第一章 孤独な研究者
名古屋市郊外、住宅街から少し外れた丘の上に、古びた洋館があった。
かつて開業医が住んでいた屋敷を改装したもので、外壁はくすんだベージュに変色し、庭木は伸び放題になっている。門柱には錆びた表札がひとつ、判読できないほど文字が擦れている。夜になると灯る窓は一つだけ。その光の主が、高宮征一だった。
世間的には名誉教授、成功者の部類に入る男だ。だが私生活は、乾いた井戸のように空虚だった。結婚歴はない。若い頃に一度、見合いの話があったと聞く。だが具体的な記憶すら、彼の中には残っていない。親族との縁は早くに切れている。近隣住民との会話は、宅配便を受け取るときの二言三言だけだ。
「先生、相変わらずお忙しそうですね」
それが、この一週間で唯一交わした他人との言葉だった。配達員の若い男は、律儀に頭を下げて去っていく。高宮はその背中を見送りながら、自分がどれほど長く、まともな会話をしていないかに気づかされる。
高宮の一日は規則正しい。六時に起き、簡素な食事を済ませ、研究室に籠る。机には論文の草稿と実験記録、そして外部には決して見せられない個人ノートが並ぶ。表向きの専門は「犯罪者の心理構造分析」。大学の紀要に載る論文は、いずれも綿密で、査読者からの評価も高い。だが実際に彼が注いでいるのは、もっと深く、もっと危うい領域――人間が他者に加える残虐性の起源と、支配欲の実験的再現だった。表の論文は、いわば彼にとっての隠れ蓑に過ぎない。
なぜそのテーマに執着するのか、知る者はいない。高宮は表では冷静沈着に振る舞い、時にユーモアさえ交える。講義では学生たちに軽口を叩き、笑いを取ることさえある。だが内側には、常に過去の影が居座っていた。誰にも見せない、地下水脈のような影が。
夕方、研究を終えた彼は決まって書棚の奥から古びたアルバムを取り出す。表紙の革は剥げかけ、ページの糊も弱っている。開くたび、乾いた紙の匂いが立ち上る。白黒写真の中学生時代の集合写真。片隅に写る自分の幼い顔。眼鏡の奥の目は、すでに何かを諦めているように見える。
教室の中で、あの頃の高宮は嘲笑と暴力の標的でしかなかった。机を蹴られ、教科書を破かれ、体育館裏で殴られた。教師は見て見ぬふりをし、両親は共働きで不在がちだった。弱音を吐けば「男らしくない」と切り捨てられることを、子供心に知っていた。誰にも助けを求められないという学びを、彼はあまりにも早く覚えてしまった。
アルバムを閉じると、胃の奥から苦いものがこみ上げる。今でも夢の中で、あの頃の声を聞くことがある。
――臆病者。 ――役立たず。 ――お前なんかいないほうがいい。
その声が頭の奥で木霊するたびに、研究への執念が強まっていく。若い頃はそれを、他人には決して打ち明けなかった。学会で自分の理論を発表するたびに、心のどこかで「これで少しは、あの声を黙らせられるか」と考えていた。だが黙ったことは、一度もなかった。
「人間は変わらない」
高宮は誰にともなく呟いた。指先で写真の縁をなぞりながら。
「表面を取り繕っても、本質は残酷で醜いものだ」
夜十時を過ぎると、彼は屋敷の奥、厚い鉄扉の向こうへと足を運ぶ。廊下は普段の生活空間よりも一段冷たく、足音が余計に響く。そこには最新の冷却装置と医療機器が並び、通常の生活空間とは完全に隔絶されていた。学会の同僚どころか、この世で誰一人、その存在を知らない。工事を頼んだ業者にすら、内部の設備については噓の説明で通してある。
扉の前に立ち、耳を澄ませる。機械の駆動音に混じって、微かな呼吸のような響きが聞こえる気がする。もちろん、まだそこには誰もいない。ただの機械の唸りだ。それでも彼は、扉越しに何かが息づいているような錯覚に囚われる。
だが、彼はまだ中には入らない。ただ扉に掌を置き、目を閉じる。冷たい鉄の感触が、掌から腕へと伝わってくる。
「もうすぐだ……」
その呟きは、祈りにも、呪いにも聞こえた。
研究者・高宮征一は、世間からは敬意を集める存在だ。だがこの屋敷の奥に眠るものを知れば、その評価は一夜で崩れ去るだろう。彼はそれを、誰よりもよく理解していた。理解した上で、なお歩みを止めなかった。
窓の外を、遠くの電車の音が通り過ぎていく。世間の人間が眠りにつき、翌日の生活に備えるその時間、高宮だけは過去と向き合い、そして――何かの完成に向けて、着実に歩を進めていた。夜が更けるほど、彼の思考は澄んでいく。まるで昼間の高宮こそが仮の姿であり、この夜こそが本当の自分であるかのように。
「人は、影から逃げられない」
彼は机に戻り、ノートを開いた。表紙には、震えた筆跡でこう記されている。
――《計画第一段階 終了》
その文字を、彼はしばらく見つめていた。第一段階。まだ始まりに過ぎない。だがこの一行を書き終えるまでに、何年かかっただろう。金の工面、資材の調達、素性を明かさぬまま闇の伝手を辿ること――どれも並大抵の忍耐ではなかった。
ペンを置き、高宮は目を閉じた。もう後戻りはできない。いや、初めから後戻りするつもりなど、なかったのかもしれない。




