第十章 九年
久我が自衛隊の情報部にいたというのは、あの夜語った通りだった。だが「行方の分からない身内」の正体を、彼が明かしたのは、それから数ヶ月が経った、酔った勢いの晩だった。
臨床試験のアルバイトに応募し、消えたきり戻らなかった妹。役所も警察も、「記録がない」の一点張りで動かなかった。久我はそれから十年近く、闇の中でその足取りを追い続けている。
「その書類に載ってる会社の一つが、妹の消えた臨床試験を主催してた法人と重なる」
久我はそう言った。それが、彼が少年を手元に置いた本当の理由だった。
九年という歳月は、静かに、しかし確実に少年を作り変えていった。
久我はまず、生きる術を叩き込んだ。金の稼ぎ方、身元を偽る方法、格闘の基礎、銃器の扱い、電子機器の解析。少年は驚くほどの速度でそれを吸収した。高宮が皮肉にも育てた「観察と模倣の才」が、今度は生き延びるための武器になっていた。
十四歳になる頃には、久我の依頼で盗聴器の解析や、簡単な尾行の仕事を任されるようになっていた。十六歳では、裏社会の情報屋たちの間で「久我の連れ」として顔が知られ始めていた。
訓練は容赦がなかった。銃の分解と組み立てを、目隠しをした状態で三十秒以内に終えられるまで、久我は何度でもやり直させた。格闘の稽古では、何度も畳に叩きつけられた。だが不思議と、少年はその痛みを苦痛とは思わなかった。高宮の実験室で味わった痛みとは、質が違った。あそこでの痛みは、自分を「対象」として扱うためのものだった。ここでの痛みは、自分を「生かす」ためのものだった。その違いだけで、耐えられた。
「お前、痛みに強すぎるんだよ」
ある日、久我が呆れたように言った。
「普通のガキなら、とっくに音を上げてる」
「慣れてるので」
その一言に、久我は何も返さなかった。ただ、次の稽古から、少しだけ手加減するようになった。
だが、彼にはまだ名前がなかった。
「お前、そろそろ名乗るもんを決めろ」
十七歳のある晩、久我がぽつりと言った。安酒の入ったグラスを傾けながら。
「戸籍は作れる。金さえ積めば、な。だが名前だけは、他人には決められない」
少年は、しばらく黙っていた。
高宮は最後まで、彼に名を与えなかった。「対象」「実験体」――そう呼ばれ続けた九年前の記憶が、今も皮膚の下に張りついている。
だが、あの男から与えられなかったものを、自分の手で選び取ることができるなら。
「――亮」
少年は、初めて声に出してそれを言った。
「光の、亮です」
久我はグラスを傾けたまま、片方の口の端だけを上げた。
「悪くねえな」
それだけだった。だが、その一言が、九年間名前のなかった少年に、初めて自分という輪郭を与えた。
その夜、亮は久我のねぐらの窓辺で、街の灯りを見下ろしていた。名前を得たというだけで、世界の見え方が変わることに、彼自身が一番驚いていた。今まで自分は、高宮のノートの中の「対象」という文字と、久我の言う「お前」という呼びかけの間を、ずっと漂っていただけだった。「亮」という二音が、初めて自分をこの世界に繋ぎとめる杭になった気がした。
戸籍上の姓は、久我が用意した。真壁亮――と、彼はその日から名乗ることになった。
(真壁という姓に、深い意味はない。久我が適当に選んだ、どこにでもある姓だ。だが亮自身は、それを気に入っていた。何者でもない自分に、初めてついた、何者でもない名前として。)
真壁亮は、二十歳になる年、久我と共に一つの決心をした。
黒い封筒の書類に記された企業――医療系持株会社「セイレーンメディカル」。表向きは製薬・臨床検査の中堅企業だが、その実態は、地下で複数の非合法な人体実験を仲介する組織の隠れ蓑だった。政治家、警察の一部、そして海外の資金――高宮征一という一人の狂った学者が「独りの企み」だと信じていた計画は、実際にはこの組織にとって、都合よく利用できる駒の一つに過ぎなかった。
「妹が消えたのも、こいつらの仕業だ」
久我は写真の束を机に叩きつけた。「セイレーンメディカル」の役員名簿、資金の流れ、そして各地に散らばる「研究拠点」らしき施設の所在地。
亮は、その中の一枚に目を留めた。
――第七研究棟。所在地:某市地下開発区画。
高宮の死の間際の言葉が、脳裏に蘇る。
――お前と同じものが、まだどこかで眠っている。
「行くぞ」久我が立ち上がった。「今度は、俺たちが調べる番だ」
亮は黙って頷いた。窓の外、夜の街には無数の灯りが瞬いていた。その一つ一つの下に、誰かの人生がある。かつて高宮が奪おうとした、そういう平凡な生活が。
――俺は、あの男のようにはならない。
その誓いだけを胸に、真壁亮は九年間の沈黙を終え、再び動き出した。




