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第5話 料金表は、まだ白い

 りんご園から帰った次の朝。


 ととのひ整体所の入口には、木箱が二つ並んでいた。


 一つには、りんご。


 もう一つには、昨日グラムさんが持たせてくれた、小さな焼き菓子が入っている。


「……食べきれないね」


 ひよりが言うと、水差しの中からルゥが浮かび上がった。


 淡い水色の身体が、りんご箱の上でふわりと揺れる。


『ひより、もらうの上手』


「もらいすぎるのは、ちょっと困るの」


『じゃあ、ひより、あげるの下手?』


「……そうかもしれない」


 ととのひ整体所には、まだ料金表がなかった。


 何度か来てくれる人も、初めて入る人も。


「お代は?」


 と聞いてから、少しだけ困った顔をする。


 ひよりも、そのたびに困った。


 ひよりが元いた世界では、整体はきちんと値段が決まっていた。


 時間があって、回数があって、料金表があって。


 けれど、この町では、ひよりができることを、まだ誰もうまく説明できない。


 怪我を治す魔法ではない。


 痛みを消す呪文でもない。


 少し座って。少し吐いて。


 身体が怖がらない位置を、一緒に探すだけ。


「でも、お店なんだから」


 ひよりは、長椅子に腰を下ろした。


「ちゃんと決めないとね」


『りんご、五つ?』


「りんごを基準にすると、季節で大変なことになるよ」


『じゃあ、トマト三つ?』


「もっと大変です」


 ルゥは、分からない、というようにくるりと回った。


 そのとき、入口の戸が開いた。


「おはよう、ひよりさん」


 顔を出したのはブラムさんだった。


 町の門番をしている大きな身体に、今日はなぜか、薄い木の板を抱えている。


「それ、なんですか?」


「靴修理屋の奥にあった。前の店主が、値札に使っていた板だ」


 ブラムさんは、木の板をひよりの前に置いた。


 ちょうど、看板より少し小さいくらいだ。


「料金表でも書けばいい」


「……やっぱり、必要ですよね」


「必要だな。人は値段が分からないと、遠慮する」


 ひよりは木の板を見た。


 白い木目が、朝の光を受けている。


 なにも書かれていない。


「何をする場所なのかも、まだ分かりにくいですし」


「分かりにくいな」


「はっきり言いますね」


「門番だからな」


 ブラムさんは悪びれずに笑った。


「だが、分かりにくいからこそ、来た奴が話せるんだろう」


 ひよりは、少し驚いた。


「そう、ですかね」


「ダンもそうだった。治してくれ、じゃなくて。眠れん、と言った」


 ひよりは、うなずいた。


 肩が上がったまま眠れなかったダンさん。


 りんご園を見上げられなかったグラムさん。


 みんな、最初に口にする言葉は違う。


 でも、その奥には。


 少しだけ、楽に生きたい、がある。


「銅貨三枚」


 ひよりは、ぽつりと言った。


「え?」


「一回、銅貨三枚にします」


 ブラムさんは、ちょっとだけ目を丸くした。


「安くないか」


「安いですか?」


「治癒師に頼めば、もっとする」


「私は治癒師じゃないので」


「それもそうだが」


 ひよりは、木の板に炭の棒を当てた。


 ゆっくり、文字を書く。


 曲がった。


 でも、昨日のりんご園の看板よりは、少しだけ真っ直ぐだった。


 ――身体を見ます。

 ――銅貨三枚。

 ――お代が難しいときは、先に言ってください。


 書き終えてから、ひよりは首をかしげた。


「最後の一行、変ですか?」


 ブラムさんは、板をのぞき込んだ。


「いや」


 短く言ったあとで。


「おまえらしい」


 それから、お昼を少し過ぎたころ。


 ととのひ整体所に、ミレアさんが来た。


 町のパン屋さんで、朝から晩まで生地をこねている女の人だ。


 手首を布でゆるく巻いている。


「昨日は助かったよ」


 ミレアさんは笑った。


「今日も、少しだけ見てもらっていい?」


「もちろんです」


「料金表、できたんだね」


「はい。今朝」


 ミレアさんは木の板を読んだ。


 そして、最後の一行のところで、少しだけ笑った。


「いいねえ、これ」


「変じゃないですか?」


「変じゃないよ。うちの店にも書きたいくらいだ」


 ミレアさんは長椅子に座った。


 今日は、手首よりも肩が上がっていた。


「パンが焼き上がるのを待つ時間ってね」


 ひよりがそっと肩に触れると、ミレアさんが話し始めた。


「待つしかないのに、次のことを考えちゃうんだよ。次の生地、次のお客さん、明日の粉の量」


「待っているのに、急いでるんですね」


「そうそう。頭の中だけ、ずっと走ってる」


 ひよりは、ミレアさんの背中に薄い敷布を当てた。


「じゃあ今日は、走っている頭を止めるんじゃなくて」


「うん」


「椅子に座らせてあげましょうか」


 ミレアさんは、目を閉じた。


「どうやって?」


「吐いて。肩を、椅子にもたせて」


「それだけ?」


「それだけです」


 息を、ふう、と長く吐く。


 窓の外では、通りを荷車が通っていく。


 店の奥で、ルゥが水差しの中をゆらゆら揺らしている。


「……ああ」


 ミレアさんの声が、少しだけ低くなった。


「パンが焼けるのを待つ時間って、悪くないね」


「はい」


「お茶を飲める時間だ」


「それも、仕事のうちです」


 ミレアさんは目を開けた。


「それ、パン屋の主人にも言ってやって」


「今度、来てもらいましょうか」


「たぶん、来るよ。あの人も肩、すごいから」


 帰り際。


 ミレアさんは銅貨を三枚、ひよりの手のひらに置いた。


 小さな音がした。


 ちゃりん、と。


 りんごより、ずっと軽い音だった。


 けれど。


 ひよりは、その重さをちゃんと感じた。


「ありがとうございました」


「こっちこそ」


 ミレアさんは入口を出てから、料金表をもう一度振り返った。


「ひよりさん」


「はい」


「お代が難しいときは、先に言っていいんだね」


「はい」


「じゃあ、次にパン屋の主人が来たら。少し高いパンを持たせるよ」


「それは、先に言わなくても大丈夫です」


 ミレアさんは声を立てて笑った。


 夕方。


 ひよりは、机の上に銅貨を三枚並べた。


 ルゥが、その上をゆっくり飛ぶ。


『りんごより、小さいね』


「うん」


『でも、ひより、うれしそう』


 ひよりは、三枚の銅貨を指先でそっと寄せた。


「ちゃんと、ここにいていいって言ってもらえた気がするの」


 白かった木の板には、まだ三行だけ。


 ととのひ整体所の料金表は、できたばかりだった。


 けれどその日の夕方。


 板の下には、いつの間にか小さな籠が置かれていた。


 中には、銅貨が二枚。


 それから、短い手紙が一枚。


『今日は話せなかった。また来る。』


 ひよりは、しばらくその文字を見ていた。


「ルゥ」


『うん』


「明日も、開けようか」


 水差しの中で、ルゥがぽこん、と泡を弾けさせた。


『うん。看板、曲がってるけどね』


「それは、味です」

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