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影を継ぐもの(2026改定版)  作者: キロヒカ.オツマ―


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第四章 誕生と沈黙の年月

二歳を迎えた頃、赤子は初めて「パパ」と口にした。


その瞬間、高宮の背筋を冷たいものが走った。父親として呼ばれることを夢見たことは、一度もなかった。そもそも、この計画に「父親」という役割が含まれるとは、想定していなかった。だが現実にその言葉を耳にしたとき、心の奥底で何かが軋みを上げた。まるで、長年閉め切っていた部屋に、初めて風が吹き込んだような感覚だった。


夜、研究ノートにその出来事を記録しながら、彼はペン先を止めて呟いた。


「お前は……誰なんだ」


紙の上に残ったその問いは、自分自身へのものでもあった。育て始めてまだ二年。だが、その二年で、すでに彼の内側には見たことのない亀裂が走り始めていた。


三歳を迎えると、少年は言葉を次々に覚えていった。片言はやがて簡単な文章になり、質問をするようになる。日々の会話が、想像していたよりもずっと自然に成立することに、高宮自身が戸惑った。


「どうして空は青いの」 「パパ、今日はどこに行くの」


その無邪気な問いに、高宮は返答に窮することが多かった。科学的な説明ならいくらでもできる。散乱光の話も、大気の組成の話も、教科書のように語れる。だが父親として子に語りかける言葉を、彼は持ち合わせていなかった。柔らかい言葉というものが、自分の語彙にはなかった。


「……光のせいだよ」


それだけ答えると、少年は満足そうに笑った。悪意などかけらもない笑みだ。だがその顔立ちは日に日に、かつての「あの男」へと近づいていく。


――似てきた。


高宮は、ふとした瞬間に背筋を冷やした。頬骨の形、目の輝き、笑うときの口元。それらが記憶の底にある同級生の面影を、確実に呼び起こしていた。鏡台の前で少年の寝顔を見つめながら、高宮は何度も自分に問いかけた。これは成功なのか、それとも呪いなのか、と。


育児はさらに手間を増した。保育園に通わせるわけにはいかない。世間に存在を知られることは致命的なリスクだった。だから高宮は仕事の合間に自ら教育を担った。文字を教え、数を数えさせ、絵本を読み聞かせる。深夜まで教材を自作することもあった。


「パパ、読んで」


夜になると少年は絵本を抱えてやってくる。高宮は一瞬ためらいながらも、読み聞かせをした。声を出して物語を読むうちに、自分がまるで普通の父親のように振る舞っていることに気づき、奇妙な不安を覚えた。世間にいくらでもいる、ありふれた父親の姿を、自分がなぞっている。その事実が、彼の中の何かを激しく揺さぶった。


――私は何をしている。これは復讐のはずだ。なぜ、父親の真似事を。


そんな葛藤が常に胸を締めつけた。


四歳のある日、少年は庭で拾った石を差し出した。


「これ、パパにあげる」


小さな掌に乗った石は、ただの灰色のかけらだった。だが高宮はそれを受け取ると、なぜか強く胸を突かれた。自分のために差し出された贈り物など、いつ以来だろう。彼の人生には、孤立と冷笑しかなかった。誰かに何かを与えられるという経験自体が、彼にとってはほとんど未知のものだった。


夜、石を机の上に置いたまま、高宮はじっと見つめた。復讐のために作った存在から贈り物を受け取る――その矛盾が、彼の心を掻き乱した。研究ノートには決して書けない種類の動揺だった。


「……情に流されるな」


自分にそう言い聞かせる。だが感情は理屈では抑え込めない。翌朝、彼はその石をこっそり書斎の引き出しにしまい込んだ。捨てることも、飾ることもできなかった。


高宮は時折、少年に簡単な心理テストを試みた。積み木の並べ方、図形の模写、言葉の記憶。いずれも年齢以上の成果を示す。研究者としての彼は、密かに満足した。


「やはり、素質はある……」


だがその一方で、「この才能が、やがて自分に牙を剥くのではないか」という不安も忍び込んできた。優れた観察力は、いつか自分自身を観察する目に変わるのではないか――その予感が、拭いきれない染みのように広がっていった。


五歳を迎えるころ、少年ははっきりと自我を主張するようになった。食べ物の好みを言い、気に入らないことがあれば頑なに拒む。その様子は、かつて自分を支配し弄んだ「あの男」の姿を思い出させた。


「お前は……誰だ」


夜、眠る少年を前にして高宮はまた呟いた。無垢な寝顔と、記憶の中の嘲笑する顔とが重なり、頭の中で入り乱れる。復讐相手なのか、それとも息子なのか。答えは出なかった。答えを出すこと自体が、この計画の破綻を意味するようにも思えた。


ある晩、少年は夢うつつに言った。


「……パパ、大好き」


その言葉は高宮の胸に深く突き刺さった。父親として呼ばれることに違和感を覚えながらも、否定できない温かさがそこにあった。それは五十年間、彼が誰からも受け取ったことのない類の言葉だった。


だが彼はすぐに冷徹な理性を呼び戻した。


――情は不要だ。これは実験だ。


石の贈り物も、無邪気な言葉も、ただのノイズだと自分に言い聞かせた。何度も、何度も。


だが、その夜、彼はなかなか眠りにつけなかった。天井を見つめながら、高宮は自分の中で二つの声がせめぎ合っているのを、はっきりと感じていた。一つは復讐者の声。もう一つは、彼自身も名前を知らない声だった。


その頃、一度だけ、外部の人間が屋敷に踏み込みかけたことがあった。市の福祉課から、独居高齢者の巡回訪問だという若い職員が、庭先までやって来たのだ。


「高宮さんですね。お変わりありませんか」


インターホン越しの高宮の声は、いつもより硬かった。地下では少年が絵本を声に出して読む練習をしている時間だった。壁越しにその声が漏れていないか、高宮は玄関先に立ちながら全神経を耳に集中させた。


「結構です。忙しいので」


「そうですか……何かございましたら、いつでもご連絡を」


職員が帰っていくのを、高宮はカーテンの隙間から見送った。心臓は激しく脈打っていた。もし今、あの職員が地下の声を聞きつけていたら――そう考えるだけで、指先が冷たくなった。


その夜、彼は地下室の防音対策を、業者を呼ばずに自らの手で補強した。慣れない作業に、翌朝には両手に血豆ができていた。だがその痛みは、不思議と彼を落ち着かせた。危機は去った。計画はまだ、誰にも気づかれていない。

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