プロローグ
夜の研究室には、時計の音だけが残っていた。
秒針が時を刻むたび、埃の匂いが微かに揺れる気がした。書棚には精神医学の専門書がびっしりと詰まり、その隙間に、擦れて読めなくなった「記録」とだけ書かれたノートが数冊、埃をかぶって差し込まれている。誰にも見せたことのないノートだ。見せれば、この男の人生は一晩で終わる。学会も、地位も、六十五年かけて積み上げた何もかもが、一夜にして瓦礫になる。
高宮征一、六十五歳。机に頬杖をつき、深い皺の底から天井を睨んでいた。蛍光灯の光は白く冷たく、老いた頬骨の陰影を余計に濃くしている。
世間は彼を「第一線の学者」と呼ぶ。論文は学会で権威ある位置を占め、講演の依頼は絶えない。テレビの情報番組から、犯罪心理の解説を求められたこともある。だが、この部屋の空気だけは、その肩書を許さなかった。ここにいるのは、過去に喉笛を摑まれたまま、五十年間身動きの取れずにいる一人の老人だ。肩書という鎧を脱げば、そこには十四歳のまま止まった時計しかない。
ノートを開く。文字は若い頃のものと今のものが入り混じり、後半になるほど震えが増していく。書かれているのは、学術的な知見ではない。整然としたデータの羅列でもない。ただの、傷の記録だ。
――中学二年の教室。 ――机に彫られた落書き。 ――弁当をぶちまけられた床。 ――笑い声。
殴られた痛みより、あの笑い声の方が骨に染みた。人間ではなく、玩具として扱われた記憶。五十年経った今でも、夜中に目が覚めれば心臓が早鐘を打ち、全身が汗に濡れている。若い頃はそれを「トラウマ」という便利な言葉で説明し、患者にはそう教えてきた。だが自分のこととなると、言葉は何の役にも立たなかった。
高宮はペンを取った。指先が震える。老いのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、もう区別がつかない。
――観察対象、順調に成長。 ――外見の特徴、記憶の輪郭と重なり始める。 ――第二段階へ移行可能。
淡々と綴られる文字の裏に、焦燥と執念がにじんでいた。世界には無数の研究者がいる。栄誉も、業績も、後進に譲る日がいずれ来る。だがこの計画を知るのは、自分一人だけだ。その孤独な優越感が、老いた男の理性を静かに侵食していく。誰にも共有できない秘密は、時に麻薬より強く人を蝕む。
窓の外、遠くで救急車のサイレンが鳴った。この部屋には関係のない音だ。ここには、別の時間が流れている。世間の時間と、この部屋の時間は、もう長いこと重なっていない。
ペンを置き、深く息を吐く。月光に浮かぶその横顔は、学者の理知ではなく、長い夢に取り憑かれた者の顔だった。狂信者の目でも、殺人者の目でもない。もっと静かで、もっと救いのない目だった。
「……もうすぐだ」
声にならない囁きが、部屋の暗がりに溶けていった。
外では、いつもと変わらぬ夜が更けていく。誰も、この屋敷の奥で何が進行しているかを知らない。それでいい、と高宮は思った。孤独は、この計画にとって唯一の防具だった。




