第五章 牙の目覚め
六歳になった少年は、もはや幼児ではなかった。読み書きを一通り覚え、簡単な計算もできる。高宮が用意した教材を貪欲に吸収し、時に自ら質問を投げかけてくる。
「ねえ、どうして人は死ぬの」 「どうして悪いことをしてはいけないの」
純粋な疑問のはずなのに、その問いかけは高宮の胸に鋭い刃を突き立てた。答えを返すたびに、彼は中学時代の光景を思い出す。自分を取り囲み、からかい、机に落書きをした連中。とりわけ、あのリーダー格の少年の姿が、脳裏に鮮明に蘇るのだった。
その顔と、目の前の少年の成長した顔が、少しずつ重なっていく。
ある日、少年は庭で虫取り網を振り回しながら笑った。その笑い声に、高宮は凍りついた。あの声は、まさしくかつて自分を嘲笑った「彼」と同じ響きを持っていた。
「……やめろ」 思わず口をついて出た。少年は首をかしげる。 「どうして。ぼく、ただ笑ってるだけなのに」
高宮はその場から逃げるように部屋へ戻り、机に向かって頭を抱えた。復讐のために育てているはずなのに、日常の些細な仕草が過去を抉り出す。まるで記憶の亡霊が目の前で再生しているかのようだった。
少年は知恵と同時に、狡さも身につけ始めていた。棚に隠していた菓子を勝手に食べ、問いただすと素知らぬ顔で首を振る。だが口元に残ったチョコレートの跡が、噓を暴いていた。
「お前、食べただろう」 「ちがうよ」 「証拠は残っている」 「……ごめんなさい」
その一部始終に、高宮は強烈な既視感を覚えた。嘘をついて追い詰められたときの表情。それは過去の「いじめっ子」の典型だった。
――やはり血は嘘をつかないのか。いや、これは遺伝子に刻まれた性質なのか。
答えを探そうとすればするほど、思考は絡み合い、抜け出せなくなっていった。
七歳のある夜、少年は突然、こう言った。 「パパ、ぼくはパパに似てるの?」
高宮の手が止まった。 「なぜ、そんなことを聞く」 「だって、鏡を見ると……ときどき、知らない人みたいに見えるんだ」
その言葉に、高宮は息をのんだ。無意識のうちに少年は、自分が誰かの影として存在していることを直感しているのかもしれない。
「お前は……お前自身だ」 とっさにそう答えたが、その声には迷いがにじんでいた。
その日を境に、少年は鏡を避けるようになった。洗面所の鏡に布をかけていたこともある。高宮がそれに気づいたとき、少年は気まずそうに目を逸らした。理由を聞くことはできなかった。聞けば、自分の答えられない問いが、また返ってくる気がしたからだ。
八歳になると、少年は屋敷の間取りを、誰に教わるでもなく暗記し始めた。どの窓が施錠されていないか、どの通気口が外に繋がっているか――それを確かめる姿を、高宮は監視カメラの映像越しに何度も目撃した。咎めることもできた。だが、彼はあえて何も言わなかった。
――観察してみたい。
その好奇心が、父としての警戒心をわずかに上回っていた。研究者としての性が、彼の中で最後まで消えなかった証拠だった。
九歳のある夜、少年は珍しく素直に聞いた。
「パパは、僕みたいな子供が、他にもいるって知ってる?」
高宮の心臓が跳ねた。どこまで気づいているのか、測りかねた。
「……なぜ、そんなことを聞く」
「別に。ただ、僕みたいなのが一人しかいないなんて、変な気がしたから」
その夜以降、少年の質問は、目に見えて鋭さを増していった。高宮はそれを「知能の発達」と記録した。だが本当は、恐怖という言葉の方が近かった。
十歳を迎える頃には、その反抗ははっきりとした形を取り始めていた。
「どうして、外に出ちゃいけないの」 ある夕食時、少年は唐突に問いかけた。 「学校に行ってる友だちみたいに、ぼくも外で遊びたい」
高宮の箸が止まった。心臓がひとつ脈打つたびに、過去の記憶が甦る。廊下で仲間外れにされ、机に落書きをされ、外の世界が自分を拒んでいたあの日々。
「お前にはまだ早い」 「なんで。もう十歳だよ」 「……ここで学ぶことがたくさんある」
数日後、事件が起きた。実験室の扉が半開きになっていた。監視カメラを確認すると、少年が夜中に忍び込み、拘束具や検査機器を触っている映像が残っていた。
「これ、拷問器具みたい」
翌朝、高宮は少年を呼びつけた。 「昨夜、実験室に入ったな」 「だって、気になったんだ。パパ、いつもあそこで何してるの」 「二度と勝手に入るな」 「どうして隠すの。ぼくに秘密があるの」
高宮の胸に怒りと恐怖が入り混じった。低い声で告げる。 「お前は私の言うことを聞けばいい。理由を求めるな」
その瞬間、少年の瞳が鋭く光った。怯えるどころか、挑むような色を帯びていた。
「……じゃあ、ぼくはパパの人形なの?」
部屋の空気が一気に重く沈んだ。
高宮は震える手でグラスを握りしめた。その言葉は、かつてのいじめっ子が放った残酷な一言と同じ響きを持っていた。「お前なんて人形だ」と笑われたあの記憶が、鮮明に蘇る。
「黙れ」
かすれた声が口から漏れる。少年は少しも引かず、椅子に深く腰かけて言い放った。
「パパは、ぼくを愛してるの。それとも、ただ命令を聞かせたいだけ」
胸の奥で何かが崩れる音がした。高宮は答えられず、視線をそらした。
その夜、彼は寝室でひとり震えていた。少年が見せた反抗は成長の証か、それとも「彼」の性質が再現され始めた兆候か。どちらにせよ、このままでは制御を失う。研究ノートに震える字で書いた。
――対象が私に疑念を抱き始めている。感情の制御が難しい。 ――しかし、愛情の有無を問われ、私は答えられなかった。
ペン先が止まり、白紙の余白に、掠れた文字が並んだ。
――私は父なのか、支配者なのか。




