第24話 パン屋まで、七歩
朝、ミレアがやってきたとき。
手には、いつものパン籠ではなく。
空っぽの小さな袋があった。
「困ったわ」
入口で、ミレアは言った。
「塩が切れちゃった」
「パン屋さんなのに?」
「パン屋だからよ」
ひよりは、なるほど、と思った。
ソラは窓辺から、その袋を見ていた。
「塩がないと、パンは作れないのか」
「ちょっとは作れるけど。おいしいパンが、少し困る味になるの」
「少し困る味」
ソラは、真面目に考え込んだ。
ノアが、長椅子の端から言う。
「塩屋さん、どこ?」
「広場の向こう。ミレアさんのお店からだと近いんですけど」
ひよりは、空の袋を見た。
ミレアが、少し笑う。
「店を開けたばかりでね。火も落とせないし、こねかけの生地もある。困ったことに、足が二本しかない」
『ひよりも、足、二本』
「そうですね」
『ノアも二本。ソラも二本。いっぱいある』
ルゥは、水差しの上で得意そうに揺れた。
「でも、人の足は貸し借りしません」
「貸してもらわなくても」
ソラが、ゆっくり言った。
「買いに行って、いい?」
店の中が、少し静かになった。
ソラは、昨日、三歩だけ外へ出た。
町は逃げないと、ブラムが言った。
でも、町が怖くなくなったわけではない。
ひよりは、ソラの顔を見た。
「どこまで行きたいですか?」
「塩屋まで」
「そこは、広場の向こうです」
「うん」
「途中で、帰りたくなったら?」
「帰る」
「塩は?」
「……次の日にする」
ソラは、少し困ったように言った。
「それで、パンが困る味になっても?」
「ミレアさんが、なんとかする」
「するけどねえ」
ミレアが笑う。
ひよりも笑った。
「では、塩を買いに行く日ではなく。塩屋さんのほうへ、歩いてみる日にしましょう」
「違うのか?」
「同じかもしれないし。違うかもしれません」
ソラは、それを聞いてから、小さくうなずいた。
*
出かける前に。
ひよりは、みんなで入口に座った。
ソラの靴紐を結び直す。
ノアは、自分の外套の留め具を確かめる。
灰色の子は、木箱の上にいた。
「一緒に来ますか?」
ひよりが訊くと。
こつ。
灰色の子は、木箱を一度叩いた。
「ここにいる、ですか?」
灰色の子は、ひよりを見た。
それから、木箱を降りた。
ひよりの足元まで来る。
こつ。こつ。
今度は、石畳を二度叩いた。
ノアが、しゃがみ込む。
「お腹すいた、じゃないね」
『お外、かな』
ルゥが言った。
「そうかもしれません」
ひよりは、灰色の子に手を差し出さなかった。
代わりに、店の前へ一歩出る。
灰色の子は、自分からその後ろをついてきた。
「一緒に行くなら」
ひよりは、みんなに言った。
「今日は、帰ってきたくなった人が一番えらい、ということにしましょう」
「帰ってきたら、えらいのか?」
「はい」
「進んだ人は?」
「それも、えらいです」
「じゃあ、みんなえらい」
ノアが言った。
「そうですね」
『いっぱい、えらい』
ルゥは、小さな水筒に入ってついてくることになった。
水筒の栓は、きちんと閉めない。
少し開けておかないと、ルゥが不満そうに泡を鳴らすからだ。
*
ととのひ整体所から、パン屋までは七歩だった。
もちろん、大人の足で数えれば、もっとある。
けれどソラにとっては。
一歩ずつ、確かめた七歩だった。
一歩目。
店の戸を離れる。
二歩目。
ノアが、ソラの横に並ぶ。
三歩目。
灰色の子が、二人の少し後ろを歩く。
四歩目。
荷車の音がして、ソラの肩が上がる。
「止まりますか?」
「……止まる」
ひよりは、止まった。
みんなも止まる。
荷車は、ただ通り過ぎた。
御者は、こちらを一度見た。
でも、何も言わなかった。
ソラが長く息を吐く。
五歩目。
パン屋の窓から、甘い匂いが流れてきた。
「あれは、パンの匂いか」
「はい」
「塩がなくても、いい匂いだ」
「塩がないのは、まだこれからです」
ミレアの店の前まで来ると。
灰色の子は、店の横の壁に寄った。
知らない匂いと、人の声が多かったからかもしれない。
ノアも、少し離れたところに立つ。
「ここまでで、いい?」
ソラが訊いた。
「誰にですか?」
「みんなに」
ひよりは、ノアと灰色の子を見る。
ノアは、うなずいた。
灰色の子は、壁を。
こつ。
と、一度叩いた。
「ここにいる、ですね」
「じゃあ、塩屋は?」
ソラが、広場の向こうを見た。
見えないくらい遠くはない。
でも、今のソラには遠かった。
ひよりは、袋を持ち上げた。
「今日は、ミレアさんにお願いしましょう」
「でも、困る味になる」
「少し待てば、ならないと思います」
ちょうどそのとき。
パン屋の戸が勢いよく開いた。
「ミレアさん! 粉を、あれ……」
配達の青年が、息を切らして立っていた。
大きな粉袋を背負っている。
そして、ひよりたちを見る。
ソラの角。
ノアの角。
灰色の子。
一瞬だけ、青年の目が迷った。
ソラの手が、外套をつかむ。
けれど、青年はすぐにミレアの空袋を見つけた。
「塩、切れたんですか?」
「そうなのよ」
「じゃあ、ついでに取ってきます。塩屋、帰り道なんで」
「助かるわ」
青年は袋を受け取った。
ひよりたちにもう一度目を向ける。
それから、少しだけ頭を下げた。
「……こんにちは」
ソラは、すぐには答えなかった。
ノアも、答えない。
灰色の子は、壁を一度叩く。
こつ。
青年は、それ以上、待たなかった。
「じゃ、行ってきます」
荷物を担ぎ直して、広場のほうへ行ってしまった。
ソラは、その背中を見送った。
「あの人は、何も聞かなかった」
「はい」
「怖がらなかった?」
「分かりません」
ひよりは言った。
「でも、何も聞かないでくれました」
ソラは、少し考えた。
「それは、いい」
「そうですね」
パン屋の窓から、ミレアが手を振った。
「みんな、こっちへおいで。売り物じゃない、小さいパンがあるよ」
灰色の子の耳が動く。
ノアが、少し笑った。
「二回、鳴らしたら?」
灰色の子は。
こつ。こつ。
今度は、迷いなく二度鳴らした。
ソラが、初めて声を立てずに笑った。
パン屋まで、七歩。
塩屋までは、行かなかった。
けれど帰り道には。
みんなの手に、小さな丸パンが一つずつあった。
それで今日は、充分だった。




