第九章 屋敷を出る日
夜が明ける前に、少年は屋敷を出た。
血のついた服のまま、財布代わりに高宮の書斎から見つけた現金と、黒い封筒の書類だけを持って。門を出るとき、一度だけ振り返った。洋館は闇の中で、ただの古い建物に見えた。人ひとりの人生を、そしてもう一人の存在を、丸ごと呑み込んだ場所には見えなかった。
外の世界を、彼は写真や本でしか知らなかった。
坂を下り、街灯の光が増えていくのを見るたびに、足がすくんだ。車の音、コンビニの明かり、酔って笑いながら歩く大学生らしき二人組――そのすべてが、まるで別の惑星の風景のようだった。
彼には帰る場所がない。名前もない。戸籍もない。
三日間、駅の階段の下で眠った。空腹に耐えかね、コンビニの廃棄棚を漁っているところを、警備員に見つかりそうになったこともある。
二日目の夜には、別の危険もあった。声をかけてきた中年の男が、妙に優しい笑みを浮かべ、「家がないなら、うちに来るか」と言った。少年は本能的にその笑みの奥にあるものを感じ取り、無言で走って逃げた。九年間、人の表情の裏を読むことだけは、嫌というほど鍛えられていた。それが、初めて彼を守った瞬間だった。
逃げた先の路地で膝をつき、彼は初めて声を上げて泣いた。誰にも聞かれていないと分かっていたから、泣けた。
四日目の夜、その路地に一人の男が立っていた。
三十代半ば、無精髭、着崩れたジャケット。カタギではない目をしていたが、少年を見る目には、値踏みするような冷たさと、それとは矛盾する妙な静けさが同居していた。
「……どこの子だ」
男――久我と名乗ったその男は、少年の手にある黒い封筒に目を留めた。
「その書類、見せてみろ」
迷ったのは一瞬だった。他に頼れるものが何もなかった。少年は封筒を差し出した。
久我はページをめくり、しばらく無言だった。やがて、低く舌打ちをした。
「……これは、俺が探してた筋と繋がってやがる」
詳しくは語らなかった。だが久我の目つきが変わったのを、少年ははっきりと感じた。それは憐れみでも好奇心でもなく、獲物の匂いを嗅ぎ取った者の目だった。
「名前は」
「……ない」
久我は片眉を上げたが、それ以上は聞かなかった。
「なら、しばらくは"お前"でいい。飯を食わせてやる。その代わり」
彼は封筒を懐にしまい、少年の肩を軽く小突いた。
「その書類の続きを、俺と一緒に追え」
その夜、少年は初めて屋根のある場所で眠った。久我のねぐらは、繁華街の外れにある雑居ビルの一室だった。畳の上に横になりながら、少年は天井のシミを見つめ、ずっと考えていた。
高宮を殺した。あの男から生まれた。名前もない。
――それでも、今、自分は生きている。
翌朝、久我はテーブルに拳銃の分解された部品と、古い地図を並べていた。
「お前、頭は悪くなさそうだな。文字も読める、計算もできる。だったら使い道はある」
「使い道……」
「生き延びる、ってことだ」久我は煙草に火をつけずに口にくわえた。「綺麗事は言わねえ。俺はお前を拾ったんじゃない。お前が持ってた書類が欲しかっただけだ。だが」
彼はそこで初めて、少年の目をまっすぐ見た。
「その書類の先に何があるか、俺もお前も、まだ知らない。知りたきゃ、生き延びる力をつけろ」
少年は黙って頷いた。
その夜、久我は少年に一つだけ、自分の話をした。かつて自衛隊の情報部にいたこと、除隊してからは裏の仕事で食いつないでいること。多くは語らなかったが、最後に一言だけ付け加えた。
「俺にも、行方の分からない身内がいる」
それ以上は聞かなかった。だが、その一言だけで、少年はこの男が単なる通りすがりの親切心で自分を拾ったのではないと理解した。利害の一致――それだけが、彼らを繋ぐ最初の糸だった。
その日から、少年の「名のない年月」が始まった。




