第2話 りんごを五つ、もらいました
ととのひ整体所の、最初のお客さんは。
開店から三十分、だれも来なかった。
「……ルゥ」
ひよりが呼ぶと、窓辺に置いた水差しの中で、ちいさな泡がぽこん、と弾けた。
水差しの水が、ふるりと揺れる。
次の瞬間、水面から淡い水色の光がゆっくり浮かび上がった。光は小さな雲のようにまとまり、丸い身体と、つぶらな目を形作る。
ルゥは、水の精霊だった。
ひよりがこの世界に来たばかりのころ、森の泉で出会った。手のひらに乗るほど小さく、いつも水の中にいる。けれど、ひよりが呼べば、こうして水差しや桶の水から姿を現してくれる。
声は、頭の中に直接届く。
『ひより。お客さま、来ないね』
「うん」
ルゥは、ふわふわと窓辺まで浮かんだ。身体の端から、細かな水滴がきらきら落ちている。
『看板、曲がってるからかな』
「それは、たぶん関係ないよ」
『ちょっとだけ曲がってるよ』
「ちょっとだけなら、味です」
ルゥは、看板のほうへ顔を向けた。
水色の身体が、くるりと傾く。
『味って、曲がってること?』
「そういうことにしておくの」
ひよりは、入口のほうを見た。
昨日ダンさんが置いていったトマトは、窓際の皿に乗せてある。店の中はまだ、靴修理屋さんの革の匂いが少し残っていた。
施術台はない。
いまあるのは、古い長椅子と、ブラムさんが持ってきてくれた薄い敷布。それから、足を乗せるための木箱が一つ。
整体所と名乗るには、少しだけ心細い。
「最初から、お客さんがいっぱい来るわけないよね」
『いっぱい来たら、ひより、疲れるよ』
「それはそう」
ひよりは笑った。
ルゥは、ひよりの肩の高さまで浮かび、心配そうに揺れた。
『ひよりも、少し休む?』
「うん。お客さんが来るまでね」
そのとき、入口の前で、こつん、と杖の音がした。
ルゥが、ぴゅっと水差しの中へ戻る。
水面が静かになった。
「……ここは、あれか」
背の低いおじいさんが立っていた。
白い髪はきれいに整えられている。でも腰が曲がっていて、片手はずっと腰の後ろに当てられていた。
「整体所、です」
「治癒師ではないのだな」
「はい」
「魔法も使えんと聞いた」
「はい」
「では、なにをする」
ひよりは、昨日と同じ質問だな、と思った。
「お話を聞いて。身体が少し楽になるやり方を、一緒に探します」
「ふん」
おじいさんは、看板を見た。
それから、少し考えたあとで言った。
「わしはグラムだ。治してくれとは言わん」
「はい」
「腰が……ちょっとだけ、邪魔をする」
「それは、困りますね」
「困っとらん」
「じゃあ、少しだけ不便ですか?」
グラムさんは、口をへの字にした。
「……少しだけな」
ひよりは、入口を開けた。
「どうぞ。座れそうですか?」
「座るのが面倒なんじゃ」
「立ったままでもいいですよ」
「それはそれで疲れる」
「そうですよね」
グラムさんは、むすっとしたまま長椅子に腰を下ろした。
座るまでに、ずいぶん時間がかかった。
ひよりは急かさなかった。
人が身体を動かすときには、ときどき、勇気がいる。
「痛い場所を触っても、いいですか?」
「強くはするな」
「しません」
「若い娘は、すぐ頑張らせようとする」
「私は、頑張らせるのがあまり得意じゃないです」
「それで商売になるのか」
「そこは、これから考えます」
グラムさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
ひよりは腰のあたりにそっと手を置いた。
硬い。
石みたいだ、と思った。
でも、それを「硬いですね」と言うのは、なんだか違う気がした。
「最近、歩く距離が増えましたか?」
「減った」
「じゃあ、座っている時間が増えた?」
「増えた」
「眠れていますか?」
「……朝は早い」
「夜は?」
グラムさんは答えなかった。
窓の外で、風が吹いた。
水差しの中で、ルゥが小さく揺れる。
「りんご園、ですか?」
ひよりが言うと、グラムさんが顔を上げた。
「なぜ分かる」
「袖に、葉っぱがついてます」
それは、りんごの葉だった。
「今年は、実が多い」
グラムさんは、ぽつりと言った。
「枝が折れんように、間引きもした。水もやった。いい色になるはずだ」
「楽しみですね」
「……だが、腰がこうだ。脚立に乗れん。箱も運べん」
ひよりは、うなずいた。
痛いから困っているんじゃない。
大事に育てたものを、最後まで世話できないかもしれないから、身体がずっと固くなっている。
「グラムさん」
「なんだ」
「今日は、治す日じゃなくていいですか」
「なんだと?」
「身体に、もうちょっと安心してもらう日です」
グラムさんは眉をひそめた。
「身体は、りんご園が心配だって分かってるんだと思います」
「身体が?」
「はい。グラムさんがずっと心配だから、身体もずっと、次の箱を持ち上げる準備をしてる」
ひよりは、木箱をグラムさんの足元に置いた。
「ここに足を乗せてみてください。少し楽な角度、ありますか?」
グラムさんは言われたとおりにした。
「……少し」
「じゃあ、そのまま。吸わなくていいので、吐きましょう」
「また、それか」
「はい。またです」
グラムさんは目を閉じた。
「はぁー……」
長く吐いた。
ひよりは、腰に触れたまま待つ。
「りんご園のことは、いまは考えなくていいです」
「考えんようにすると、余計考える」
「そうですね」
「おまえ、適当だな」
「でも、今すぐ箱を運ばなくてもいいですよね」
グラムさんは黙った。
「今日は、座って、吐いて。立つときに少し楽なら、それで充分です」
何度か、呼吸を繰り返した。
やがてグラムさんの肩が下がった。
腰のまわりも、さっきの石みたいな固さが、少しだけ薄くなる。
ひよりは手を離した。
「立てそうですか?」
「分からん」
「ゆっくりで」
グラムさんは、杖をついて立った。
いつもなら、立ち上がった直後に顔をしかめるのだろう。
けれど今日は、眉間のしわが一つ、減っていた。
「痛みは、ありますか?」
「ある」
「はい」
「だが」
グラムさんは、腰に手を当てたまま、ゆっくり背を伸ばした。
「さっきより、ここにおる」
「ここに?」
「痛みが、遠くに行っておらん。ちゃんと腰におる」
ひよりは、少し考えた。
「分かります」
「分かるのか」
「怖い痛みじゃなくなったのかもしれません」
グラムさんは、それを聞いて、しばらく黙っていた。
「明日も来る」
「はい」
「りんごの話をする」
「はい」
「おまえは、りんごを食べる」
「……それは、料金ですか?」
「そうだ」
翌朝。
ととのひ整体所の前には、りんごが五つ置かれていた。
赤くて、少し傷があって、でも、手のひらに乗せるとずっしり重い。
籠の上には、短い手紙が添えられていた。
『腰はまだ痛い。だが、昨日より空を見た』
ひよりは、りんごを一つ持ち上げた。
「ルゥ」
呼ばれると、水差しの中から水色の光がふわりと浮かび上がった。
ルゥは、昨日と同じ小さな姿になって、りんごの周りをくるくる回る。赤い果実に興味津々らしく、身体の端を伸ばして、そっと表面に触れた。
『うん?』
「今日のお昼、りんごにしようか」
『五つとも?』
「……一つだけにしよう」
ひよりはそう言ったけれど。
その日の夕方には、なぜか二つ目を切ることになった。
ととのひ整体所には、午後からお客さんが四人も来たのである。




