第十三章 もう一人
「亮、時間がない」
久我の声が背後から飛ぶ。だが亮の足は動かなかった。
小窓の向こうの少年は、拘束されたまま、微かに首を動かした。焦点の合わない目が、こちらを捉えようとしている。九年前、実験室のベッドで同じように横たわっていた自分の姿が、そこに重なった。
――「対象」。「被験体」。人間ではない何か。
亮は迷わず、扉の制御パネルに端末を接続した。
「何やってる、ここで足止め食らったら――」
「連れて行きます」
久我は一瞬、亮を睨みつけたが、やがて舌打ちして周囲の警戒に戻った。
「三十秒でやれ」
ロックが解除される。少年の体は驚くほど軽かった。管を外し、肩に担ぐと、廃棄寸前だった長年の栄養状態を物語るように、骨の感触が薄い皮膚越しに伝わってきた。
「……お前も、名前がないのか」
亮は小さく呟いた。答えは返らない。だが、それでよかった。答えを聞くためではなく、ただ確かめるために口にした言葉だった。
通路の先で、足音が一気に近づいた。
「来るぞ!」
久我が叫ぶと同時に、角の向こうから警備班が姿を現した。黒い戦闘服、サプレッサー付きの短機関銃。躊躇なく発砲してくる。
久我は遮蔽物に身を寄せながら三点バーストで応戦した。壁が削れ、火花が散る。亮は少年を抱えたまま、反対側の通路へと転がり込む。腕の中の重みは、走るたびに肩に食い込んだ。それでも下ろすという選択肢は、亮の頭に一度も浮かばなかった。
「こっちだ、非常口がある!」
久我の誘導に従い、二人と一人は薄暗い保守通路を駆け抜けた。背後で怒声と銃声が交錯する。銃声のたびに、亮は本能的に腕の中の少年を庇うように体をひねった。誰に教わったわけでもない動きだった。
曲がり角で敵の一人と鉢合わせた瞬間、久我は躊躇なく組み付き、喉元に肘を叩き込んだ。崩れ落ちる相手から銃を奪い取り、そのまま反転して二発。狭い通路に轟音が反響する。
「先に行け!」
亮は少年を抱えたまま非常階段を駆け上がった。息が上がる。腕の中の少年は、身じろぎ一つしない。生きているのかどうか、確かめる余裕もなかった。
地上に出ると、久我が用意していた車が待っていた。二人が乗り込むと同時に、久我はアクセルを踏み込む。バックミラーに、フェンスの向こうから走り出てくる警備員の影が映った。
「……逃げ切れましたね」
「まだだ。奴らは俺たちの顔を割ってるはずだ。しばらくは息を潜める」
亮は後部座席で、少年の様子を確かめた。呼吸は浅いが、確かにある。閉じた瞼の下で、瞳が微かに動いた。
「大丈夫だ」
亮は初めて、誰かにそう言葉をかけた。自分に向けられたことのない言葉を。
「もう、誰にも実験なんかさせない」
少年の唇が、かすかに動いた。声にはならなかったが、亮にはそれが「ありがとう」と言っているように思えた。
車が夜の高速道路を走り抜ける。窓の外を流れる街の灯りを見つめながら、亮は静かに誓った。
――今度こそ、この子を守り抜く。高宮ができなかったことを、俺がやる。




