第25話 お手伝いは、明日でもいい
その日は、朝からお客さんが多かった。
ひとり。
ふたり。
それから、三人。
ととのひ整体所の前に置いた待つための椅子が、全部埋まった。
ひよりは、入口の看板を裏返した。
表には、いつもの文字。
――吸う前に、吐く。
裏には、小さく。
――今日は、少し待ちます。
「お待たせして、ごめんなさい」
ひよりが言うと。
「急いでないよ」
椅子に座った仕立て屋の女の人が答えた。
「ここで待つのも、少し楽になるからね」
ひよりは、少しだけ安心した。
でも、店の中はいつもより慌ただしい。
水を出して。
座る位置を整えて。
話を聞いて。
窓を少し開けたり、閉めたりする。
ノアは、長椅子の端に座って、その様子を見ていた。
ソラも、いつもの窓辺ではなく。
少し奥の椅子に座っている。
灰色の子は、木箱の上から店の中を見ていた。
『ひより、いっぱい動いてる』
ルゥが水差しの中で揺れる。
「今日は、少しだけ」
『ひよりも、座る?』
「次の方をお迎えしたら」
『次の人、いるよ』
「そうですね」
ルゥは、水面をふるりと揺らした。
『次の次の人も、いる』
「それも、見えています」
ノアが、急に立ち上がった。
「ぼく、水を出す」
ひよりは、振り向く。
「ありがとうございます」
ノアは、一度うなずいた。
でも、その手は、少し固く握られていた。
「お水は、置くだけでいいですか?」
「はい。こぼしそうなら、置かなくても大丈夫です」
「こぼしたら?」
「拭きます」
「怒られない?」
ひよりは、少し考えた。
「びっくりはするかもしれません」
「でも?」
「怒るより先に、布を持ってきます」
ノアは、しばらくひよりを見ていた。
「分かった」
小さな木のコップに水を注ぐ。
最初は、少しだけ傾いた。
でも、こぼれなかった。
ノアは待っていたお客さんの前まで歩き、両手でコップを置いた。
「お水です」
仕立て屋の女の人は、驚いたように目を丸くした。
それから、笑った。
「ありがとう」
ノアは、すぐに返事をしなかった。
でも、少ししてから。
「……うん」
とだけ言った。
*
そのあと。
ソラも立ち上がった。
「わたしも、することがあるか」
「今日は、何をしたいですか?」
「役に立つこと」
「役に立つこと、ですか」
ソラは、待っている人たちを見る。
その目には、少しだけ焦りがあった。
「前は、役に立たないと、そこにいてはいけなかった」
声は小さい。
「山にいるときは、眠らないで空を見ていた。人の国が争いそうなら、雲を動かした。雨が来なければ、水を呼んだ」
「はい」
「ここでも、何かしないと。パンをもらうだけでは、だめだと思う」
ひよりは、施術台の代わりにしている長椅子の横へ座った。
「ソラさん」
「うん」
「役に立たないと、ここにいられない場所だったんですね」
ソラは、答えなかった。
答えなくても、たぶんそうだった。
ひよりは、入口の外を見た。
待つための椅子には、まだ二人座っている。
「今日は、役に立たなくても、ここにいていい日です」
「でも、ひよりは忙しい」
「忙しいです」
「なら、助ける」
「助けてもらえたら、私はうれしいです」
ソラの肩が、少しだけ上がった。
「ただ」
ひよりは続けた。
「助けないと、ここにいられないわけではありません」
ソラは、じっとひよりを見る。
「助けるのは、したい日にすることです」
「したくない日が、あっても?」
「あります」
「ひよりにも?」
「あります」
ひよりは、正直に言った。
「でも、お店を開ける日はありますから。そういう日は、椅子に座る時間を探します」
『ひより、探すの、たまに忘れる』
ルゥが言った。
「ルゥは、よく見ていますね」
『見てるよ』
ソラは、少し笑った。
それから、入口のほうを見た。
「待っている人に。座る場所を、教えてもいいか」
「もちろんです」
*
次に来たのは、大きな荷物を抱えた男の人だった。
肩が上がっていて、顔も固い。
「まだ、待つか?」
少し荒い声だった。
ソラは、入口の近くまで行った。
でも、すぐに答えなかった。
ひよりのほうを見る。
ひよりは、小さくうなずく。
「はい」
ソラは言った。
「でも、あの椅子は空いている」
「椅子?」
「座って待っていい。ひよりは、ちゃんと聞く」
男の人は、ソラの角を見た。
それから、言われた椅子を見た。
「……おまえが、店の子か」
ソラの指が、少しだけ外套をつかむ。
ひよりは、口を挟もうとした。
でもその前に。
「まだ、分からない」
ソラが言った。
「でも、ここにいる」
男の人は、しばらく黙った。
それから、荷物を床に置いた。
「そうか」
椅子に座る。
「じゃあ、待つ」
ソラは、ゆっくり息を吐いた。
そのとき、灰色の子が木箱から降りてきた。
男の人の荷物のそばまで行く。
そして、荷物が通路を少し塞いでいることに気づいたらしい。
前足で、荷物の端を。
こつ。
と叩いた。
男の人は、それを見た。
「悪い。邪魔だったか」
荷物を壁際に寄せる。
灰色の子は、こつ、と一度鳴らした。
『ここにいる、だね』
ルゥが、うれしそうに言う。
ノアは、水の入ったコップを一つ持ってきた。
ソラは、待つための椅子を一脚、少し横へ向け直した。
ひよりは、それを見た。
店の中には、いつもより人が多い。
けれど、少しだけ広くなった気がした。
夕方。
最後のお客さんを見送ったあと。
ひよりは、入口の看板を表に戻した。
ノアは、空になったコップを数えている。
「六個」
「全部、戻っていますか?」
「戻ってる」
ソラは、待つための椅子に座ったまま、靴の先を見ていた。
「今日は、役に立ったか」
「はい」
ひよりは答えた。
「とても助かりました」
ソラは、少しだけ胸を張った。
それから、すぐに言った。
「明日は、何もしなくてもいいか」
「もちろんです」
「パンを食べるだけでも?」
「はい」
『りんごも、食べるだけでいい?』
「ルゥも、いいですよ」
灰色の子は、木箱の上で丸くなった。
前足が、木を一度叩く。
こつ。
ここにいる。
お手伝いをした日も。
しない日も。
それで、充分だった。




