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影を継ぐもの(2026改定版)  作者: キロヒカ.オツマ―


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第三章 秘密の研究所

高宮が「研究所」と呼ぶ部屋は、屋敷の地下にあった。


先代の住人が医療器具の保管に使っていた倉庫を、大幅に改装したものだ。外からはただの古びた洋館にしか見えない。屋敷を買い取った当初、高宮自身もこの地下室の広さに驚いたものだった。だが地下には、コンクリートで補強された部屋が広がっている。冷却装置、簡易培養器、監視カメラ、電子ロック――金は惜しまなかった。改装工事は複数の業者に分割発注し、誰にも全体像を把握させないよう周到に手配した。


資金の出どころは講演料と学会からの謝礼、それに匿名口座を経由した株取引だった。老境に差し掛かった彼には家族もなく、財産の行き先を考える必要はない。残りの人生を賭けるに足る計画だと、疑わずに信じていた。銀行の担当者に不審がられぬよう、資金移動には何年もかけて、少しずつ時間を分散させた。


問題は「材料」だった。


高宮は長年、海外の学会に顔を出していた。表向きは国際共同研究のためだが、実際には別の目的があった。その中で知り合ったロシア人研究者から、闇ルートの噂を耳にした。遺伝子解析データや細胞の違法売買は、国際的な規制があっても完全には封じられない。裏社会と科学が交わるところには、匿名のブローカーが常に動いている。最初にその噂を聞いたとき、高宮は身震いした。それは恐怖ではなく、興奮だった。


数年をかけ、高宮は少しずつ情報を集めた。最初は学術目的を装い、犯罪心理学の研究サンプルを求めているふりをした。カバーストーリーは慎重に組み立てた。だがその裏で、ある人物のDNA断片を密かに手に入れた。


――中学時代、自分を最も苦しめた同級生のものだ。


偶然を装って旧友の飲み会に顔を出したこともある。何年もかけて同窓会の名簿を追い、そのつながりを利用して接触の機会を作った。五十年ぶりに会った男は、腹の出た老人になっていた。だが高宮の胸に去来したのは、哀れみではなかった。握手の際、爪先で皮膚を引っかき、グラスに残った唾液をこっそり採取した。長年培った執念が、誰にも気づかれずに働いた。あの瞬間の高揚を、彼は生涯忘れないだろう。


そのサンプルを解析に回し、培養し、保存する。長い年月をかけて、彼は「計画の核心」を形にしていった。倫理委員会も、学会も、誰も知らない。知られれば逮捕、研究人生は終わりだ。だからこそ、全ては秘密裏に進められなければならなかった。ときには夜行バスに乗り、地方の小さな研究機関の機材を借りて、身元を隠して作業をしたこともある。


地下室には、培養槽と人工子宮の簡易装置が並んでいた。海外から密輸した部品を組み合わせ、廃棄医療機器を修理して再利用したものだ。医師免許はないが、長年の研究で医学知識には精通している。必要に応じて闇サイト経由で医療従事者を雇うこともあった。金さえ払えば、彼らは余計な詮索をしなかった。仲介者を三段階挟むことで、依頼主が高宮であることは、末端の技術者には決して知られなかった。


「学問の発展のためだ」


そう自分に言い聞かせることで、罪悪感を麻痺させた。だが胸の奥底では知っていた。これは研究ではなく、復讐のための儀式だった。何十年もかけて組み立てた儀式――その厳密さは、まるで宗教的な戒律のようですらあった。


雇った技術者の一人と、一度だけ直接顔を合わせたことがある。名古屋駅裏の、朝まで営業している喫茶店だった。相手は三十代の男で、白衣を着ていない以外は、どこにでもいる勤務医のように見えた。だが目だけが違った。金にならない話には一切興味を示さない、乾いた目だった。


「培養の成功率を上げたいなら、栄養液の配合を変えろ」


男はメモ用紙に走り書きしながら言った。高宮はその一言一句を、まるで神託のように書き留めた。研究者としての誇りは、この瞬間、完全に地に落ちていた。だが不思議と、屈辱は感じなかった。目的のためなら、いくらでも頭を下げられる自分がいることに、高宮はむしろ安堵していた。


「ところで、先生」男は帰り際、ふと訊ねた。「これ、何を育てるんです?」


「言えない」


「まあ、そうでしょうね」男は肩をすくめた。「金さえもらえりゃ、こっちは何でもいいんですよ」


その言葉の軽さが、かえって高宮を安心させた。誰も、本気で自分の内側を覗こうとはしない。それが、彼にとって最も好都合な世界のあり方だった。


――自分を地獄に突き落とした男を、この手で再び作り出す。


そして今度こそ、支配する側に立つ。


深夜二時。地下室の冷却装置が規則正しい音を刻む中、高宮は一つのモニターに釘付けになっていた。パネルに映る数値は安定し、羊水を模した液体が淡い青色を保っている。心拍に似た微細な振動が確認された瞬間、彼は小さく息を吐いた。長年の緊張が、指先から抜けていくのが分かった。


「……成功だ」


その瞬間、五十年以上胸に沈殿してきた怨念が、確かな形を持ち始めたように思えた。誰かに報告したかった。だが、報告できる相手など、この世に一人もいない。それが、この計画の唯一の代償だった。


数週間後、地下室に小さな産声が響いた。人工的に取り出された赤ん坊は、か細い声で泣き、必死に空気を吸い込んでいた。濡れた身体を拭いながら、高宮は震える指で抱き上げた。想像していたよりも、はるかに軽く、はるかに温かかった。


「……お前が、そうなのか」


老いた顔に、複雑な感情が浮かぶ。復讐の対象であるはずの存在を腕に抱えながら、彼は不思議な高揚と、言い知れぬ安堵を覚えた。当然、五十年前に自分を嘲笑った少年の面影はまだない。そこにあるのは無垢な赤子だけだ。だがその顔を見つめるうち、確かに記憶の中の誰かと重なる錯覚に囚われる。それは幻覚に近い、危うい感覚だった。


育児は想像以上に過酷だった。夜泣きは容赦なく、学者としての生活リズムは乱れ、論文執筆も滞った。大学からの問い合わせにも、体調不良を理由に何度も出張や講演を断った。それでも高宮はそれを苦痛とは感じなかった。むしろ、苦しみを背負ってでも育て上げるという行為そのものが、彼に奇妙な充実感を与えていた。


赤ん坊は日に日に成長した。最初は曖昧な泣き声だけだったが、次第に目で周囲を追い、笑みのような表情を浮かべるようになる。その姿に高宮は思わず頬を緩めることもあった。だが同時に、胸の奥に冷たい棘が突き刺さる。


――この笑顔の裏に潜むのは、あの男だ。


そう自分に言い聞かせなければ、感情に飲まれそうになった。育児の喜びと憎悪がせめぎ合い、高宮の精神は緊張し続けた。夜、赤ん坊が寝静まったあとも、彼はしばらくベビーベッドの脇に座り込み、ただその寝息を聞いていることがあった。何のためにそうしているのか、自分でも説明がつかなかった。

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