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十五文化圏周縁抄 走る血のケンタウロス  作者: 黒瀬 量衡


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2/3

2吹 近道を避けただけです。荷車を沈めたくなかったので

 近道は、近い。


 だから、近道と呼ばれる。


 短い。


 速い。


 水場へ早く着く。


 日が高いうちに荷を下ろせる。


 次の市へ一日早く入れる。


 売り場の場所を先に取れる。


 宿代が一晩減る。


 馬へ食わせる飼葉が一日分減る。


 護衛と馬方へ渡す食糧も減る。


 商人は近道を好む。


 走る者も近道を好む。


 ナギリは、近道をあまり好まなかった。


 短い道には、短い理由がある。


 丘を越えない。


 石場を避ける。


 川を回らない。


 乾草地を斜めに切る。


 水の寄る低地を、そのまま通る。


 近いということは、何かを避けていないということでもある。


     *


 ラグの蹄を洗った翌朝、ローデン商隊は再び南へ向かった。


 荷車は三台。


 一台目と二台目は、二頭立て。


 三台目の軽い荷車は、一頭立て。


 荷を付けていない予備馬が一頭。


 馬は全部で六頭だった。


 三台の荷車には、それぞれ馬方がついている。


 商人ではない。


 馬を扱い、車輪を見て、道の上で荷を進めるために雇われた者たちである。


 護衛は、ケンタウロスが四騎。


 カヤン。


 ラグ。


 ナギリ。


 ディル。


 カヤンは列の前方外側にいた。


 道だけではなく、その先を見る。


 草の色。


 遠くの煙。


 水面の光。


 動く人影。


 丘の裏へ消える荷影。


 近くへ行く前に、異変を見つける。


 ラグは先頭と中ほどを行き来していた。


 左後ろの熱は引いている。


 黒い泥も残っていない。


 ただし、走り出す前に、自分で一度蹄を見た。


 誰にも言われずに。


 ナギリは、それを見た。


 だが、何も言わなかった。


 自分で見た者を、止める必要はない。


 ディルは、一番重い荷車の横にいた。


 荷紐が緩めば支える。


 車輪が石へ乗れば、荷台が傾かないよう押さえる。


 倒れた荷を持ち上げる。


 縄を張る。


 止め木を入れる。


 力はある。


 だが、荷車を引くことはない。


 荷車を引くのは馬である。


 ケンタウロスは馬ではない。


     *


 商隊主のローデンは、荷札と道の日数を見ていた。


「南の低地を通れば、昼前に水場へ入れる」


 ローデンが言った。


「北へ回れば」


 サナが尋ねる。


「半日増える」


「宿代は」


「今日は野営だ。変わらん」


「馬の飼葉は」


「一回分増える」


「水は」


 セレナが聞いた。


「今の分で足りる。ただし、ぎりぎりだ」


 ラグが南を見た。


 低い草地が広がっている。


 表面は乾いている。


 風に揺れる草も軽い。


 道らしい道はない。


 だが、荷車が何度か通った跡が、薄く残っている。


「走れる」


 ラグが言った。


「お前はな」


 ローデンが答えた。


「俺たちが先に抜ける。道を確かめる」


「荷車が抜けられるかを見ろ」


「同じだ」


「違う」


 ローデンは荷車を指した。


「お前の脚には車輪も荷箱もついていない」


 ラグは鼻を鳴らした。


 その時、カヤンが片手を上げた。


「中央の草が濃い」


 全員が南を見る。


 ローデンが目を細めた。


「どこだ」


「あの白い石の先。細長く色が変わっている」


 カヤンが指す。


「水面は見えるか」


「水は見えない。ただ、根元だけ暗い」


「人は」


「いない」


「荷車は」


「古い車輪跡が一つ。途中で北へ曲がっている」


 ラグが前へ出た。


「見てくる」


「中央へ入るな」


 ナギリが言った。


「まだ何も見ていないだろう」


「だから入らないで」


 ローデンがラグを見る。


「東の縁を走れ。中央へ踏み込むな。戻って報告しろ」


「分かった」


「戻るまでが仕事だ」


 ラグは少し嫌な顔をした。


「分かっている」


 そう言って走った。


     *


 ラグは、低地の東側を回った。


 乾いた草。


 白い小石。


 固い土。


 そこまでは悪くない。


 中央へ近づくにつれて、草の根元が暗くなる。


 カヤンの見たとおりだった。


 表面は乾いている。


 だが、地面へ落ちた自分の影が、わずかに揺れている。


 草の間に、水の反り返す光がある。


 正面から見れば分からない。


 横から低く見れば、細く光る。


 ラグは速度を落とした。


 少し先に蹄跡がある。


 ケンタウロス。


 二騎。


 南へ入った跡。


 そして、同じ場所から戻った跡。


 片方は深い。


 もう片方は、途中から大きく外へ逃げている。


 走り抜けてはいない。


 入って、戻っている。


 ラグは中央へは行かなかった。


 蹄跡の端だけを踏んだ。


 表面が割れた。


 薄い乾き土の下から、黒い泥がにじんだ。


 ラグはすぐに蹄を抜いた。


 商隊へ戻る。


 以前なら、そのまま中央を走ったかもしれない。


 今は走らなかった。


 戻って伝えるためである。


     *


「中央は濡れている」


 戻ったラグが言った。


「見たのか」


 ローデンが聞く。


「草の下に水がある。二騎入って、二騎とも戻っている」


「深さは」


「端は浅い」


「中央は」


「入っていない」


 ローデンは少しだけ頷いた。


「それでいい」


 言ってから、短く言い直す。


「聞いた」


 ナギリはラグの足元を見る。


 右前の蹄に、黒い泥がついている。


「見せて」


「少しだけだ」


「少しだけです」


「なら進める」


「ケンタウロスだけなら」


 ナギリは後ろの荷車を見る。


 馬が六頭。


 荷車が三台。


 薄布。


 厚布。


 薬籠。


 紙。


 小壺。


 革袋。


 油。


 乾草。


 車輪は、蹄とは違う。


 同じ場所へ重さをかけ続ける。


 回るたびに土を押す。


 沈み始めても、馬のように脚を抜くことはできない。


「荷車は違います」


「車輪は蹄より広い」


 ラグが言った。


「でも、荷の重さが乗ります」


 ナギリが答える。


 ローデンが前へ出た。


「沈むのか」


「分かりません」


「分からんで止めるのか」


「まだ止めていません」


「通すのか」


「まだ決めません」


 ローデンは眉を寄せた。


 商人は、決まらない時間を嫌う。


 止まっている間にも日は進む。


 水場は近づかない。


 市場の場所も埋まっていく。


「何を見れば決まる」


 ナギリは答えられなかった。


 蹄なら見られる。


 泥なら触れられる。


 だが、荷車三台が入った後、どこで止まるかまでは分からない。


 その時、荷紐へ結んだ小さな包みが目に入った。


 乾いた草束。


 移動幕営を出る前に、シオンから渡されたものだった。


     *


 シオンは、幕営の端にいる娘だった。


 小枝を並べる。


 草を置く。


 石を動かす。


 先頭。


 最後尾。


 水場。


 産幕。


 荷。


 幼い者。


 風下。


 湿った草。


 それらを地面へ置き、どこで重なるかを見る。


 若い者は、遊びだと言った。


 老いた風読みは、気味が悪いと言った。


 ナギリにも、最初はよく分からなかった。


 南へ出る前、シオンは草束を渡した。


 長い草。


 短い草。


 途中で折った草。


 三つの結び目。


「長い草は水」


 シオンは言った。


「短い草は蹄」


「折った草は」


「荷」


「何に使うの」


「分からなくなった時に置く」


「何が分からなくなるの」


「どれが先に止まるか」


 ナギリには、やはりよく分からなかった。


 だが、捨てなかった。


     *


 ナギリは地面へ三本の草を置いた。


 長い草。


 水。


 短い草。


 蹄。


 折った草。


 荷。


 南の低地を示す場所で、三本を重ねた。


「何の占いだ」


 ローデンが聞いた。


「占いではありません」


「では何だ」


「ここで、水と蹄と荷が重なります」


「見れば分かる」


「入った後は、分けられません」


 ナギリは長い草を指す。


「水が上がります」


 短い草を指す。


「馬とケンタウロスの蹄へ泥が入ります」


 折った草を指す。


「荷車が沈みます」


「沈むと決まったのか」


「決まっていません」


「なら、また同じだ」


 サナが布荷を見る。


「沈んだ場所で荷を下ろすことになります」


「下ろせば軽くなる」


 ローデンが答える。


「布をどこへ置きますか」


 ローデンは低地を見る。


 乾いた場所は、東の縁に少しだけある。


 三台分の荷を置ける広さはない。


 セレナも言った。


「薬籠と水袋も下ろすことになります」


「なぜ」


「荷車を軽くするためです」


「分かっている」


「蹄水と泥がつく場所で下ろします。薬へ使う水と、洗い水の区別を確かめるまで使えなくなります」


「次の水場まで」


「半日です」


「ここで止まれば」


「明日になります」


 ローデンは低地を見る。


 表面は乾いている。


 平らである。


 近い。


 速く見える。


 だが、止まった後の場所がない。


「試せるか」


 ローデンが聞いた。


 ナギリは周囲を見る。


 荷車そのものを入れて試すのは遅い。


 沈んでからでは、試しではない。


 ローデン商隊には、交換用の車輪が一つあった。


 軸が折れた時に使う予備である。


「予備の車輪を使います」


「泥へ入れるのか」


「沈まなければ、洗えば戻せます」


「沈んだら」


「通らなくてよかったと分かります」


 ローデンは少し考えた。


「やれ」


     *


 予備の車輪を、短い仮軸へ通した。


 荷枠の補修に使う横木を二本。


 縄で縛る。


 粗い試し枠を作る。


 その上へ、金具箱を一つ載せた。


 荷車一台分の重さには足りない。


 だが、空の車輪だけを転がすよりは近い。


「箱が濡れたら」


 サナが言った。


「金具は拭け」


 ローデンが答える。


「箱は木です」


「箱の損も帳へ入れろ」


 試し枠を引くのは、ケンタウロスではない。


 予備馬へ長い縄をつないだ。


 馬は、低地へ入れない。


 乾いた東側の縁を歩かせる。


 長縄を斜めに取り、試し枠だけを低地へ入れる。


 馬方が予備馬の手綱を持つ。


 ラグは、馬方と試し枠の間に立った。


 止める。


 進める。


 縄を緩める。


 短い声で合図する。


 ディルは、試し枠の後ろへ回った。


 引くためではない。


 横木がねじれないよう、両手で押さえる。


 車輪が傾けば、長い梃子を差し込める位置につく。


 カヤンは少し離れた高い場所から、地面全体を見ていた。


「右の草が動く」


 カヤンが言う。


 水が見えるわけではない。


 車輪の重みで地面が押され、少し離れた草の根元が揺れている。


「まだ進めるか」


 ローデンが聞く。


 ナギリは車輪を見る。


「もう一歩」


「ラグ」


「一歩だけ進め!」


 馬方が予備馬を歩かせた。


 最初の一歩。


 車輪は進む。


 二歩目。


 表面に細い割れ目が入る。


 三歩目。


 乾いた土が、車輪の前で小さく盛り上がる。


「止めて」


 ナギリが言った。


 だが、その直前。


 乾いた表面が割れた。


 薄皮が破れるような、小さな音だった。


 次の瞬間、車輪が半分まで沈んだ。


 黒い水が、周囲へゆっくり上がる。


 予備馬が縄の重みを感じ、首を上げた。


「止めろ!」


 ラグが叫ぶ。


 馬方が手綱を引く。


 予備馬は乾いた場所で止まった。


 カヤンが低地の中央を見る。


「奥も動いてる」


 車輪から離れた草の根元まで、水が広がっている。


 ナギリが頷く。


「表だけでつながっています。下は全部濡れています」


 ラグの顔が変わった。


 予備の車輪だけである。


 荷車一台ではない。


 布荷もない。


 薬籠もない。


 それでも、車輪は半分まで沈んだ。


「戻すぞ」


 ローデンが言った。


 まず、金具箱を下ろす。


 ディルが両腕で持ち上げた。


 泥へ足を入れない。


 乾いた側から身体を伸ばし、箱を受け取る。


 サナが下へ古布を敷く。


 次に、ディルが長い梃子を車輪の下へ差した。


「押す」


 ディルが言う。


「待て」


 ナギリは車輪の周囲を見る。


「左へ上げて。右は深い」


「左だな」


「少しずつ」


 ラグが馬方へ声を送る。


「縄を張れ! まだ引くな!」


 予備馬だけでは足りない。


 一台目の荷車から、外側の馬を一頭外した。


 荷車には止め木を入れる。


 ディルが荷台を支える。


 二頭の馬へ引き綱を分ける。


 馬はどちらも乾いた場所に立たせる。


「引け!」


 ラグが合図する。


 二頭の馬が歩く。


 ディルが梃子を押す。


 車輪の縁が少し浮く。


「止めろ!」


 ナギリが言う。


「右へ寄っています」


「縄を左へ移せ!」


 ラグが伝える。


 馬方が縄の位置を変える。


 もう一度。


 二頭の馬が引く。


 ディルが車輪を浮かせる。


 黒い泥が音を立てて離れた。


 試し枠が乾いた場所へ戻る。


 誰も歓声を上げなかった。


 泥の重さを見たからである。


     *


「これを三台分か」


 ローデンが言った。


「三台全部が同じ場所ではまりません」


 ナギリは答えた。


「一台目が沈めば、後ろは止まります」


「戻せるか」


「一台目を軽くするために荷を下ろします」


「置く場所がない」


 サナが言う。


「薬水も分けられません」


 セレナが続ける。


 カヤンは低地の奥を見る。


「中央は、今の場所より草が濃い」


「もっと深いか」


 ローデンが聞く。


「遠くからでは深さまでは分からない。ただ、暗い範囲は広い」


 ローデンがラグを見る。


「お前だけなら抜けられるか」


「東の縁なら」


「中央は」


「走れば、抜けられるかもしれない」


「かもしれない、か」


 以前なら、ラグは言い切った。


 今は言い切らなかった。


「俺一騎なら試せる」


「荷車三台は、お前一騎ではない」


「分かっている」


「なら決まりだ」


 ローデンは北を見る。


「回る」


 ラグが低地を見る。


「半日増える」


「沈めば一日では済まん」


「荷を捨てれば」


「捨てるために仕入れた荷ではない」


 ローデンは命じた。


「カヤン。北の道筋を見ろ」


「煙はありません。丘の裏に水の光があります」


「ラグ。走って確かめろ。乾いた場所まで行って戻れ」


「分かった」


「戻るまでが仕事だ」


「二度言うな」


「戻らなければ三度言えん」


 ラグは北へ走った。


「ディル。車輪を洗う。金具箱も見ろ」


「分かった」


「ナギリ。南へ入れない線を残せ」


「誰に」


「次に来る荷車へだ」


 ナギリは少し考えた。


 低地の入口へ、黒い泥のついた草束を結んだ。


 そこへ、割れた表土を一片置く。


 文字はない。


 だが、荷を運ぶ者なら、泥のついた予備輪と折れた草の意味を考える。


 ローデンは馬方へ言った。


「北へ向け直せ。重い荷車から先だ」


     *


 北の道は、近くなかった。


 だが、乾いていた。


 ラグが先に戻り、報告した。


「丘を一つ回る。石場がある。荷車一台ずつなら通れる」


「水は」


「丘の裏に浅い流れがある」


 カヤンが頷く。


「ここから見えた光と同じ場所だ」


「岸は」


「北側が乾いている」


「戻れる場所は」


「ある。荷車二台分の広みが二つ」


「行くぞ」


 ローデンが言った。


 商隊は北へ向きを変えた。


 カヤンが先を見る。


 ラグが、先頭と一台目の間を走る。


 坂の先を見て戻る。


 次の広みを見て戻る。


 馬方へ、止まる場所を伝える。


 ナギリは馬とケンタウロスの蹄を見る。


 乾いた石場で滑っていないか。


 低い場所へ水が残っていないか。


 車輪へ泥が固まっていないか。


 ディルは重い荷車の横にいた。


 石へ乗る時は荷台を支える。


 斜面で止まる時は、止め木を入れる。


 金具箱がずれれば、持ち上げて位置を戻す。


 誰も荷車の代わりにはならない。


 馬が引く。


 馬方が進める。


 護衛が道を確かめる。


 ローデンが進むか止まるかを決める。


 それぞれの仕事が分かれていた。


     *


 水場へ着いた時、日は西へ傾いていた。


 近道を通れば、昼前に着くはずだった。


 半日遅れた。


 だが、荷車は三台ともある。


 馬も六頭いる。


 布荷は濡れていない。


 薬籠も泥へ落ちていない。


 金具箱は、底に少し泥がついただけだった。


 サナが箱を見た。


「木箱は乾かせば戻せます」


「値は」


 ローデンが聞く。


「今のところ、下がりません」


「なら帳へは泥落としだけ書け」


「はい」


 セレナは試験に使った縄を分けた。


「この縄は薬籠へ戻しません」


「何へ使う」


「車輪の引き上げ用に残します」


「札をつけろ」


「はい」


 ナギリはシオンの草束を広げた。


 長い草。


 短い草。


 折った草。


 泥が少しついている。


 サナが、細い糸を一本加えた。


「これは何」


 ナギリが聞く。


「布です」


「なぜ」


「荷車が沈めば、置き場所を探すのは布だからです」


 セレナも、小さな青い紙片を加えた。


「これは水ですか」


「薬へ使える水です」


「長い草も水です」


「同じ水ではありません」


 青い紙を裏返す。


 裏には黒い印が一つある。


「泥へ触れたら、こちらです」


 ナギリは五つを並べた。


 水。


 蹄。


 荷。


 布。


 薬水。


 南の低地では、全部が同じ場所へ集まっていた。


 北の道では、分かれていた。


 ローデンが草束を見る。


「それを最初に置いたのは誰だ」


「シオンです」


「幕営の娘か」


「はい」


「名を書いておく」


「なぜですか」


「見方の元を出した」


「売ったわけではありません」


「仕事なら、後で値がつく」


「シオンは商人ではありません」


「商人だけが仕事を売るわけではない」


 ローデンは帳へ書いた。


 ――南低地。


 ――表面乾燥。下層湿り。


 ――予備輪、金具箱一箱分の荷重にて半輪沈下。


 ――荷車通行、不可。


 ――北回り、半日増し。


 ――布荷損失なし。


 ――薬水用途変更なし。


 ――馬および護衛の蹄傷なし。


 その下へ、人の名を書く。


 遠見。


 カヤン。


 先行確認。


 ラグ。


 泥と進行可否。


 ナギリ。


 試し枠および車輪引き上げ補助。


 ディル。


 線置きの元。


 シオン。


 ラグが帳を覗く。


「俺が走ったことも書くのか」


「書いた」


「速かったからか」


「戻ってきたからだ」


 ラグは少し黙った。


「先へ着くだけでは駄目か」


「先に着いて、後ろが沈めば護衛ではない」


「分かっている」


「なら次も戻れ」


     *


 夜、ローデンがナギリを呼んだ。


「次の塩場まで、商隊の蹄と低地を見ろ」


「次の水場まででは」


「今日着いた」


「では、終わりです」


「終わったから次を頼んでいる」


「塩場までですか」


「まずは」


「その先は」


「塩場で決める」


 前と同じ答えだった。


 ナギリは少し考える。


 幕営へ戻る道。


 南へ続く道。


 どちらも、まだ消えていない。


「止めることがあります」


「理由を出せ」


「遠回りもします」


「沈むより安ければ回す」


「値は分かりません」


「サナが出す」


「水は」


「セレナが分ける」


「遠くは」


「カヤンが見る」


「走って確かめるのは」


「ラグだ」


「ディルは」


「沈んだ時に持ち上げる」


 ローデンはナギリを見る。


「お前は泥と蹄を見ろ」


「私は弟子ではありません」


「聞いていない」


「商人にもなりません」


「それも聞いていない」


「では」


「塩場まで見ろ」


 ナギリは草束を包み直した。


「分かりました」


     *


 翌朝、ローデン商隊は水場を出た。


 荷車三台。


 牽引馬五頭。


 予備馬一頭。


 馬方三人。


 商隊主ローデン。


 弟子のサナ。


 弟子のセレナ。


 護衛のカヤン、ラグ、ナギリ、ディル。


 カヤンは、遠くを見る。


 ラグは、前へ行き、戻って伝える。


 ディルは、重い荷の横につく。


 ナギリは、蹄と泥を見る。


 サナは、荷紐と布を見る。


 セレナは、水と薬の印を見る。


 ローデンは、荷札と道の日数を見る。


 昨日まで、ナギリが止めたのは、一騎の蹄だった。


 今日は、商隊全体の進路を変えた。


 だが、ナギリは商隊を止めたつもりはなかった。


 進める道を変えただけである。


 近道を避けた。


 半日遠回りした。


 何も沈まなかった。


 何も濡れなかった。


 何も割れなかった。


 何も起きなかった。


 何も起きなかったので、遠回りが正しかったと証明するものは少ない。


 南の低地へ沈んだ予備車輪の泥。


 ローデンの帳。


 サナが計算した、失わずに済んだ荷の値。


 セレナが使わずに済んだ黒い印。


 カヤンが見つけた、草の根元の暗い線。


 ラグが走って持ち帰った、戻り蹄の跡。


 ディルの梃子についた黒い泥。


 ナギリが置いた、三本の草。


 それだけである。


 だが、道とは、通った跡だけではない。


 通らなかった理由も、次の道を作る。


     *


 後に、誰かがこの日のことを大げさに語った。


 草原の沼を見抜いた女。


 商隊を破滅から救った道見。


 地面へ草を置き、沈む未来を言い当てた娘。


 ナギリは、その話を聞くたびに否定した。


「未来は見ていません」


 では、何を見たのかと聞かれる。


 ナギリは答える。


「草の根元と、戻ってきた蹄と、沈んだ車輪です」


 それだけでは話にならないと言われる。


 英雄らしくないと言われる。


 ナギリは困った。


 英雄になったつもりはない。


 商隊を救ったつもりもない。


 ただ、近道を避けただけである。


 荷車を沈めたくなかったので。

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