第二章 五十年前の教室
雨の音が、窓ガラスを叩いていた。
高宮征一は研究室の椅子に沈み、火をつけていない煙草を指の間で弄んでいた。健康のために吸わないと決めて久しい。医者としての自分が、患者に禁煙を勧めてきた手前もある。それでも、胸の底に沈殿したものを払う術が見つからない夜がある。今夜がそれだった。
雨は容赦なく降り続き、窓の外の景色を歪ませていた。まるで六月の湿気そのものが、彼の記憶を溶かして流し込んでくるようだった。
脳裏にあるのは、中学二年の夏だ。
特別に目立つ性格ではなかった。ただ勉強ができるというだけで、目をつけられた。休み時間、教科書に書き込まれる落書き。机に刻まれた卑猥な言葉。体育の授業では、わざとぶつかられて転倒し、そのたびに笑い声が起こった。誰も止めなかった。止めれば、次は自分が標的になるかもしれない――そういう空気が、教室全体を支配していた。
「おい、高宮。カバンの中見せろよ」
リーダー格の少年がそう言って、母親が持たせた弁当箱を引きずり出した。蓋を開け、中身を机にぶちまける。卵焼きの黄色、海苔の黒、白飯の粒が床に散り、教室中が笑いに包まれた。教師が入ってきても、「うっかり落としたんです」と言わされ、何事もなかったように授業が始まる。教師の目には、確かに何も映っていなかった。あるいは、映っていても見ないふりをしていた。
心の中で叫んでいた。やめてくれ、と。だが声にはならなかった。反抗すればさらに酷くなる。助けを求めれば「告げ口」として標的が強まるだけだ。黙って耐えるしかなかった。耐えることだけが、彼に許された唯一の抵抗だった。
放課後、人気のない路地裏で数人に囲まれたこともある。背中を押され、地面に叩きつけられる。学生鞄が泥にまみれ、頬に拳が落ちてくる。殴られた痛みよりも、その場に響いた笑い声が胸を抉った。彼らにとって自分は、人間ではなく玩具だった。壊れても、代わりはいくらでもある玩具。
高宮は煙草を灰皿に押しつけ、深く息を吐いた。胸の奥から冷たいものがせり上がる。あの頃の感覚は、六十五歳になった今でも鮮明だ。皮膚の記憶というものがあるとすれば、あの日の路地裏の冷たいアスファルトの感触は、今も彼の掌に残っている。
――自分は、あの教室で確かに死んでいた。
その後の人生は、死んだ自分の残骸を引きずりながらのものだった。大学で頭角を現し、研究に没頭し、やがて学会に名を残した。周囲からは「努力家」「志の高い研究者」と評された。だがそれは、傷を隠すための鎧に過ぎなかった。名誉も称賛も、あの日の屈辱を消せなかった。
「犯罪心理学の権威」と持ち上げられるたび、胸の内で嘲笑が響く。権威だろうと何だろうと、自分の中には今もあの日殴られた少年がいる。学会の壇上に立つたび、聴衆の顔がふとあの教室の顔ぶれに重なることがある。誰も気づかない、彼だけの幻覚だった。
研究を続ける理由は一つだった。人間の残酷さの本質を突き止めるため。なぜ人は他者を傷つけるのか。なぜ群れは弱者を選び、笑いながら叩き潰すのか。その答えを知りたい――いや、正確には、証明したいのだ。自分が受けた仕打ちは特別な不運ではなく、人間社会の必然であると。そうでなければ、あの頃の自分の存在があまりにも無意味になる。無意味な被害者として、ただ壊されただけの人生になってしまう。それだけは、どうしても認められなかった。
時計の針は十一時を指していた。雨脚は弱まっていたが、胸の奥に降り続く雨は止まらない。彼は引き出しから一枚の紙を取り出した。震える筆跡で「対象の成長記録」とだけ記されている。日付が並び、体重、身長、知能指数の推移が細かく書き込まれていた。数字を追ううちに、かつてのいじめっ子の顔が脳裏に浮かぶ。あの冷笑、あの目つき。老いた今どこで何をしていようと、高宮の中では永遠に中学生のままだ。
「まだ、終わっていない」
低く呟いた。アルバムの中の少年は、今も彼を見下ろしている。机の落書きの言葉は消えていない。校舎裏に倒れ込んだときの泥の匂いが、鼻の奥に残っている。五十年という歳月は、この記憶の前ではまるで無力だった。
――五十年前に始まった何かを、今度こそ終わらせる。
復讐でもなく、治療でもなく、そのすべてを含んだ、自分にしか成し得ない試みとして。学問という言葉で包めば、どんな狂気も少しは正当化できる気がした。それが幻想に過ぎないと分かっていても、高宮はその幻想にすがるしかなかった。
雨音が完全に止み、夜の静寂が訪れる頃、高宮は決意したように立ち上がった。屋敷の奥、鉄扉の向こうへと向かう。五十年の記憶が凝縮された場所――彼の未来が、そこで静かに脈打っていた。




