第十四章 西条正志
久我が用意した潜伏先は、岐阜との県境に近い山中の一軒家だった。
保護した少年は、地元の裏医者に診せた。栄養失調と長期の薬物投与による衰弱――命に別状はないが、回復には時間がかかるという診断だった。ベッドに横たわる少年を見ながら、亮はしばらく動けずにいた。
「お前、あいつに何て名前をつけてやるんだ」
久我がぽつりと聞いた。亮は答えられなかった。名前は、自分で選ぶべきものだと思っていたからだ。高宮に与えられなかった名を、自分で選んだように。
「……あいつが選ぶまで、待ちます」
三日後、亮は一人で車を出した。行き先は、あの黒い封筒に記された住所――岐阜県内の、小さな建材会社だった。
十年前に見た写真の中の男は、実物ではさらに老いていた。白髪、丸くなった背中、目の下の深い皺。地域の商工会長を務めているというその男は、事務所の応接室で亮を迎えた。
「……失礼ですが、どちらさまで」
亮は名乗らなかった。ただ、一枚の写真を差し出した。中学の集合写真だ。西条正志は写真を見て、怪訝な顔をした。
「これは……私の卒業アルバムの写真ですが。なぜあなたが」
「あなたのDNAが、無断で採取され、ある研究に使われました。もう十年以上前のことです」
西条の顔から血の気が引いた。亮は淡々と続けた。研究の内容は伏せた。ただ、彼のサンプルが違法に取引され、複製実験に使われたという事実だけを伝えた。
「……そんな。私は、何も……」
「あなたは何も知らなかった。それは分かっています」
亮は静かに言った。
「ただ、確かめたかっただけです。あなたが、本当にただの……ただの人間なのかどうか」
西条は困惑したまま、震える声で聞いた。
「あなたは、いったい」
亮はしばらく沈黙した。答える必要はなかった。だが、答えたかった。
「あなたの複製です。ただし、あなたとは違う人生を生きています」
西条は言葉を失った。恐怖と困惑の入り混じった目で、亮を見つめている。
亮は静かに立ち上がった。
「あなたを責めるつもりはありません。あなたも、知らないうちに利用された被害者だ」
西条は椅子に崩れるように座り込んだ。しばらくの間、応接室には壁掛け時計の音だけが響いた。
「……信じてもらえるか分かりませんが」西条は震える声で言った。「私は、今の暮らしを、それなりに誇りに思って生きてきたんです。会社を継いで、地域の役にも立ってきたつもりだった。それなのに、私の知らないところで、私の一部が……」
言葉が続かなかった。亮はその姿を、ただ黙って見ていた。憎むべき対象を前にしているはずなのに、湧いてくるのは怒りではなく、奇妙な虚しさだった。
部屋を出る間際、亮は振り返った。
「ただ一つだけ、聞かせてください。あなたは中学生の頃、誰かをいじめたことがありますか」
西条の顔が強張った。長い沈黙の後、彼は視線を落とした。
「……昔のことです。若かった。今はもう、覚えていないことも多い」
その言葉に、亮は何も感じなかった。怒りも、失望も。ただ、確認できたことがあった。
――この人は、俺じゃない。俺の元になった細胞を持っているだけの、赤の他人だ。
事務所を出て、車に乗り込む。エンジンをかける前に、亮はしばらくハンドルに額を押しつけた。
自分は西条正志の複製ではない。高宮の作った器でもない。真壁亮という、独立した一人の人間だ。
その確信だけを持って、彼は山中の一軒家へと車を走らせた。次に待つのは、蒲生嘉一郎という、この歪んだ商売の元締めとの対決だった。




