。


「……来てもいい、って」


「いいね」


 ひよりは、木炭で札に書いた。


 ――来てもいいです。


 ――急がなくても、いいです。


 灰色の子は、その文字を長いこと見ていた。


 やがて、自分の小さな前足を、札の端に置いた。


「ここに置く?」


 ひよりが訊くと、尻尾が一度だけ床を叩いた。


 夕方には、ナディアが来た。


 青白い欠片を見て、しばらく考える。


「治癒術の残り香ではないわね」


「何か分かりますか?」


「断言はしないほうがいいと思う」


 ナディアは、欠片から少し距離を取った。


「でも、生き物の魔力に似ている。とても大きな生き物の。それなのに、まだ……まとまりきっていない感じがする」


 ノアの目が丸くなった。


「大きいの?」


「うん。でも、大きさだけで怖いとは限らないわ」


 ナディアは、やわらかく言った。


「小さくても、怖い日はあるもの」


 ひよりは、籠と木の札を見た。


 ナディアも見て、少し笑った。


「いい準備ね」


「できることが、これくらいなので」


「充分よ」


 日が沈むころ。


 ブラムは森へ続く道の手前に、見張りを一人増やしてくれた。


 ミレアはパンを二つ、そっと籠に足してくれた。


 グラムさんは何も言わず、りんごを一つ置いていった。


 ととのひ整体所の前には。


 来てもいいと言うための籠が、ひとつだけ増えた。


 夜。


 ノアは木箱のそばで眠った。


 灰色の子は、その少し前に丸くなった。


 ひよりは、入口の戸を指二本ぶんだけ開けておいた。


 風が通るために。


 誰かが、入口を見つけられるために。


 遠い森の闇が、青白く一度だけ瞬いた。


 星が落ちたのかと、ひよりは思った。


 けれど、光は空からではなく。


 森のほうから、ゆっくりと、町へ近づいてきていた。

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