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第7話 ひよりも、座ります

 その日の午前。


 ととのひ整体所の前には、開店前から人が三人いた。


「……ルゥ」


 ひよりが小さく呼ぶと、水差しの中で泡がぽこん、と弾けた。


『ひより。お客さま、いっぱい』


「うん」


『ひより、うれしい?』


「うれしいよ」


 ひよりはそう言ってから、少しだけ考えた。


「でも、ちょっと、急がないと」


『急ぐの?』


「待ってもらってるから」


 入口を開けると、最初に入ってきたのは、青果店の女の人だった。


 次は、荷車を引く男の人。


 その次は、パン屋のミレアさんだった。


「今日は、主人が来るはずだったんだけどねえ」


 ミレアさんは、少し申し訳なさそうに笑った。


「朝から店でぎっくりして。治癒師さんのところへ連れていったの」


「それは、よかったです」


「ひよりさんにも、見てもらいたいって言ってたよ」


「うん。でも、ぎっくりした日は、まず治癒師さんのほうが安心です」


「言うと思った」


 ミレアさんは笑った。


 ひよりは、一人ずつ話を聞いた。


 身体に触れる前に、何をしているときが一番つらいのかを聞いた。


 座るのがつらい人。


 立っているのがつらい人。


 寝る前になると、肩が耳まで上がってしまう人。


 少し楽な場所を探して。


 吐けるだけ吐いて。


 すぐに良くならなくても、明日まで持っていけるようにする。


 それだけのことを、ひよりは丁寧にした。


 けれど。


 三人目が帰ったころには、ひよりの指先が少し冷たくなっていた。


「ひより」


 ルゥが、水差しの縁から呼ぶ。


『手、つめたい』


「窓が開いてるからかな」


『違うと思う』


「そう?」


『ひより、さっきから、ちゃんと息してない』


 ひよりは、返事をしなかった。


 その代わり、机の上の銅貨を数えた。


 今日だけでも、銅貨が九枚。


 りんごも三つ。


 帰り際のミレアさんは、まだ温かい小さなパンまで置いていった。


「これなら、ちゃんとお店らしい」


 ひよりは、誰に聞かせるでもなく言った。


 そのとき、入口の戸が開いた。


 イリスさんだった。


 濃い紺色の服。


 きれいにまとめた黒髪。


 今日も、最初にはなにも言わなかった。


 ただ、ひよりの前に立っている。


「どうぞ」


 ひよりが言うと、イリスさんは長椅子に座った。


 いつもと同じように、手を膝の上で重ねる。


 けれど、今日は。


 ひよりのほうが、少しだけ落ち着かなかった。


「今日は、どこがつらいですか?」


 イリスさんは、ひよりを見た。


 それから、ゆっくり首をかしげた。


「……あれ?」


 ひよりは、自分の言葉に気づいた。


「ええと。お話しなくても、大丈夫です」


 イリスさんは、またひよりの顔を見た。


 そして。


 机の上にあった紙と炭の棒を借りた。


 細い文字で、一行書く。


『ひよりさんは?』


 ひよりは、その文字を見た。


「私、ですか?」


 イリスさんは、うなずく。


「私は、大丈夫です」


 そう言ったとたん。


 ルゥが、水差しからぴょんと飛び出した。


『だいじょうぶじゃない』


「ルゥ」


『ひより、さっきから吐いてない』


 イリスさんは、紙を見た。


 それから、もう一行書いた。


『座ってください。』


 ひよりは、しばらく動かなかった。


 店の外には、まだ誰かがいる気配がする。


 入口の向こうを通る足音。


 遠くで、荷車の車輪が鳴っている。


「でも、もし待ってる人がいたら」


 言いかけたところで。


 入口からブラムさんが顔を出した。


「ひよりさん。まだ、やってるか?」


「はい。どうぞ」


「違う。外に二人いる」


 ひよりは、反射的に立ち上がろうとした。


 けれど、イリスさんが紙を持ったまま、ひよりを見た。


『座ってください。』


 その文字が、さっきより少しだけ大きく見えた。


 ブラムさんも、ひよりの顔を見て、眉をひそめた。


「顔が白いぞ」


「そうですか?」


「そうだ」


「でも、あと二人なら」


「あと二人のあとに、また二人来る」


 ブラムさんは、入口の横にある料金表を見た。


 ――話さない日も、あります。

 ――座っていくだけでも、いいです。


「これは、客だけの話か?」


 ひよりは答えなかった。


 答えられなかった。


 しばらくして、ひよりは長椅子に座った。


 いつもお客さんが座る場所に。


 木箱を足元へ置く。


 背中に薄い敷布を当てる。


 イリスさんは、何も言わずに、ひよりの隣の椅子に移った。


「……変な感じです」


「何がだ?」


 ブラムさんが聞く。


「私が、座ってる」


「人間なら座るだろう」


「そうですけど」


 ひよりは、少し笑った。


 そして、目を閉じた。


「吸わなくていいから」


 ルゥが言った。


『吐くんだよ』


「はい」


 ひよりは、ゆっくり息を吐いた。


「はぁー……」


 朝からずっと、胸の奥に残っていたものが、少しだけ下へ落ちていく。


 次の息は、勝手に入ってきた。


 ひよりは、そのことに驚いた。


「……本当に、来るんだね」


『来るよ』


 ルゥは、得意そうにふわりと揺れた。


『ひよりにも、来る』


 少し休んでから。


 ひよりは、入口の外へ出た。


 待っていた二人に、頭を下げる。


「ごめんなさい。今日は、ここまでにさせてください」


 二人とも、少し驚いた顔をした。


 けれど、年配の男の人が言った。


「具合悪いのか?」


「少しだけ、疲れました」


「そりゃそうだ。朝から、ずっと人が入ってる」


「明日、来てもいいですか?」


 もう一人の女の人が聞いた。


「はい。明日は、最初に座ってください」


 ひよりがそう言うと。


 二人は、思ったよりあっさりとうなずいた。


「じゃあ、明日だな」


「急がなくていいよ」


 その言葉を聞いて。


 ひよりの胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 夕方。


 ひよりは新しい木の板に、炭の棒で文字を書いた。


 ――午前は、三人まで。

 ――午後は、ゆっくり。

 ――ひよりも、ときどき休みます。


「最後の一行、いるかな」


 ひよりが言うと。


 ルゥは、すぐに答えた。


『いる』


 イリスさんは、静かにうなずいた。


 ブラムさんは、板を見てから言った。


「今度こそ、商売の板に見えん」


「そうですか?」


「だが」


 ブラムさんは、少しだけ笑った。


「ここへ来る奴には、分かるだろう」


 その夜。


 ととのひ整体所の長椅子には、ひよりが寝ていた。


 足元には木箱。


 肩には薄い敷布。


 水差しの中では、ルゥが小さく光っている。


『ひより』


「うん」


『今日は、ひよりがお客さま』


「そうだね」


『お代は、りんご?』


「……明日にして」


 ひよりは目を閉じた。


 次の息が、静かに入ってきた。

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