第18話 来てもいい、のあとで
その夜。
ととのひ整体所の戸は、指二本ぶんだけ開いていた。
ひよりは、眠れなかった。
眠らなければいけないほど、眠れないわけではない。
でも、森のほうから青白い光が近づいてくると分かっていて、いつもどおりに布団へ入るのは、少し難しかった。
窓辺の水差しで、ルゥが小さく揺れている。
『ひよりも、こわい?』
「うん。少しは」
『じゃあ、いっしょ』
「そうだね」
怖くないふりをすると、ルゥはたぶん、もっと心配する。
ひよりは水差しのそばに座り、外を見た。
入口の前には、籠がある。
水筒。
やわらかいパン。
干しりんご。
毛布。
木の札には、ノアと決めた言葉。
――来てもいいです。
――急がなくても、いいです。
その札の前で。
とん、と。
小さな音がした。
ひよりは息を止めた。
戸の隙間から、青白い光が細く入ってくる。
火ではない。
月の光より、少しだけあたたかい。
「……どなたですか?」
聞くと、しばらく返事はなかった。
それから。
「……わたし」
かすれた、小さな声。
ひよりは立ち上がった。
「入ってもいいですよ」
「まだ、入っていない」
「はい」
「入って、いい?」
ひよりは、戸をもう少しだけ開けた。
外の石畳に、小さな子が立っていた。
六つか、七つくらい。
薄い銀青色の髪は、ところどころ濡れたように頬へ張りついている。大きすぎる灰青色の外套にくるまって、裸足のつま先だけが見えた。
髪の間から、短い角が二本。
まだ伸びきらない、淡い青灰色の角。
その子の目は、深い金色をしていた。
そして、腕のあたりから時々、青白い光が漏れた。
光の下には、小さな鱗が数枚だけ、肌に浮かんでいる。
ひよりは、驚いた。
けれど、驚いたことを、そのまま顔に置かないようにした。
「ここまで、歩いてきたんですね」
子は、こくんとうなずいた。
「遠かった?」
「……とても」
「じゃあ、入る前に。少し、そこで休みますか?」
ひよりは、戸口のすぐ内側に木箱を置いた。
子は、それを見た。
座っていいのか。
触っていいのか。
そういうふうに、ずいぶん長いこと見た。
「座らなくてもいいですよ」
ひよりが言うと、金色の目が少し上がった。
「入っても。座らなくても。しゃべらなくても」
「……そんな場所が、あるのか」
「ここは、そういうお店なので」
子は、戸口の前で目を閉じた。
小さな肩が、震えた。
次の瞬間。
青白い光が、ふっと強くなった。
店の中の木の匙が、棚から浮いた。
籠の中の干しりんごも、少しだけ宙に上がる。
ルゥが、水差しの中で丸くなる。
ひよりは動かなかった。
「大丈夫です」
子は、ぎゅっと拳を握った。
「大丈夫ではない。わたしは、近くにいるものを、壊す」
「今、匙が浮きました」
「浮いたあと、落ちる」
「落ちたら、拾います」
子は、ひよりを見た。
匙も、干しりんごも、ぱたぱたと床へ落ちた。
ルゥが、そっと水面から顔を出す。
『拾うの、手伝うよ』
子の目が、ルゥへ向いた。
『水から来たの?』
「違うと思う」
ひよりが言うと、ルゥは少し考えた。
『じゃあ、遠くから来たんだね』
子は、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。
「……そうだ」
そのとき、奥の部屋でノアが寝返りを打った。
毛布がずれて、床を擦る音がする。
子はびくりと肩を上げ、後ろへ下がった。
「大丈夫」
ひよりは、すぐには近づかなかった。
「ここにいるのは、ノアです。眠っているだけ」
「ほかにも、いるのか」
「います。でも、みんな眠っています」
子は戸の外を見た。
帰る場所を探すように。
ひよりは、木の札を取って、子に見えるところへ置いた。
「これ、読めますか?」
子は、札を見た。
指先を伸ばしかけて、途中で止める。
「読める」
声が、さっきより少しだけ低くなった。
「古い文字も。石に刻まれた誓いも。王たちが、わたしに捧げた言葉も」
それから、小さく首を振った。
「……でも、これは、読める」
ひよりは待った。
子は札の文字を、ゆっくり声にした。
「来てもいいです。急がなくても、いいです」
言い終えてから。
子は、ひよりを見た。
「わたしが、来てもいい?」
「はい」
ひよりは、すぐに答えた。
「来てもいいですよ」
金色の目から、一粒だけ涙がこぼれた。
子は慌てて拭おうとして、外套の袖に引っかかった。
ひよりは見なかったことにした。
泣いたことを、すぐに片づけなくてもいいように。
「……わたしは、古き竜」
子が言った。
「山の上で眠り。雲の下を飛び。何百年も、国境を見ていた」
青白い鱗が、腕の上で弱くまたたく。
「みな、わたしを『エンシェントドラゴン』と呼んだ」
「そうだったんですね」
「怖くないのか」
「怖くない、とは言いません」
ひよりは正直に答えた。
「でも、いまのあなたは。裸足で、ずいぶん疲れていて。お腹も空いていそうです」
子は、黙った。
「それに、ここへ来るまで、ひとりで頑張ったんでしょう」
金色の目が、また少し揺れた。
「……ひとりで、来た」
「じゃあ、もう少しだけ。ひとりで頑張るのは、お休みしてもいいですよ」
ひよりは籠のパンを取り出した。
「食べられそうですか?」
子は、パンを見た。
それから、ひよりの顔を見た。
「これは、供物ではないのか」
「夜食です」
しばらくの沈黙のあと。
「……夜食」
子は、その言葉を小さく繰り返した。
そして、木箱にそっと腰を下ろした。
細い脚が、床につかない。
ひよりは毛布を子の隣に置いた。
「かけても、かけなくても大丈夫です」
「……うん」
子はパンを両手で受け取った。
一口だけ、かじる。
それから、少し驚いた顔をした。
「あたたかい」
「ミレアさんのパンです」
「あたたかいものは、まだ、食べていいのか」
ひよりは、その言葉をすぐには返せなかった。
「いいですよ」
代わりに、ゆっくり言った。
「あたたかいものは、食べていいです」
店の奥から。
「……おはよう」
眠そうなノアの声がした。
ノアは毛布を肩までかぶったまま、入口を見た。
灰色の子も、ノアの足元で目を開ける。
けれど二人とも、急いで近づかなかった。
ノアは、木の札を見た。
それから、木箱に座る小さな子を見た。
「来たんだね」
子は、パンを持ったまま固まった。
ノアは、少し考えてから言った。
「……来てもいいって、書いてあったから」
灰色の子の尻尾が、床を一度だけ叩いた。
ひよりは戸を閉めなかった。
でも、もう冷たい風は入ってこないように。
毛布を一枚、戸口のそばに置いた。
今夜、ととのひ整体所には。
エンシェントドラゴンだった小さな子が、パンを食べていた。
そして、誰も。
急がせなかった。




