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走る血のケンタウロス 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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4/5

4吹 先へ行ったわけではありません。戻るために走っただけです

 先へ行く者は、速い。


 道の先を見る。


 水場を見る。


 橋を見る。


 敵を見る。


 荷車が追いつく前に、危険を見つける。


 だから、走る血の民では、先へ行く者が褒められる。


 最初に丘を越えた者。


 最初に川へ着いた者。


 最初に敵を見つけた者。


 最初に帰還の火を見た者。


 ラグは、そういう走りを好んだ。


 先頭に立つ。


 誰よりも早く着く。


 振り返れば、皆がまだ後ろにいる。


 その距離が、自分の速さだった。


 だが、ローデン商隊では、先へ行っただけでは役に立たない。


 戻らなければならない。


 何があったかを伝えなければならない。


 自分が通れたかではなく、馬と荷車と布と薬と水が通れるかを見なければならない。


 先へ行くために走る。


 戻るためにも走る。


 同じ道を二度走る。


 ラグには、それが少しだけ面倒だった。


     *


 南の塩場を出て二日目。


 ローデン商隊は、森の縁へ続く古い街道から、岩山の間を抜ける谷道へ入ろうとしていた。


 左には切り立った岩壁。


 右には浅い流れ。


 流れの向こうにも岩がある。


 道幅は、荷車一台とケンタウロス一騎が並べる程度。


 荷車は三台。


 一台目と二台目は二頭立て。


 三台目の軽い荷車は一頭立て。


 荷を付けていない予備馬が一頭。


 馬は全部で六頭だった。


 馬方は三人。


 商隊主ローデン。


 弟子のサナ。


 弟子のセレナ。


 ケンタウロス護衛は、カヤン、ラグ、ナギリ、ディルの四騎。


 荷車を引くのは馬である。


 ケンタウロスは護衛として走る。


 道を見る。


 異変を伝える。


 荷が傾けば支える。


 車輪が沈めば縄を掛ける。


 だが、馬の代わりに轅へ入ることはない。


     *


 谷へ入る前、カヤンが足を止めた。


 遠くを見る。


 谷の上。


 岩山のさらに向こう。


 ローデンには、灰色の空しか見えない。


「何だ」


 ローデンが聞く。


「上の尾根だけ暗い」


 カヤンが答えた。


「雨か」


「ここからは見えない」


「なら何が見える」


「岩溝に白い筋がある」


 カヤンが指を差す。


 谷の上流。


 岩壁の切れ目。


 陽を返す細い線が、一瞬だけ見えた。


 すぐ岩陰へ消える。


「水か」


「たぶん」


「たぶんで止めるな。見えたものだけ言え」


「上の尾根が暗い。岩溝に白い筋が一度見えた」


「聞いた」


 ナギリが浅い流れへ近づいた。


 水は澄んでいる。


 底の石も見える。


 流れは弱い。


 道の表面も乾いている。


 今は通れる。


 今は。


「上で降っていれば、後から水が来ます」


 ナギリが言った。


「どれくらい後だ」


「分かりません」


「どれだけ増える」


「分かりません」


「分かることは」


「谷の中では、戻す場所が少ないです」


 ローデンは谷道を見る。


 曲がり角が多い。


 先頭から最後尾までは見えない。


 声も岩へ当たり、どこから来たか分からなくなる。


「ラグ」


「何だ」


「先を見ろ」


「どこまでだ」


「荷車を止められる広みを三つ見つけろ」


「通れるかを見るんじゃないのか」


「通れなくなった時、どこへ戻すかも見ろ」


「戻る前から戻る場所を探すのか」


「荷車は、お前のようにその場で向きを変えられん」


 ラグは鼻を鳴らした。


「三つ見つければいいんだな」


「見つけて戻れ」


「通れたら先で待つ」


「戻れ」


「分かっている」


「なら行け」


 ラグは谷へ走った。


     *


 谷道は、見た目ほど悪くなかった。


 石は多い。


 だが、大きく崩れた場所はない。


 浅い流れも澄んでいる。


 荷車の車輪が水へ入る場所もない。


 ラグは、広みを探した。


 一つ目。


 岩壁の切れ目。


 右側に平らな石地がある。


 荷車一台なら止められる。


 二つ目。


 古い倒木の手前。


 左側に乾いた棚がある。


 少し狭いが、軽い荷車なら入れられる。


 三つ目。


 谷が開く場所。


 馬六頭と荷車三台をすべて入れるには足りない。


 だが、一台ずつなら間を空けて置ける。


 さらに先へ進む。


 道は残っている。


 濁りもない。


 崩れもない。


 ラグなら走れる。


 ケンタウロス四騎も通れる。


 馬も通れるだろう。


 荷車も、今なら通れる。


 ラグは、そこで止まった。


 以前なら、もう一つ先の曲がりまで走った。


 自分がどこまで行けるか、確かめた。


 だが、今日は広みを三つ見つけた。


 ローデンは戻れと言った。


 ラグは振り返った。


 誰もいない。


 自分だけが先にいる。


 その距離は、確かに速さだった。


 だが、商隊にはまだ何も伝わっていない。


 ラグは戻った。


     *


「道は通れる」


 ラグは言った。


「何が通れる」


 ローデンが聞く。


「俺が」


「聞いていない」


「ケンタウロス四騎。馬六頭。荷車三台」


「戻す場所は」


「三つ」


「順に言え」


「一つ目。岩壁の切れ目。右に平らな石地。荷車一台」


「二つ目」


「古い倒木の手前。左に乾いた棚。軽い荷車一台」


「三つ目」


「谷が開く。三台とも入るが、間は狭い」


「水は」


 セレナが聞く。


「澄んでいる」


「流れは」


「弱い」


「蹄は」


 ナギリが聞く。


「右側に濡れた石が多い。馬は左へ寄せた方がいい」


「泥は」


「ない」


「布を下ろせる場所は」


 サナが聞く。


「一つ目と三つ目。二つ目は狭い」


「地面は」


「一つ目は平らな石。三つ目は乾いた土と小石」


「風は」


「谷の奥から来る」


 ラグは答え終えた。


 以前なら、問題ないの一言で終わっていた。


 ローデンは谷を見る。


 カヤンを見る。


「上は」


「尾根の暗さは変わらない」


「白い筋は」


「今は見えない」


 ナギリが水を見る。


「今は通れます」


 ローデンが決めた。


「入る」


     *


 谷道では、列が長くなった。


 先頭にカヤン。


 少し後ろにラグ。


 その後ろにローデンと一台目の荷車。


 サナは一台目と二台目の間。


 二台目の横にセレナ。


 三台目の横にナギリとディル。


 馬方が、それぞれの荷車を進める。


 曲がり角へ入れば、前後は見えなくなる。


 声を上げても、岩へ当たって返る。


 先頭の声が最後尾まで届くとは限らない。


 最後尾の声が先頭へ届くとも限らない。


 だから、ラグは先頭だけを走らなかった。


 カヤンのところへ行く。


 戻る。


 一台目の位置を見る。


 また前へ行く。


 広みを確かめる。


 戻る。


「一つ目、空いている」


 ローデンへ伝える。


 また走る。


 今までの走りより遅い。


 同じ道を何度も往復するからである。


 だが、商隊は少しずつ谷の中へ入った。


     *


 一刻ほど進んだ。


 カヤンは三つ目の広みより先にいた。


 ラグは、カヤンと一台目の間を走っていた。


 ローデンと一台目は、二つ目の広みを越えたところ。


 二台目は曲がり角の中。


 三台目は、まだ二つ目の広みへ入る手前だった。


 商隊は、細い道へ長く伸びている。


 その時、ナギリは三台目を引く馬の右後ろを見た。


 細かな砂がついている。


 黒い泥ではない。


 白い石粉でもない。


 薄い灰色。


 濡れている。


「止めて」


 ナギリが言った。


 馬方が手綱を引く。


「蹄か」


「右後ろを見ます」


 ナギリが触れる。


 冷たい。


 熱はない。


 傷もない。


 だが、細かな砂が蹄の縁へ張りついている。


 先ほどまではなかった。


 ナギリは道の脇を流れる水を見る。


 表面は澄んでいる。


 だが、底の小石の間を、細い濁りが流れている。


 上流から来た砂だった。


「水が変わっています」


 ナギリが言う。


「増えているのか」


 ディルが聞く。


「まだ、分かりません」


「なら進むか」


「先へ伝えます」


 ナギリは前を見る。


 曲がり角。


 荷車。


 岩壁。


 ローデンは見えない。


 声も届かない。


「ラグを呼べますか」


「叫んでも岩へ返る」


 ディルが答える。


 ナギリは三台目を止めたままにした。


「ここで待って」


「道の中だぞ」


 馬方が言う。


「少し後ろへ戻します」


「荷車をか」


「二つ目の広みまで」


 馬方が後ろを見る。


 一頭立ての馬。


 狭い道。


 緩い下り。


「そのままでは重い」


 ディルが荷台へ手を当てる。


「止め木を外す。ゆっくり下げる」


「引くのか」


「引かない」


 ディルは答えた。


「高い側を支える」


 予備馬は、三台目の後ろにいた。


 馬方が予備馬を二つ目の広みへ戻す。


 長縄を、三台目の後軸へ回す。


 予備馬を広み側へ歩かせ、荷車が急に下がらないよう重みを受けさせる。


 一頭立ての馬は轅の中で、馬方の声に合わせて一歩ずつ後退する。


 ディルは荷台の高い側へ手を添える。


 傾けば支える。


 止め木を一つずつ後ろへ移す。


 ケンタウロスが荷車を引いているのではない。


 二頭の馬と馬方が、荷車を戻している。


 ディルは倒れないよう支えている。


 ナギリは車輪と馬の蹄を見ている。


 まだ水は来ていない。


 だが、三台目は狭い道から広みへ戻った。


     *


 その頃、先頭のカヤンも異変を見ていた。


 浅い流れの表面に、小さな枝が増えている。


 一本。


 二本。


 三本。


 上流から流れてくる。


 白かった石の一つが、水の下へ消えた。


 水の線が、先ほどより指二本分ほど高い。


「ラグ」


 カヤンが呼んだ。


 ラグが振り向く。


「水が増える」


「見たのか」


「白い石が消えた。枝も来ている」


 ラグは流れを見る。


 音も変わっている。


 水が石へ当たる音が、一段低くなった。


 量が増えている。


 ラグはローデンのところへ戻った。


「水が増える」


「見たことを言え」


「枝が来ている。白い石が一つ沈んだ。音も低くなった」


「最後尾は」


「見えない」


「三台目の位置は」


「二つ目の広みの手前だった」


「今も進んでいるか」


「分からない」


 ラグは上流を見る。


 先へ行けば、水がどこから来るか分かるかもしれない。


 雨の場所も見つけられるかもしれない。


 だが、三台目は後ろにいる。


 水の変化を知らないかもしれない。


 以前のラグなら、上流へ走った。


 原因を最初に見つけた者になろうとした。


 今、必要なのは原因だけではない。


 後ろを止める者である。


「最後尾へ行く」


 ラグが言った。


「先ではなく?」


「後ろは、水が来ることを知らない」


「何を伝える」


「止まれ」


「それだけでは道を塞ぐ」


 ローデンは谷の中へ並ぶ三台の位置を思い浮かべた。


「一台目は、次の広みまで進める」


「分かった」


「二台目は、曲がり角へ入れるな。今いる場所で止めろ」


「分かった」


「三台目は、二つ目の広みへ戻せ」


「もう入っていたら」


「そこで止めろ」


「荷車の間は」


「一台分以上空けろ」


「水が道へ来たら」


「馬を高い側へ向ける。荷は下ろすな」


「ナギリは」


「三台目にいる」


「ディルも」


「いる」


「サナは」


「一台目の後ろだ」


「セレナは」


「二台目」


「俺は」


 ローデンがラグを見る。


「走れ」


 ラグは走った。


     *


 一台目の馬方へ伝える。


「次の広みまで進め! そこで止まれ!」


「ローデンの指示か!」


「そうだ!」


 戻る。


 サナへ伝える。


「一台目を広みへ入れる! 荷紐を見ろ!」


「どちらの荷紐ですか!」


「全部だ!」


「それでは分かりません!」


「傾いている方だ!」


「最初からそう言ってください!」


 ラグは返事をしなかった。


 もう走っている。


 二台目。


「曲がりへ入るな! そこで止めろ!」


 馬方が手綱を引く。


 セレナが水袋を押さえる。


「水が来ますか」


「増えている」


「どれくらい」


「まだ浅い」


「上流は」


「これから見る」


「先に後ろへ?」


「そうだ」


 ラグはまた走る。


 曲がり角。


 岩壁。


 浅い流れ。


 声の届かない道。


 三台目が見えた。


 すでに二つ目の広みへ戻っている。


 予備馬が後方の縄を張っている。


 一頭立ての馬は広みの中央で止まっている。


 ディルが荷車の高い側を支えている。


 ナギリが車輪を見ている。


「止まれ!」


 ラグが叫んだ。


「止まっています」


 ナギリが答えた。


「なぜ分かった」


「馬の蹄に濡れた砂がつきました」


「水は」


「増え始めています」


「ローデンからだ。ここで待て。馬を高い側へ。荷は下ろすな」


「聞きました」


 その時、三台目の荷紐が鳴った。


 左側だけ強く張っている。


 荷車を後退させた時、上部の荷が少し寄った。


「左が重い」


 ラグが言った。


 ナギリが荷台を見る。


「左へ傾いています」


 ディルが両手を当てる。


「今は持つ」


「乾草を右へ」


 ラグが言った。


「油壺は」


「動かすな」


「布は」


「下ろすな」


「なぜ分かるの」


「前にサナが言った!」


「サナはここにいません」


「だから俺が伝える!」


 ディルが上の乾草束を右へ移す。


 重い布包みには触れない。


 油壺も動かさない。


 荷紐を締め直す。


 傾きが少し戻った。


「ここで待て」


 ラグが言う。


「先へ戻るの」


 ナギリが聞く。


「水量を見る」


「最後尾は止まりました」


「だから、今度は先だ」


 ラグは再び走った。


     *


 水が来た。


 谷を埋める濁流ではない。


 人を流す大水でもない。


 足首にも届かない。


 だが、細かな泥と枝を含んでいる。


 浅い流れが道へ広がる。


 低い側の轍へ入る。


 乾いた土を濡らす。


 車輪の下へ回る。


 一台目は、次の広みへ入った。


 二台目は曲がり角の手前で止まっている。


 三台目は、二つ目の広みへ戻っている。


 三台が同じ狭い道で詰まることはなかった。


 ローデンは一台目の車輪を見る。


 水は来ている。


 だが、平らな石地なので沈まない。


 サナは布荷の下を確かめる。


 濡れていない。


 セレナは二台目の白い水袋を見る。


 跳ねた泥が口紐へついている。


 白い印を外す。


 黒い印へ替える。


 薬へ使えるか、後で確かめる水である。


 ナギリは三台目を引く馬の蹄を見る。


 灰色の砂が増えている。


 だが、熱も傷もない。


 ディルは荷車の高い側を支え、止め木が水で流れないよう石を重ねた。


 カヤンは上流を見ている。


「水の線は、もう上がっていない」


 ローデンへ伝える。


「枝は」


「減っている」


「まだ進ませるな」


「聞いた」


     *


 ラグが戻った。


 息は上がっている。


 だが、止まらない。


「最後尾、二つ目の広み」


「荷車は」


「三台目まで止まった」


「馬は」


「六頭いる」


「サナは」


「一台目の後ろ。荷紐を見ている」


「セレナは」


「二台目。白い水袋一つを黒へ変更」


「ナギリは」


「三台目の馬と車輪」


「ディルは」


「三台目の高い側を支えている」


「水量は」


 ラグは流れを見る。


「今は増えていない」


「先を見ろ」


 ラグは一瞬だけ黙った。


「今度は先か」


「後ろは止まった」


「どこまで」


「次の広みの先」


「何を見る」


「水量。崩れ。流木。車輪の通る線。戻れる場所」


「戻れ」


「戻る」


 ラグは上流へ走った。


     *


 谷の奥では、道の一部へ水が流れ込んでいた。


 岩壁の切れ目。


 普段は乾いている細い溝から、水が出ている。


 上流のどこかで雨が降った。


 谷全体を埋めるほどではない。


 だが、道を濡らし、細かな砂と泥を運ぶには十分である。


 ラグは先へ進む。


 倒木。


 枝。


 石。


 道そのものは残っている。


 次の広みも残っている。


 ただし、そこへ入るまでに低い場所が二か所ある。


 一か所目は右側の轍が深い。


 二か所目は左から水が入っている。


 今すぐ荷車を通せば、車輪が泥を押し広げる。


 少し待てば、水は引くかもしれない。


 ラグは、さらに先へは行かなかった。


 必要なものは見た。


 戻る。


     *


「道は残っている」


 ラグは言った。


「水は」


「増えていない」


「低い場所は」


「二つ。最初は右が深い。次は左から水が入っている」


「荷車は」


「今は通さない」


「待てば」


「半刻から一刻。上の雨次第」


「雨は見えたか」


「見えない」


「水の音は」


「同じか、少し軽い」


「結論は」


「待つ」


 ローデンは短く言った。


「待つ」


 それで決まった。


     *


 半刻後。


 枝の数が減った。


 白い石が、再び水面へ少し出た。


 カヤンが言う。


「水が下がっている」


 ナギリが、広みの縁を踏む。


 地面は濡れている。


 だが、沈まない。


「一台ずつなら通せます」


「最初は」


 ローデンが聞く。


「一台目。右の轍を避けます」


「ラグ」


「先へ行く」


「一台目の後を見て戻れ」


「先行ではないな」


「走り継ぎだ」


「何だ、それは」


「先と後ろをつなぐ者だ」


「今作っただろう」


「役名より先に働け」


 ラグは胸を張った。


「働く」


「なら走れ」


     *


 一台目が動く。


 牽引馬二頭。


 馬方が左へ寄せる。


 ラグが前を走る。


 低い場所へ入る。


 車輪が泥を踏む。


 沈まない。


 右側の轍だけが少し深くなる。


 一台目が次の広みへ入る。


 ラグは戻る。


「一台目、通過。右が深くなった。二台目は左を使え」


 ローデンが二台目へ伝える。


 ラグは再び先へ走る。


 二台目。


 二頭立て。


 セレナが黒い印の水袋を固定する。


 左側へ寄せる。


 石。


 泥。


 通過。


 ラグが戻る。


「二台目、通過。左も少し崩れた。三台目は中央をゆっくり」


 三台目が動く。


 一頭立て。


 荷を付けていない予備馬は後ろからついてくる。


 ナギリが馬の蹄を見る。


 サナが三台目まで戻り、左側の荷紐を見る。


 セレナが黒い水袋を押さえる。


 ディルは荷車の低い側へつく。


 引かない。


 荷台が傾いた時に支える。


 車輪が深い轍へ落ちそうなら、梃子を入れられる位置を取る。


 ラグは前と後ろを走る。


「中央!」


「少し左!」


「戻った!」


「そのまま!」


 馬方が手綱を調整する。


 車輪が泥を越える。


 荷台が一度だけ右へ傾いた。


 ディルが押さえる。


 サナが荷紐を見る。


「持ちます!」


 三台目も通過した。


 予備馬が続く。


 ナギリが最後に濡れた地面を踏む。


 蹄は沈まない。


 四騎全員が、次の広みへ入った。


 誰も倒れていない。


 荷車も沈んでいない。


 布も濡れていない。


 薬水は一袋だけ黒へ変わった。


 馬の蹄には、灰色の砂が少し入った。


 それだけだった。


     *


 その夜、ローデンは帳へ書いた。


 ――谷道。


 ――上流水増加。


 ――荷車三台、分離停止。


 ――一台目、前方石地。


 ――二台目、曲がり手前。


 ――三台目、第二広みへ後退。


 ――連なり詰まりなし。


 ――布荷直置きなし。


 ――薬水一袋、白より黒へ変更。


 ――馬六頭、蹄傷なし。


 ――護衛四騎、蹄傷なし。


 ――水引き後、一台ずつ通行。


 その下へ、名前を書く。


 遠見。


 カヤン。


 水面の上昇、枝、白石の消失を確認。


 足元。


 ナギリ。


 三台目の馬蹄に濡れた灰砂を確認。


 荷車補助。


 ディル。


 三台目の後退および傾き支え。


 走り継ぎ。


 ラグ。


 先頭、商隊主、各荷車、最後尾を往復。


 停止位置と通行順を伝達。


 ラグが帳を覗く。


「走り継ぎ」


「そう書いた」


 ローデンが答えた。


「俺の役か」


「今日の働きだ」


「明日は」


「必要なら走れ」


「必要でなければ」


「護衛をしろ」


「役ではないのか」


「役名を守るために走るな」


 ラグは少し不満そうな顔をした。


「では、何のために走る」


「伝えるためだ」


「速さは」


「戻れなければ値がない」


 ラグは黙った。


 以前なら、速さに値をつけるなと怒ったかもしれない。


 だが、今日、最後尾はラグの声で止まった。


 一台目はラグの声で広みへ入った。


 二台目は曲がり角の前で止まった。


 三台目は狭い道から戻った。


 水が引いた後も、一台ずつ通った。


 速さがなければ、間に合わなかった。


 戻らなければ、何も伝わらなかった。


「次も戻る」


 ラグが言った。


「先を見てからな」


 ローデンは帳を閉じた。


     *


 後に、誰かがこの日のことを大げさに語った。


 濁流より速く谷を駆けた戦士。


 三台の荷車を一声で止めた族長の甥。


 水の来る道を読み、商隊全てを救った若き英雄。


 先頭から最後尾までを、一騎で支配した走り継ぎ。


 ラグは、その話を聞くたびに胸を張りかけた。


 だが、その横で、カヤンが遠くを見る。


 ナギリが蹄を見る。


 ディルが車輪止めを確かめる。


 サナが荷紐を見る。


 セレナが水の印を見る。


 ローデンが帳を開く。


 だから、ラグは少しだけ言い直す。


 違う。


 先へ行ったわけではない。


 先には行った。


 だが、それだけではない。


 戻るために走った。


 見たものを伝えるために戻った。


 最後尾を止めるために戻った。


 皆が通れる道へ変わったかを確かめるため、もう一度戻った。


 そう言って、ラグは次の丘を見る。


 そして、誰かに言われる前に、自分の蹄を一度見た。

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