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第22話 呼ばないで、待っている

 雨は、朝から細く降っていた。


 ととのひ整体所の屋根を、ぽつ、ぽつ、と叩いている。


 入口の戸は、いつものように少しだけ開いていた。


 けれど今日は、風が冷たい。


 ひよりは、戸の脇に古い布を挟んだ。


「これで、少しだけ隙間が小さくなります」


『少しだけ、あったかい?』


 水差しの中で、ルゥが泡を一つ作った。


「たぶん」


『たぶんなんだ』


「寒かったら、もう一枚、布を挟みます」


 灰色の子は、長椅子の下にいた。


 昨日より少しだけ前に出ている。


 前足の爪が、敷布の端に乗っていた。


 ノアは、そのそばで紙に丸を描いていた。


 丸の横に、丸。


 さらに、小さな丸。


「何を描いているんですか?」


 ひよりが訊くと、ノアは紙を見下ろした。


「みんな」


「みんな?」


「これが、ひよりさん。これ、ルゥ」


 少し大きな丸と、小さくて水滴みたいな丸を指す。


「これは、ぼく。こっちは、ソラ」


 ソラは、窓辺の椅子に座っていた。


 雨の向こうの石畳を見ている。


「そして、これ」


 ノアの指が、紙のすみに描かれた、ふわふわした丸に止まった。


 灰色の子の耳が、ぴくりと動いた。


「名前、書けないから」


 ノアは言った。


「丸にした」


「いいですね」


 ひよりは、紙のそばにしゃがんだ。


「名前がなくても、そこにいることは描けます」


 灰色の子は、長椅子の下から紙を見た。


 金色の目が、ゆっくり細くなる。


 そのとき、入口の外から声がした。


「失礼するよ」


 ミレアだった。


 雨除けの布を頭にかぶり、大きな籠を両手で抱えている。


「焼きすぎたパンがあるから、持ってきたよ」


「ありがとうございます」


「焼きすぎって言っても、焦げたわけじゃないからね。ちょっと固いだけ」


 ミレアは籠を置いてから、長椅子の下に目をやった。


 でも、すぐには何も言わなかった。


 前に、ひよりが話したからだ。


 見たいものがあっても。


 見られたいかどうかは、別のことだと。


「あら」


 ミレアは、ノアの紙に気づいた。


「上手に描けたねえ」


「みんなです」


「ほんとだ。わたしは、いないのね」


 ノアは少し困った。


「ミレアさん、今、来たから」


「それなら仕方ない」


 ミレアは笑った。


 それから、籠の中から小さな丸パンを一つ出した。


「この子にも、いる?」


 問いかけは、ひよりに向けられていた。


 ひよりは、長椅子の下を見ないまま答えた。


「置いておいてもらえますか。食べたくなったら、取れる場所に」


「分かった」


 ミレアは、小皿の端に丸パンを置いた。


 灰色の子からは、少し離した。


 でも、遠すぎない場所に。


 *


 お昼の少し前。


 雨が、急に強くなった。


 窓が白くなるくらい降っている。


 ソラが、窓から離れた。


「外、消えたみたいだ」


「雨の日は、町が近くなりますね」


「近い?」


「音が、よく聞こえるから」


 屋根の音。


 水たまりを踏む音。


 誰かが、走って帰る音。


 灰色の子は、いつの間にか長椅子の下から半分だけ出ていた。


 丸い耳に、雨音が集まっているみたいだった。


 ノアが、紙の上にもう一つ丸を描こうとして。


 手を止めた。


「ねえ」


 小さく言う。


「呼ぶとき、どうしたらいいんだろう」


 ひよりは、ノアの隣に座った。


「呼ばなくても、いいですよ」


「でも、パンがあるって言いたいときは?」


「パンを置いて。待ってみる」


「ずっと?」


「少しだけ」


 ノアは、皿の丸パンを見た。


「待っている間に、冷めちゃう」


「パンは、冷めても食べられます」


「……そうか」


 ソラが、窓辺から振り向いた。


「前のわたしは、呼ばれると、すぐ行った」


 声は、雨音より少し大きい。


「呼ばれていないときも、行くことがあった。何かが起きる前に、片づけなければならなかったから」


「うん」


 ノアが言った。


「ぼくも、そうだった」


 灰色の子の尻尾が、敷布の上で一度、揺れた。


 ひよりは、丸パンの皿を少しだけ近くへ動かした。


「ここでは、呼ばなくても大丈夫です」


「お腹が空いたら?」


「置いてあります」


「怖くなったら?」


「誰かがいます」


「名前が、なくても?」


「はい」


 ひよりは、ゆっくり言った。


「名前は、呼ぶために必要なこともあります。でも、呼ばないで待つために、名前がなくてもいい日もあります」


 灰色の子は動かなかった。


 けれど、前足が一歩だけ出た。


 爪が、敷布を掴む。


 ノアは、何も言わなかった。


 ソラも、何も言わない。


 ルゥだけが、水差しの中で小さく揺れた。


『待ってる』


 その言葉は、誰の頭の中にも、やわらかく届いた。


 灰色の子が、丸パンの皿へ近づく。


 一歩。


 それから、もう一歩。


 鼻先で、パンに触れた。


 ぱくり、と小さくかじる。


 金色の目が、少し丸くなった。


 ノアの肩が、ほっと下がる。


 でも、やっぱり何も言わなかった。


 しばらくしてから。


 灰色の子は、食べかけのパンをくわえたまま、ノアの紙のところへ戻ってきた。


 前足を一度、紙のすみに置く。


 薄い爪の跡が、丸のそばについた。


 ノアは、それを見た。


「ここに、いた」


「はい」


 ひよりはうなずいた。


「今日は、それが分かれば充分ですね」


 雨は、まだ降っていた。


 誰も、灰色の子を呼ばなかった。


 けれど、ととのひ整体所には。


 ちゃんと、ひとりぶんの居場所が増えていた。

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