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影を継ぐもの(2026改定版)  作者: キロヒカ.オツマ―


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第十三章 もう一人

「亮、時間がない」


久我の声が背後から飛ぶ。だが亮の足は動かなかった。


小窓の向こうの少年は、拘束されたまま、微かに首を動かした。焦点の合わない目が、こちらを捉えようとしている。九年前、実験室のベッドで同じように横たわっていた自分の姿が、そこに重なった。


――「対象」。「被験体」。人間ではない何か。


亮は迷わず、扉の制御パネルに端末を接続した。


「何やってる、ここで足止め食らったら――」


「連れて行きます」


久我は一瞬、亮を睨みつけたが、やがて舌打ちして周囲の警戒に戻った。


「三十秒でやれ」


ロックが解除される。少年の体は驚くほど軽かった。管を外し、肩に担ぐと、廃棄寸前だった長年の栄養状態を物語るように、骨の感触が薄い皮膚越しに伝わってきた。


「……お前も、名前がないのか」


亮は小さく呟いた。答えは返らない。だが、それでよかった。答えを聞くためではなく、ただ確かめるために口にした言葉だった。


通路の先で、足音が一気に近づいた。


「来るぞ!」


久我が叫ぶと同時に、角の向こうから警備班が姿を現した。黒い戦闘服、サプレッサー付きの短機関銃。躊躇なく発砲してくる。


久我は遮蔽物に身を寄せながら三点バーストで応戦した。壁が削れ、火花が散る。亮は少年を抱えたまま、反対側の通路へと転がり込む。腕の中の重みは、走るたびに肩に食い込んだ。それでも下ろすという選択肢は、亮の頭に一度も浮かばなかった。


「こっちだ、非常口がある!」


久我の誘導に従い、二人と一人は薄暗い保守通路を駆け抜けた。背後で怒声と銃声が交錯する。銃声のたびに、亮は本能的に腕の中の少年を庇うように体をひねった。誰に教わったわけでもない動きだった。


曲がり角で敵の一人と鉢合わせた瞬間、久我は躊躇なく組み付き、喉元に肘を叩き込んだ。崩れ落ちる相手から銃を奪い取り、そのまま反転して二発。狭い通路に轟音が反響する。


「先に行け!」


亮は少年を抱えたまま非常階段を駆け上がった。息が上がる。腕の中の少年は、身じろぎ一つしない。生きているのかどうか、確かめる余裕もなかった。


地上に出ると、久我が用意していた車が待っていた。二人が乗り込むと同時に、久我はアクセルを踏み込む。バックミラーに、フェンスの向こうから走り出てくる警備員の影が映った。


「……逃げ切れましたね」


「まだだ。奴らは俺たちの顔を割ってるはずだ。しばらくは息を潜める」


亮は後部座席で、少年の様子を確かめた。呼吸は浅いが、確かにある。閉じた瞼の下で、瞳が微かに動いた。


「大丈夫だ」


亮は初めて、誰かにそう言葉をかけた。自分に向けられたことのない言葉を。


「もう、誰にも実験なんかさせない」


少年の唇が、かすかに動いた。声にはならなかったが、亮にはそれが「ありがとう」と言っているように思えた。


車が夜の高速道路を走り抜ける。窓の外を流れる街の灯りを見つめながら、亮は静かに誓った。


――今度こそ、この子を守り抜く。高宮ができなかったことを、俺がやる。

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