第1話 看板に、名前を書く
翌朝、ひよりは木箱に座っていた。
町の外れ。人通りはそこそこあるのに、建物はずいぶん寂しい。
目の前の店は、元は靴修理屋だったらしい。窓は片方にひびが入り、戸は閉まりきらず、看板だけが半分ほど落ちていた。
「ここ、ですか」
「嫌かい?」
声をかけたのは、昨日の門番だった。
名前はブラム。鎧を脱ぐと、思ったより細い人だった。仕事の合間に来たらしく、片手には焼きたてらしい丸パンを二つ持っている。
「大家は、使わないなら好きにしていいってさ。家賃は……まあ、商売が軌道に乗ってからでいい」
「そんなに、いいんですか?」
「昨日、あんたが助けた人が、荷運び組合の顔役でね」
ひよりは、少し困った。
「助けたわけじゃないです」
「本人は助かったって言ってる」
「でも、傷を治したのは回復術師さんです」
「それでも、息を取り戻したのはあんたの手だ」
ブラムは、木箱の隣にパンを置いた。
「町には回復術師が一人しかいない。怪我人も病人も、まずあそこへ行く。だがな。怪我じゃないのに、ずっと苦しそうなやつもいる」
ひよりは、店の戸を見た。
ひびの入った窓。くたびれた壁。少し掃除をすれば、陽の光は入りそうだった。
「……ここで、できるかな」
「何を?」
「整体です」
ひよりは答えた。
「たぶん、すぐ治すことはできません。でも、少し眠れるようになるとか。肩の力が抜けるとか。明日をちょっとだけ、歩きやすくするとか」
ブラムは、ふうん、と言った。
「地味だな」
「はい」
「でも、町には要るかもしれん」
そんなふうに言ってもらえるとは思わず、ひよりは少しだけ笑った。
午前中いっぱい、二人で店を掃除した。
床には靴底の革くずが残っていた。壁際には古い釘が落ちていて、棚の奥からは干からびた小さな花が出てきた。
「前の靴屋さん、花を飾ってたんですね」
「奥さんが好きだったらしい」
「じゃあ、また飾りたいです」
「店を借りた初日に、花の話か」
「大事ですよ。たぶん」
ブラムは笑った。
昼を過ぎたころ、店の前に大きな影が落ちた。
「ここが、昨日の娘の店か」
荷車を押してきた大柄な男だった。首が太い。腕も太い。けれど、右の肩だけが不自然に上がっている。
「俺はダン。荷運びだ」
「ひよりです」
「昨日、組合のやつが世話になったって聞いた」
ダンはひよりを上から下まで見た。
「……で? あんた、魔法は使えないんだって?」
「はい」
「薬も?」
「ありません」
「じゃあ、何をするんだ」
「お話を聞きます」
ダンの顔が、少しだけ曇った。
「それで金を取るのか?」
「まだ、看板もないので。今日は取りません」
「そういう話じゃない」
「すみません」
ひよりは頭を下げた。
ダンは、なんだか拍子抜けした顔になった。
「いや……責めたわけじゃない」
「でも、私もまだ、どうしたらいいか全部は分かりません」
ひよりは、店の中に置いたばかりの椅子を指さした。
「ただ、肩がずっと上がっています。痛いですか?」
ダンは黙った。
「荷車を引くと、ここが」
首の付け根を、ぶっきらぼうに叩く。
「夜、眠れなくて」
「いつからですか?」
「半月」
「何か、半月前にありました?」
ダンはすぐには答えなかった。
外で、荷車の車輪がきしんだ。
「……弟が、怪我をした」
ひよりは、うなずいた。
「回復術師に治してもらった。歩けるようにもなった。でも、しばらく荷車は引けない。それで、組合の分も俺が」
「ずっと、頑張ってるんですね」
「別に」
「うん」
ひよりは、否定しなかった。
「座ってください。痛かったら、途中でやめましょう」
ダンは警戒しながらも、椅子に腰を下ろした。
ひよりは、すぐには触らない。
「背中を椅子につけて。足の裏は床に置いてください」
「こうか?」
「はい。じゃあ、吸わなくていいので」
ダンが眉をひそめた。
「吸わなくて?」
「先に、吐きましょう」
ひよりは隣の椅子に座った。
「仕事をしているときって、ずっと次の荷物を持ち上げる準備をしますよね。身体も、たぶん、まだそうしてます」
「荷物なんか、今はないぞ」
「はい。でも身体は、知りませんから」
ダンは、少しだけ笑った。
「変なことを言う娘だな」
「よく言われます」
「誰に」
「……前の世界の人に」
それ以上は言わなかった。
「はぁーって、吐いてみてください」
「長く?」
「長くなくていいです。出せる分だけ」
ダンは一度、鼻で息を吐いた。
「もっと、声に出しても大丈夫です」
「おっさんがか?」
「誰も見てません」
「嬢ちゃんが見てる」
「見てますね」
ダンは、また少し笑った。
それから、観念したように目を閉じた。
「……はぁー」
大きな身体から出た息は、思ったより細かった。
「もう一回」
「はぁー」
肩が、ほんの少し下がった。
「今度は、勝手に入ってくる息を待ちましょう」
「待つ?」
「はい。頑張って吸わなくていいです」
店の中に、静かな時間ができた。
壁の向こうで誰かが話している。遠くで馬が鳴いた。ひびの入った窓から、風が一筋だけ通る。
ダンの胸がゆっくり動いた。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
「……あれ」
ダンが目を開けた。
「どうですか?」
「肩が、ない」
「ない?」
「いや、あるんだが。さっきより、ここにない感じだ」
ひよりは笑った。
「ちょっと、下に降りたんですね」
「そんなことがあるのか」
「あります。たぶん」
ひよりの「たぶん」に、ダンは吹き出した。
「本当に整体師なのか、おまえ」
「今日から、そうなりたいです」
ダンは立ち上がった。
首をゆっくり回す。痛みが消えたわけではないのだろう。それでも、さっきより表情がやわらかかった。
「いくらだ」
「今日は、無料です」
「それじゃ困る」
ダンは荷車の荷台を探り、布袋をひとつ出した。
「トマトだ。余りもんだが」
「えっ」
「食え」
袋の中には、まだ青い小さな実がいくつも入っていた。
「ありがとうございます」
「明日も来る」
「はい」
「看板、出しとけ。迷うだろ」
ダンはそう言って、荷車を押して去っていった。
夕方。
ひよりは店の前で、古い板に炭で字を書いていた。
一文字目を書いて、少し曲がった。
二文字目も、少し曲がった。
でも、三文字目まで書いたところで、ひよりは筆を止めた。
胸の奥にあったものが、ふっとほどけた。
知らない世界で。
誰かの身体が少しだけ楽になって。
明日も来ると言ってくれた。
「よし」
ひよりは、最後の字まで書いた。
ととのひ整体所
――吸う前に、吐く。
看板を立てると、夕陽がちょうど文字の上に落ちた。
その日、小さな整体所が、異世界の片隅にできた。




