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第19話 眠る前に、聞かない

 パンを半分食べたころ。


 小さな竜の子は、まぶたを何度もこすった。


 けれど、目を閉じようとはしない。


 ひよりが見ていると気づくと、子はすぐに手を下ろした。


「眠いですか?」


「眠くない」


 答えは早かった。


 あまりにも早かった。


「そうですか」


 ひよりは、それ以上聞かなかった。


 眠いのに眠れない人は、ときどき、眠くないと言う。


 それは嘘というより。


 眠ってしまうほうが、もっと怖いときの言葉だ。


 ノアは毛布にくるまったまま、竜の子を見ていた。


「ぼくも、最初、寝なかった」


 竜の子の金色の目が、ノアへ向く。


「眠ると、起こされる」


 ノアは、自分の毛布の端を指でつまんだ。


「だから、眠らないでいると、少しだけ、自分でいられる気がした」


 ひよりは、何も言わなかった。


 ノアは続ける。


「でも、眠らないでいると、だんだん、自分じゃなくなる」


「自分じゃなくなる?」


「怒りっぽくなるし。びっくりするし。パンも、おいしくなくなる」


 それは、ノアなりの説明だった。


 竜の子は、残りのパンを見た。


「わたしも、眠ると、自分でなくなる」


 店の中が、しんとした。


 ルゥだけが、水差しの中で小さく揺れている。


「眠っているあいだに。山ができて、雲が落ちて、誰かがいなくなる」


 竜の子の指先に、淡い鱗が浮かんだ。


「前のわたしは、眠って、目を覚ますたびに、何かを終わらせていた」


「それは、夢の中で?」


 ひよりが聞くと、子は首を振った。


「分からない。眠っているときのことは、よく分からない。けれど、朝になると、みんなが遠くにいる」


 ノアの顔が、少しだけ曇った。


 灰色の子は、竜の子のほうへ一歩だけ近づく。


 そのまま、触れはしない。


 ただ、毛布の端を前足で押した。


 竜の子のほうへ、少しだけ。


「毛布、いる?」


 ノアが聞いた。


「……近くに、いていいのか」


「いいよ。返事もしなくていい」


 竜の子は、毛布を見た。


 自分のために誰かが出したものを見るように。


 ひよりは立ち上がった。


「寝床を作りましょうか」


「寝ない」


「寝なくても大丈夫です」


 ひよりは、店の奥の部屋を指した。


「横になるだけ。目を閉じなくてもいい。戸も、少し開けておきます」


 竜の子は、すぐには答えなかった。


「見張りがいる?」


「いません」


 ひよりは言った。


「ここは、見張る部屋じゃないので」


「でも、眠ったら」


「眠ったあとに何が起きるかは、今夜、まだ分かりません」


 ひよりは、子の金色の目を見た。


「だから、分からないものを、あなた一人で見張らなくていいですよ」


 竜の子は、唇をきゅっと結んだ。


「わたしは、ずっと、見張っていた」


「山を?」


「国を。雲を。眠っている人たちを」


「大事な仕事だったんですね」


 子は、うなずいた。


「でも、いまは小さな子です」


 ひよりは、静かに続けた。


「今夜だけは、見張る役を降りてもいいと思います」


 竜の子の目から、また涙が一粒落ちた。


「降りたら、だめだ」


「どうして?」


「わたしがいないと、誰かが困る」


 その言葉は、とても古くて。


 とても小さかった。


 ひよりは、すぐに「大丈夫」とは言わなかった。


 大丈夫と言われても、困る人はいる。


「誰かが困るかもしれないと、ずっと思っていたんですね」


 子は、こくんとうなずいた。


「じゃあ、今夜は。困らないように、みんなで少しずつ起きていましょう」


「みんな?」


「私と、ルゥと。ノアと」


 ノアは、ちょっと迷ってからうなずいた。


「灰色の子も」


 灰色の子の尻尾が、床を一度叩く。


『ルゥも、起きてるよ』


 ルゥは、ふわりと水差しから出た。


『でも、ひよりが眠くなったら、ルゥは寝てって言うよ』


「うん。ありがとう」


 竜の子は、みんなを見た。


 ひよりの店の、古い長椅子。


 水差し。


 少し曲がった看板の裏側。


 灰色の子の丸い耳。


 ノアのずれた毛布。


 どれも、古き竜が見張るべきものには見えなかった。


 でも。


 少しだけ、目を離してもいいものに見えた。


「……名前を聞かないのか」


 竜の子が言った。


「今ですか?」


「みな、先に聞いた。名を聞いて。呼んで。命じた」


 ひよりは、少し考えた。


「聞きたい日になったら、教えてください」


「聞きたい日?」


「名前を置いておける日です」


 ノアが、毛布の中で小さく笑った。


「返事、しなくていい名前」


 竜の子は、その言葉をゆっくり繰り返した。


「返事を、しなくていい」


「はい」


 ひよりは奥の部屋に、薄い敷布を広げた。


 その横に、もう一枚。


 竜の子が嫌なら、誰も使わないための敷布も置いた。


「どちらにしますか?」


 子は、戸口に近いほうを指した。


「こっち」


「分かりました」


 ひよりは敷布のそばに、灯りを一つだけ残した。


 明るすぎない、小さな灯り。


 竜の子は、外套のまま横になった。


 毛布は、最初はかけなかった。


 でも灰色の子が、敷布の端から毛布をちょっとずつ押してくる。


 それを見て、竜の子は逃げなかった。


 毛布は膝まで届いた。


 ノアは、入口の近くへ移動した。


「ぼく、ここにいる」


「なぜ」


「朝になったら、ちゃんと、おはようって言うため」


 竜の子は、しばらくノアを見ていた。


「……おはようは、命令ではないのか」


「違うよ」


 ノアは言った。


「起きてたら、言うやつ」


 竜の子は、目を閉じなかった。


 けれど、呼吸が少しずつ長くなった。


 ひよりは、敷布から少し離れた場所に座った。


「吸う前に、吐きましょうか」


「眠るために?」


「眠らなくてもいいです。身体に、今は何もしなくていいって伝えるために」


 竜の子は、ゆっくり息を吐いた。


「はぁー……」


 青白い光が、肩のあたりで小さく瞬く。


 けれど、何も浮かなかった。


 何も落ちなかった。


 次の息も。


 その次の息も。


 竜の子は、ただ吐いた。


 いつの間にか、金色の目が閉じていた。


 ひよりは、すぐには動かなかった。


 眠ったのか。


 眠っていないのか。


 確かめなくていい。


 ただ、眠る前に。


 誰も、何も聞かなかった。

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