## プロローグ 吸う前に、吐く
その男は、門の前で倒れていた。
夕方の風が、石造りの城壁にぶつかって、ひゅう、と細い音を立てている。
「回復術師を呼べ!」
「もう呼んでる! でも魔力切れだ!」
「くそっ、こんな日に魔物避けの結界まで――」
人が集まっていた。
荷車を引く商人。買い物帰りの女の人。鎧を着た門番さん。みんなが、倒れた男を見下ろしている。
男の脇腹には、黒く濡れた布が巻かれていた。息が浅い。顔色が悪い。苦しいのを、歯を食いしばって隠そうとしている顔だった。
ひよりは、人の輪のいちばん後ろで、そっと荷物を下ろした。
この世界に来て、三日目だった。
魔法もある。魔物もいる。パンはやたら硬い。水は貴重で、お風呂は三日に一度なら上等。
そしてひよりには、治癒魔法はなかった。
あるのは、前の世界で覚えたことだけだ。
肩が上がっている人は、たいてい、頑張りすぎている。
眠れない人は、身体のどこかを、ずっと見張らせている。
痛い人に「大丈夫」と言いすぎると、その人は大丈夫なふりをしてしまう。
それだけだった。
「……あの」
ひよりが声を出すと、近くにいた門番が振り返った。
「なんだ、嬢ちゃん。危ないから下がって――」
「あの人、いま……吸おうとしてます」
「は?」
「でも、吐けてないです」
自分でも、変な説明だと思った。
けれど、倒れている男の胸は、小刻みに上下していた。息を入れよう、入れようとしているのに、出すほうが置いていかれている。
痛みと恐怖で、身体がずっと、逃げる準備をしている。
「少しだけ。そばに行っても、いいですか」
「だが、傷が――」
「傷は治せません」
ひよりは、はっきり言った。
「でも、息が少し整えば。痛みに耐える力は、残るかもしれません」
門番は困ったように眉を寄せた。
それでも、他にできることがなかったのだろう。小さく、うなずいた。
ひよりは男のそばにしゃがんだ。
「こんにちは」
返事はない。
「急に触りません。ここにいますね」
そう言って、男の視界に入る場所へ手を置く。土の上に、手のひらをぺたりとつけた。
「痛いですよね」
男のまぶたが、ほんの少し動いた。
「怖いですよね」
唇が震えた。
「……し、ぬ……」
「うん」
ひよりは否定しなかった。
「怖いですよね」
男の目から、涙がひとつ、こぼれた。
それだけで、肩がわずかに下がった。
「じゃあ、いまは吸わなくていいです」
ひよりは、できるだけ小さな声で言った。
「まず、吐き切りましょうか」
すう、と言いかけて、やめる。
「はぁーって。長くなくていいです。少しで」
男の喉が鳴った。
ひよりも隣で、ゆっくり息を吐く。
「はぁー……」
風が通るみたいに。
男の胸が、少しだけ沈んだ。
「そうです。上手」
次の息は、勝手に入ってきた。
大きくはない。苦しさがなくなったわけでもない。
けれど、さっきまで身体じゅうで鳴っていた警報が、一つだけ止まったように見えた。
ほどなくして、回復術師が駆けつけた。
傷は治せた。男は助かった。
人だかりが散ったあと、門番がひよりに言った。
「嬢ちゃん。あれは、何の魔法だ」
ひよりは、ちょっと考えた。
「魔法じゃないです」
「じゃあ、何だ」
「……整体、です」
「せいたい?」
「身体は、ちゃんと戻ろうとしてるんです」
ひよりは、夕焼けを見た。
知らない世界の、知らない町だった。
それでも今日、誰かの身体は、少しだけ戻ろうとした。
「そのお手伝いを、するだけです」
後の日、町の外れに、小さな看板が立つ。
植物の鉢と、手書きの施術メモと、なぜか育ちすぎたミニトマトのある場所。
看板には、少し曲がった字で、こう書かれていた。
ととのひ整体所
――吸う前に、吐く。




