第4話 りんご園は急がない
翌朝、ととのひ整体所の前には、グラムさんと若い人が二人立っていた。
「連れてきた」
グラムさんは、いつものように不機嫌そうに言った。
けれど今日は、腰を押さえていなかった。
隣にいるのは、赤い髪をきつく結んだ女の子と、背の高い男の子だった。二人とも、りんごの木の葉っぱを服につけている。
「孫のエナと、手伝いのトウマだ」
「こんにちは」
ひよりが頭を下げると、二人も慌てて頭を下げた。
「えっと。俺たち、別に痛いところはないんですけど」
トウマくんが言った。
「まだ」
グラムさんが横から言う。
「まだ?」
「毎日あんなに箱を運んで、脚立を上って、寝る前まで明日の段取りをしておる。痛くならんほうがおかしい」
「じいちゃん」
エナちゃんが、少し困った顔をした。
「忙しいんだもん。祭りまでに出荷しないと」
「分かっておる」
「分かってないよ。去年も一人で全部やろうとして、途中で寝込んだくせに」
グラムさんが黙った。
ひよりは、三人の顔を見た。
なんだか、昨日のグラムさんの腰を見ているみたいだった。
誰かが心配していて。
でも、心配されている人は、まだ頑張れると思っている。
「りんご園、見に行ってもいいですか?」
「おまえが?」
「はい」
「何をする」
「分かりません」
ひよりは正直に言った。
「でも、皆さんがどんなふうに働いているか見ないと。楽になるやり方も、探せない気がします」
グラムさんは、少し考えた。
「……変な整体師じゃな」
「よく言われます」
「わしはまだ言っておらん」
「これから言うかなと思って」
グラムさんは、ほんの少しだけ笑った。
りんご園は、町の外れの丘にあった。
赤い実が、朝の光を受けて木々のあいだからのぞいている。
きれいだった。
でも、近くで見ると、地面には木箱がいくつも並び、脚立は斜めに置かれ、収穫したばかりのりんごが籠からあふれていた。
「きれいですね」
ひよりが言うと、グラムさんは黙った。
「今年は、本当にいい実です」
「……そうじゃろ」
その声には、少し誇らしさがあった。
エナちゃんは、木箱を抱えていた。
「これ、納屋まで運びます」
「待ってください」
ひよりは、木箱の前にしゃがんだ。
「重いですか?」
「平気です」
「どれくらい?」
「平気な重さです」
「うん」
ひよりは、エナちゃんの手を見た。
指先が白くなっていた。箱を持つ前から、力が入っている。
「じゃあ、持つ前に一回だけ、息を吐いてみましょう」
「今?」
「今」
「でも、運ばないと」
「運ぶ前に」
エナちゃんは少し戸惑った。
けれど、ひよりの顔を見て、小さく息を吐いた。
「はぁー……」
「もう一回」
「はぁー」
「じゃあ、箱を持ってみてください」
エナちゃんは、さっきよりゆっくり持ち上げた。
「あ」
「どうですか?」
「……腕だけで持ってない感じ」
「足も、使えていますね」
「ほんとだ」
ひよりは、にこっとした。
「運ぶ途中で、肩が上がってきたら。いったん置いていいですよ」
「でも、遅くなる」
「少し遅くなるかもしれません」
ひよりは木箱の中のりんごを見た。
「でも、エナちゃんが明日も運べるなら。そのほうが、りんご園は急がなくていいです」
エナちゃんは、箱を抱えたまま黙った。
それから、少しだけうなずいた。
トウマくんには、脚立の昇り降りを見せてもらった。
彼は背が高く、動きも速い。
でも、降りるときにいつも片方の足へ、どん、と体重を預けていた。
「膝、痛くないですか?」
「全然」
「本当に?」
「……夕方だけ、ちょっと」
「夕方は、身体が本当のことを言いやすい時間なんです」
「身体って、そんなにしゃべるんですか」
「言葉ではしゃべりませんけど」
ひよりは、脚立の横に立った。
「降りるとき、最後の一段だけ、ゆっくりにしてみてください」
「それだけで?」
「それだけです」
トウマくんは半信半疑で、脚立を降りた。
最後の一段だけ、足の裏を地面に置く。
どん、ではなく。
とん、と。
「あれ」
「どうですか?」
「……いつもより、膝がびっくりしてない」
「びっくりしないの、大事です」
その言葉を聞いて、ルゥがひよりの肩の近くでふわりと揺れた。
『びっくりしない、りんご園』
「うん。いいね」
ひよりは、園の端にあった古い板を借りた。
炭で、少し大きな字を書く。
急ぐ前に、吐く。
疲れたら、置く。
「なんじゃ、これは」
グラムさんが言った。
「りんご園の看板です」
「わしの園に勝手に看板を増やすな」
「嫌なら、外します」
グラムさんは板を見た。
エナちゃんも、トウマくんも見た。
しばらくしてから、グラムさんは言った。
「……ここでいい」
「はい」
「だが、字が少し曲がっておる」
「味です」
「そこは譲らんのか」
「譲りません」
昼前には、エナちゃんとトウマくんだけでは足りないことが分かった。
グラムさんが、町へ人を呼びに行くことになった。
「若いのを使うのは、わしの役目じゃ」
「お願いします」
「おまえは、何をする」
ひよりは、りんごの木を見上げた。
「皆さんが、明日もここへ来られるようにします」
グラムさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
でも、帰り際に小さく言った。
「それも、大事な仕事じゃな」
その日の帰り道。
エナちゃんは、りんごを一つ、ひよりの手に押しつけた。
「これ、今日の分」
「今日も?」
「じいちゃんが言ってたから」
「一日一つでいいんですよ」
「でも、ひよりさんも疲れたでしょ」
ひよりは、りんごを見た。
赤くて、少しだけ傷がある。
「じゃあ、今日は半分にします」
「半分?」
「ルゥと」
水の精霊は、りんごの周りをくるくる回った。
『甘い色、見たい』
りんご園の午後は、少しだけゆっくりになった。
それでも、木にはちゃんと、実が残っていた。




