第八章 破局
レコーダーの一件から、高宮は変わった。
外部との接触を完全に断ち切ろうとする一方で、少年への態度は日を追うごとに歪んでいった。脅迫された夜のうちに、高宮は少年を再び実験室の椅子に括りつけた。「お前を落ち着かせるためだ」――そう繰り返しながら、その声はもはや研究者のものではなく、追い詰められた者の弁解にしか聞こえなかった。
薬物による鎮静、拘束の強化、そして時折の暴力――どれも長くは効かなかった。少年は観察し、模倣し、そのすべてを己の武器に変えていく。効かないと分かるたびに、高宮の中で何かが少しずつ壊れていった。
鏡を見るたび、高宮は自分の顔に刻まれた皺の深さに驚くことがあった。この十数年で、頬はさらに削げ、背は丸まり、六十五だった体は古希をとうに超えていた。だが鏡の中の目だけは、あの中学の教室で殴られていた十四歳の少年のままだった。歳月は、彼の恐怖を老いさせてはくれなかった。
秋が深まったある夜、高宮は白衣を纏わず、寝間着のまま実験室に降りてきた。目は血走り、手には注射器の代わりに、工具箱から取り出した鉄パイプを握っている。
「……もう限界だ」
低く呟く声は、これまでの冷徹な研究者のものではなかった。
少年は椅子に縛られたまま――いや、実際には拘束の結び目を密かに緩めていたが、それを悟らせないよう、あえて力の抜けた姿勢を保っていた。
「先生、それで何をするつもり」
「黙れ」高宮の声が裂けた。「お前は私の……私の……」
言葉が続かない。長く抑え込んできた憎悪と、育てた者への情が、彼の中で同時に暴れていた。
「パパ、そんなに必死になって、何から守ろうとしてるの」
その一言が引き金だった。高宮は鉄パイプを振り上げ、少年に向かって突進した。
少年は拘束の隙間から自由にしていた片手を動かし、椅子の肘掛けに隠していた木片の切れ端を握った。何日も前からこっそり研ぎ続けてきた、細く鋭い一片だった。
振り下ろされる鉄パイプ。その軌道に合わせるように、少年の腕が鋭く突き出される。乾いた衝突音。
次の瞬間、高宮の体が硬直した。木片は、彼の脇腹の柔らかな隙間を正確に突き刺していた。
「な……ぜ……お前が……」
足元が崩れるように、高宮は少年の目の前で膝をついた。鉄パイプが手から滑り落ち、床に転がる。
少年は荒い呼吸を抑えながら、高宮の目を見据えた。その瞳には、恐怖も後悔もなく、ただ混乱と怒りが渦巻いていた。
「……終わりだ」
かすれた声だったが、確かな決意を帯びていた。
高宮はなおも何かを叫ぼうとしたが、声にならなかった。血を吐きながらも、なお完全には沈まない。痙攣を繰り返す濁った目が、少年を見上げていた。
「……お前は……俺と同じだ……」
「先生」
「俺は……過去に囚われた……だが……お前は……」
言葉が途切れ、また繋がる。血に濡れた口元から、赤黒い泡がこぼれた。
「これは……独りの企みじゃない……分かるか……。私を援助した連中がいる……。もっと……大きな計画の……一部だ……。お前が生まれた場所は、他にもある……」
少年の喉が詰まった。
「他にも……?」
高宮は最後の力を振り絞り、かすれた声で囁いた。
「――お前と同じものが……まだ、どこかで眠っている……。逃げろ……見つかる前に……」
その言葉を吐き終えると、高宮の体は大きく痙攣し、やがて動かなくなった。
地下室に訪れた静寂は、耳を塞ぎたくなるほど重苦しかった。少年は膝から崩れ落ちた。
――高宮は死んだ。だが、その最期の言葉は心の奥深くに突き刺さり、抜けなかった。
まるで呪いのように。
少年は震える手で、高宮の亡骸を見下ろした。その顔に宿っていた憎悪も狂気も、今はただの肉塊の一部となっている。だが言葉は消えていない。焼き付けられた呪詛のように、残り続けていた。
――お前と同じものが、まだどこかで眠っている。
彼は部屋を見回した。キャビネット、施錠されたスチールケース、埃をかぶった段ボール。高宮がここで何を積み上げてきたのか――答えはまだ、この屋敷の中に残されている。
震える手でキャビネットを開くと、膨大なファイルが現れた。見慣れぬコード番号、分厚いバインダー、無数の報告書。研究記録、遺伝子解析データ、成長過程の写真――そのすべてが、自分が「生み出され、管理され、観察されてきた」ことを裏付けていた。
そして、黒い封筒に差し込まれた一枚の書類。「協力機関」とだけ記された欄に、聞いたこともない企業名と、政治家らしき人物の名が並んでいた。
――高宮は、単独犯ではなかった。
少年はその紙を握り締めた。血に濡れた手が、資料の端を赤く染める。
高宮の死は、幕引きではなかった。「序章の終わり」に過ぎない。研究の痕跡は残り、彼を援助した何者かが、まだこの国のどこかで動いている。
薄暗い地下室に、少年は一人呟いた。
「……俺は……どうすればいい」
その問いは、答えのない迷宮の入り口に立つ言葉だった。
しばらくの間、少年は動けなかった。憎むべき相手が死んだというのに、涙も、安堵の笑みも出てこない。ただ、体の芯が空っぽになったような感覚だけがあった。
彼は高宮の書斎に上がり、机の引き出しを開けた。一番奥、鍵のかかった小さな箱の中に、四歳のとき自分が拾って渡した、灰色の石が入っていた。誰にも捨てられず、誰にも見せられず、九年間そこにしまわれていたものだった。
少年はその石を、しばらく掌の上で転がした。この男は、憎むことと、大切にすることを、最後まで区別できなかった。だからこそ、余計に始末が悪かった。
石をポケットに入れると、少年は初めて、静かに一筋の涙をこぼした。誰のためかは、自分でも分からなかった。




