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第6話 話さない日も、あります

 料金表の下に置かれていた二枚の銅貨と、短い手紙。


 ひよりは翌朝も、それを机の端に置いたままにしていた。


『今日は話せなかった。また来る。』


 何度読んでも、手紙は短かった。


 だからこそ、ひよりには、少しだけ重かった。


「二枚、返したほうがいいかな」


 ひよりが言うと、ルゥが水差しから顔を出した。


『また来るって、書いてあるよ』


「そうだけど。銅貨三枚って書いたから」


『二枚しか持ってなかったのかも』


「うん」


『じゃあ、二枚でいいんじゃない?』


「……そうかな」


 ルゥは、ふわふわと銅貨の上まで飛んだ。


 水色の身体が揺れるたび、朝日が銅貨に反射する。


『ひよりは、りんご五つでも、うれしそうだったよ』


「それは、りんごだったから」


『二枚も、二枚だよ』


 ひよりは笑った。


「そうだね。二枚は、二枚」


 ちょうどそのとき。


 入口の戸が、そっと開いた。


 音が小さかったので、ひよりは最初、風だと思った。


 けれど、そこに若い女の人が立っていた。


 濃い紺色の服に、細い指先。


 肩までの黒髪は、きれいにまとめられている。


 でも、入口の前で立つ姿は、どこに手を置けばいいのか分からない人みたいだった。


「どうぞ」


 ひよりが言うと、その人は小さくうなずいた。


 長椅子まで来て、座る。


 それから、膝の上で手を重ねた。


 なにも言わなかった。


 ひよりも、すぐには言わなかった。


 窓の外で、荷車の車輪が石畳を転がっていく。


 水差しの中では、ルゥが静かに丸くなっている。


 少ししてから、ひよりは机の二枚の銅貨を見た。


 それから、目の前の人を見た。


「昨日、来てくれましたか?」


 女の人は、また小さくうなずいた。


「手紙も」


 うなずく。


「ありがとうございます」


 ひよりはそう言ってから、少し考えた。


「今日は、お話をしますか?」


 女の人の指が、ほんの少しだけ強く重なった。


 首を横に振る。


「分かりました」


 ひよりは、すぐに答えた。


「じゃあ、今日は話さない日ですね」


 女の人が、顔を上げた。


 驚いたような目だった。


「言いたくないことがある日も、ありますよね」


 ひよりは、薄い敷布を長椅子に広げた。


「ここでは、言わなくても大丈夫です」


 女の人は、しばらく動かなかった。


 やがて、肩から、少しだけ力が抜けた。


 ひよりは、木箱を足元に置いた。


「足、ここに乗せられますか?」


 女の人は言われたとおりにした。


 それから、胸の前に置いた手をほどいた。


「触ってもいいですか?」


 うなずきが返ってくる。


 ひよりは、背中の上のほうに、そっと手を置いた。


 硬い、と言えば、硬かった。


 でも、それは石みたいな硬さではなかった。


 ずっと、なにかを抱えて離さないようにしている硬さだった。


「今日は、吸わなくていいです」


 ひよりは、いつものように言った。


「吐けるだけ、吐きましょう」


 女の人の息が、かすかに揺れた。


「……はぁ」


 小さな吐息だった。


 ひよりは待った。


 次の息が来るまで。


 女の人は、二度目には、少し長く吐いた。


 そのあとで、肩がひとつ下がった。


 ルゥが、水差しの中で、ぽこん、と泡を弾けさせる。


 ひよりは、背中に触れたまま、小さな声で聞いた。


「今日は、誰かに、たくさん話しかけられましたか?」


 女の人は、少し考えて。


 首を横に振った。


「逆ですか?」


 今度は、うなずいた。


 ひよりは、それ以上聞かなかった。


 誰にも話しかけられない日にも。


 話せない日がある。


 言葉がないから、平気とは限らない。


「ここに座っている間は」


 ひよりは言った。


「返事をしなくていいですよ」


 女の人の目から、涙が一粒だけ落ちた。


 泣くほどのことじゃない、と自分で驚いているような顔だった。


 ひよりは、布を一枚差し出した。


 女の人は受け取り、目元を押さえた。


 しばらくして。


 その人は、長椅子からゆっくり立ち上がった。


 来たときより、背中がまっすぐになったわけではない。


 痛みだって、消えたわけではないだろう。


 けれど、手はもう、ぎゅっと重なっていなかった。


「お名前、聞いてもいいですか?」


 ひよりが尋ねると。


 女の人は、少しだけ迷ってから、言った。


「……イリス」


 声は、かすれていた。


「イリスさん」


 ひよりは笑った。


「また、話さない日に来てください」


 イリスさんは、目を伏せた。


 でも、帰り際には。


「……ありがとう」


 とだけ、言った。


 その日の午後。


 ひよりは料金表を外した。


 木の板の下には、まだ少しだけ白い場所がある。


 炭の棒を持って、考える。


「何を書くの?」


 ルゥが聞いた。


「料金じゃないこと」


 ひよりは、ゆっくり文字を書いた。


 ――話さない日も、あります。

 ――座っていくだけでも、いいです。


 少し曲がった。


 けれど、ひよりは書き直さなかった。


 夕方、ブラムさんが見回りの途中で立ち寄った。


 料金表を読んでから、低い声で言う。


「また、分かりにくいことを書いたな」


「そうですか?」


「商売の板には見えん」


「整体所の板には、見えますか?」


 ブラムさんは、しばらく答えなかった。


 そして、入口の外を見た。


 通りの向こうで、誰かが立ち止まっている。


 板を読んでいる。


 けれど、入ってはこない。


「……見える」


 ブラムさんは言った。


「少なくとも、来る場所ではあると分かる」


 ひよりは、少しだけうれしくなった。


 その夜。


 水差しの中で、ルゥが小さく光った。


『ひより』


「うん?」


『言葉が外に出ないとき、水もあるよ』


「うん」


『水は、待ってると、また流れる』


 ひよりは、窓を閉めながら笑った。


「じゃあ、ここは待つ場所にしよう」


 ととのひ整体所の料金表は。


 まだ、少し白かった。

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