第23話 小さな音を、置いていく
雨は、昼を過ぎるころには止んだ。
石畳には、水たまりが残っている。
空はまだ灰色だったけれど。
ととのひ整体所の前を、人がゆっくり歩くくらいには明るくなっていた。
ひよりは、入口の外に濡れた布を干していた。
その脇で、灰色の子が座っている。
店の中ではなく。
戸のすぐ内側でもなく。
入口の木箱の上だった。
丸い耳には、まだ雨粒が一つ残っている。
「そこ、冷たくないですか?」
ひよりが訊くと。
灰色の子は、尻尾を一度だけ揺らした。
「大丈夫、ですか?」
今度は、前足の爪が木箱を、こつ、と叩いた。
『こつ、だって』
水差しから浮かんだルゥが言った。
「聞こえました」
『返事?』
ひよりは、少し考えた。
「返事かもしれないし。ここにいるよ、かもしれないですね」
灰色の子は、もう一度。
こつ。
と、爪を鳴らした。
ノアが、紙と鉛筆を抱えて近づく。
「合図かな」
「そうかもしれません」
「名前じゃなくても、呼べる?」
「呼ばなくても、分かる合図なら」
ノアは紙に、小さな丸を三つ描いた。
それから、木箱を指さした。
「一回は、ここにいる」
灰色の子は、ノアを見た。
「二回は、お腹すいた」
こつ。こつ。
灰色の子が、続けて二度叩く。
ノアの目が丸くなった。
「合ってた?」
灰色の子は、皿の上に置かれた、りんごの薄切りを見た。
「たぶん、合ってます」
ひよりは、りんごを一枚、木箱の端に置いた。
灰色の子は、すぐには取らなかった。
ひよりの顔を見る。
「食べていいですよ」
それを聞いてから、そっと取った。
しゃく。
小さな音がした。
*
午後になって。
親子が一組、店の前で足を止めた。
母親と、五つか六つくらいの女の子だった。
女の子の髪には、赤い布のリボンが結ばれている。
「あの」
母親が、少し困った顔で言った。
「肩が、ずっと上がっていて。子どもを抱くと、余計につらくて」
「お話を聞かせてもらえますか」
ひよりが言うと、母親は中へ入った。
女の子は、入口のところに残った。
灰色の子を見ている。
「ふわふわ」
小さな声だった。
灰色の子の耳が、ぴん、と立つ。
女の子は一歩、前に出かけて。
自分のお母さんの顔を見た。
母親も、ひよりを見た。
「近くに行っても、いいですか?」
ひよりは、灰色の子を見た。
「灰色の子に、聞いてみましょう」
「どうやって?」
「待ってみます」
女の子は、きょとんとした。
でも、入口の外側で止まった。
手も伸ばさない。
ただ、灰色の子を見る。
灰色の子は、木箱の上で丸くなっていた。
女の子の赤いリボンが、風に少し揺れる。
しばらくして。
灰色の子が、木箱を一度叩いた。
こつ。
『ここにいる、かな』
ルゥが、女の子の頭の中へ小さく言った。
女の子は、目をぱちぱちさせた。
「今の、だれ?」
「水の精霊さんです」
「水、しゃべるの?」
『しゃべるよ』
「しゃべった」
女の子は少し笑った。
それから、ひよりにだけ聞こえる声で言った。
「さわっていい、ってこと?」
「まだ、分かりません」
「じゃあ、どうするの?」
「そばにいるだけにします」
女の子は、またきょとんとした。
けれど、ちゃんとその場に立っていた。
灰色の子は、女の子を見た。
金色の目が、ゆっくり細くなる。
そして。
木箱から降りた。
一歩。
二歩。
女の子の靴の、少し手前まで来る。
女の子は動かなかった。
灰色の子は、地面に落ちていた赤いリボンの端を、前足でつまんだ。
いつの間にか、ほどけていたらしい。
それを、女の子の靴の近くに置く。
こつ。
爪が、石畳を鳴らした。
「りぼん」
女の子は、しゃがんだ。
でも、灰色の子には触れない。
「ありがとう」
灰色の子は、すぐ木箱のほうへ戻った。
女の子は、ほどけたリボンを両手で持っている。
「お名前、なんていうの?」
灰色の子は止まった。
ひよりは、女の子のそばへ行った。
「まだ、呼ばれたくない日なんだと思います」
「じゃあ、どうやってまた会うの?」
ひよりは、少し笑った。
「ここに来たら。こつ、って音が聞こえるかもしれません」
女の子は、それを考えた。
「じゃあ、こつちゃん?」
灰色の子の尻尾が、ぴたりと止まった。
ひよりは女の子に、やわらかく言う。
「それも、今日はまだ、内緒にしておきましょう」
「そっか」
女の子は、素直にうなずいた。
そして、木箱に向かって手を振った。
「またね。こつは、しなくていいよ」
灰色の子は、木箱の上から女の子を見た。
それから、少しだけ迷って。
こつ。
小さな爪の音を、ひとつだけ置いた。
女の子は、うれしそうに笑った。
母親の肩は、まだ痛そうだった。
けれど、帰るころには。
「抱っこする前に、一度座ります」
そう言っていた。
女の子は、赤いリボンを結び直してもらいながら、何度も木箱のほうを振り返った。
灰色の子は、追いかけなかった。
木箱の上で、じっとしていた。
でも、女の子の姿が角を曲がって見えなくなったあと。
前足で、木箱を二度叩いた。
こつ。こつ。
「お腹、空きましたか?」
ノアが訊いた。
灰色の子は、ノアを見た。
そして。
こつ。
今度は、一度だけ鳴らした。
ここにいる。
たぶん、そういう音だった。




