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十五文化圏周縁抄 走る血のケンタウロス  作者: 黒瀬 量衡


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1/3

1吹 追放されたわけではありません。ただ、蹄を洗えと言っただけです

 草原の民は、走る血を誇る。


 風を裂く脚。


 地を叩く蹄。


 乾いた草を蹴り、低い丘を越え、敵陣の横腹へ突き刺さる突撃。


 それが第十四文化圏、ケンタウロスの誇りである。


 王立学術院の帳では、彼らはケンタウロスと呼ばれる。


 だが、彼ら自身は、そうは言わない。


 彼らは自分たちを、走る血の民と呼ぶ。


 父の血。


 母の腹。


 祖の駆けた道。


 幼い頃に初めて越えた丘。


 初めて割った水場の氷。


 初めて血をにじませた蹄。


 それらを一つにして、血と呼ぶ。


 だから、彼らにとって足元は誇りだった。


 足元を疑うことは、血を疑うことだった。


     *


 ナギリは、まだ蹄見ではなかった。


 蹄を見る者ではあった。


 だが、正式な蹄見ではない。


 蹄見とは、部族の走りを止めることができる役である。


 若い戦士の突撃を止める。


 族長の遠征を遅らせる。


 婚礼の走りを延期させる。


 それだけの言葉を持つ。


 ナギリには、まだそれがない。


 彼女にあるのは、目だけだった。


 泥を見る目。


 蹄の縁を見る目。


 熱を持った脚を見る目。


 草の倒れ方を見る目。


 そして、走りたい者が見ようとしないものを見る目である。


     *


 その日、ローデン商隊は、草原の南の境で出立を待っていた。


 移動幕営から、五騎のケンタウロスが来ていた。


 先頭に立つのは、トルガ。


 移動幕営側の隊長である。


 大きな体に古い傷が多い。


 速さを誇る年齢は過ぎているが、誰を先へ出し、誰を後ろへ置けば全員が戻れるかを知っている。


 トルガは、境まで同行する。


 境を越えた後は、移動幕営へ戻る。


 ローデンへ引き渡されるのは四騎だった。


 ラグ。


 カヤン。


 ディル。


 そして、ナギリ。


 ラグとナギリは、母方のいとこ同士である。


 トルガは、二人の母方の叔父だった。


 だからといって、トルガは二人を甘やかさない。


 むしろ、血が近い者ほど人前で厳しく扱った。


「境までは俺がまとめる」


 トルガは、四騎へ言った。


「境から先はローデンの商隊だ。護衛の判断と、進むか止まるかの最後の判断は、ローデンがする」


 ラグは不満そうに鼻を鳴らした。


 ナギリは地面を見ていた。


 カヤンは遠くを見ていた。


 ディルは、荷車の傾きを見ていた。


 同じ場所にいても、四騎の目は違うものを見ていた。


     *


 商隊主は、人間のローデン。


 砂道を往来する商人である。


 第五文化圏では薬草、紙、小壺を買う。


 第十三文化圏では布を買う。


 南の塩市へ品を運ぶ。


 王国の町から金具や穀物を戻す。


 道を一度通るだけでは、商いにならない。


 行きの荷。


 帰りの荷。


 買う値。


 売る値。


 運賃。


 関所。


 護衛。


 水。


 そのすべてをつないで、ローデンの商隊は動く。


 荷車は三台。


 前の二台は二頭立て。


 後ろの軽い荷車は一頭立て。


 さらに、荷を付けていない予備馬が一頭いる。


 馬は全部で六頭だった。


 荷車を引くのは馬である。


 ケンタウロスは護衛として歩き、走る。


 馬の代わりに轅へ入る者はいない。


 ローデンには、弟子が二人いた。


 一人は、ラミアのセレナ。


 第五文化圏、青壺の家の長女である。


 水を見る。


 薬を見る。


 壺を見る。


 紙へ移った油を見る。


 毒と汚れを、すぐ同じものとして扱わない。


 何が混じったか分からないものは、捨てる前に分ける。


 消す前に帳へ残す。


 もう一人は、アラクネのサナ。


 第十三文化圏の織屋で、下糸を拾っていた娘である。


 布を見る。


 糸を見る。


 荷紐を見る。


 湿り。


 砂。


 塩。


 汗。


 臭い。


 古い糸。


 何へ戻せるか。


 何へは戻せないか。


 どの用途なら、まだ値が残るか。


 二人とも、まだ一人前の商人ではない。


 だが、ローデンは二人を荷付きとは呼ばなかった。


 弟子と呼ぶ。


 見つけた傷みを、値と道へ直すことを教えている。


     *


「遅い」


 ラグが言った。


 朝の風の中で、黒い毛束が揺れた。


「このままでは、昼の水場に間に合わない」


 ローデンは荷札を確認している。


 サナは、砂を避けるために布包みを高く吊り直している。


 セレナは、水袋へ結んだ印布を確かめている。


 白。


 青。


 灰。


 黒。


 赤。


 水の使い道が混じらないための印である。


 ディルは、一番重い荷車の横に立っていた。


 傾いた荷枠を両腕で支え、サナが締め直した荷紐へ重みがかからないようにしている。


 荷車を引いているのではない。


 上の荷が崩れないように、人の腕で支えている。


 カヤンは商隊の外側に立ち、南の低地を見ていた。


「水場に煙が二つ」


 カヤンが言った。


「先客がいる。西側の浅瀬には人影がない」


 ローデンは顔を上げない。


「見えたことだけ言え」


「煙が二筋。人影は三つ。西の浅瀬には見えない」


「それでいい」


 ローデンは言いかけた。


 少し止まり、言い直す。


「聞いた」


 それぞれの仕事が、それぞれの理由で出立を遅らせていた。


 だが、ラグはそれを見ない。


 彼が見ているのは、草原の先だけだった。


「走れば着く」


 ラグは言った。


「俺たちが前を開ける」


「馬と荷車は、お前と同じ速さでは走らん」


 ローデンが答えた。


「先へ行って何を開ける」


「道だ」


「荷車が通れない道を開けても、値にならん」


 ラグは口を閉じた。


 ナギリは、その足元を見ていた。


 ラグの左後ろ。


 蹄の外縁に、薄く泥が残っている。


 泥だけなら構わない。


 草原には泥がある。


 雨の後なら、なおさらだ。


 だが、その泥は色が違った。


 朝の浅い水場の泥ではない。


 黒い。


 少し粘る。


 乾き方が遅い。


 臭いも違う。


 湿った草の匂いではない。


 閉じた荷の下で悪くなった水の匂いに似ていた。


「ラグ」


 ナギリは言った。


「左後ろを洗って」


 ラグは振り返った。


 若い顔に、不快が走った。


「何だ」


「蹄の縁。黒い泥が入ってる」


「泥くらい、走れば落ちる」


「落ちない泥だよ」


「お前はいつから蹄見になった」


 周囲の空気が止まった。


 ローデンは荷札から顔を上げた。


 セレナは水袋へ印を結ぶ手を止めた。


 サナは布包みの紐を結ぶ手を止めない。


 止めないが、聞いている。


 ナギリは答えなかった。


 正式な蹄見ではない。


 それは事実だった。


 だから、言えることだけを言った。


「洗った方がいい」


「俺の蹄が汚れていると?」


「汚れてる」


 ラグの肩が膨れた。


「ナギリ」


 ラグは低く言った。


「俺は昨日、北の丘を一息で越えた」


「知ってる」


「その前は、三つの隊を追い抜いた」


「知ってる」


「俺の蹄は、族長の血だ」


「それも知ってる」


「なら、なぜ止める」


 ナギリは、ラグの左後ろを見た。


 黒い泥は、蹄の割れ目の奥へ入っている。


 外から見れば小さい。


 走る者なら、なおさら見ない。


 だが、走ればそこへ熱が入る。


 熱が入れば、泥は奥へ押される。


 奥へ入れば、夜には腫れる。


 腫れれば、明日は走れない。


「血で走るんじゃない」


 ナギリは言った。


「蹄で走る」


 笑う者はいなかった。


     *


 ラグが一歩前へ出た。


 大きな体が、ナギリの前へ影を落とす。


 ナギリは動かなかった。


 彼女も、走る血の民である。


 ただし、彼女の誇りは速さではない。


 走れる状態で帰すことだった。


「追放されたいのか」


 ラグが言った。


 トルガの耳が動いた。


「誰を追放するか、お前が決めるな」


 低い声だった。


 ラグが叔父を見る。


「ですが」


「境へ出ると決めたのは族長と蹄見だ。お前ではない」


 トルガはナギリを見る。


「お前も、追放された顔をするな」


「してません」


「している」


「見てるだけです」


「それがうるさいと言われたんだ」


 ナギリは少しだけ口を閉じた。


 ラグが鼻を鳴らす。


「やはり、幕営から出されたんじゃないか」


「外で見ろと言われた」


 ナギリは答えた。


「追放されたわけじゃない」


「なら、俺を止めるな」


「止めてない」


「なら何だ」


「蹄を洗えと言ってる」


 沈黙。


 草が風に倒れる音だけがした。


     *


 ローデンが口を開いた。


「身内の言い合いは終わりだ」


 トルガが少しだけ眉を上げた。


「境までは俺の隊だ」


「なら決めろ」


 ローデンはラグの蹄を指した。


「そのまま渡すか。洗って渡すか」


 トルガはラグを見る。


「見せろ」


「走れます」


「聞いていない」


 トルガの声が低くなる。


「蹄を見せろ」


 ラグは不満そうに左後ろを出した。


 ナギリが近づく。


「触るよ」


「勝手にしろ」


 ナギリは蹄の縁へ触れた。


 熱い。


 まだ深くはない。


 だが、泥が入り込んだ縁だけ熱が強い。


「熱があります」


 ナギリは言った。


「どの程度だ」


 ローデンが聞く。


「走れば悪くなる程度です」


「今すぐ歩けないのか」


「歩けます」


「先頭を走れるか」


「走らせません」


 ラグが顔を上げた。


「お前に決める言葉はない」


「私にはない」


 ナギリは言った。


「でも、ローデンにはある」


 ローデンがラグを見る。


「俺の商隊で誰をどこへ置くかは、俺が決める」


「まだ引き渡されていない」


「なら叔父に決めてもらえ」


 トルガは短く言った。


「洗え」


 ラグの耳が伏せられた。


     *


 セレナが近づいた。


「泥を見ます」


「薬売りに何が分かる」


 ラグが言った。


「今は、薬売りではありません」


 セレナは短く答えた。


「ローデンの弟子です」


 蹄の周囲を見る。


 泥へ直接指を入れず、乾いた紙片を当てる。


 湿りを吸わせる。


 薄い板へ置き、少し風に当てる。


 それから臭いを確かめた。


「水だけではありません」


 セレナは言った。


「古い脂があります。魚の臭いも残っています」


 ローデンの顔が変わった。


「魚」


「昨日、裂けた革袋です」


 セレナは、荷車の後ろを見る。


 前日の夕方、干し魚を戻すために使った水袋の縫い目が裂けた。


 水は売り物ではなかった。


 飲み水でもない。


 薬へ使う水でもない。


 ローデンは捨てるよう命じた。


 だが、捨てる場所までは言わなかった。


 荷車の陰へ流された古い水は、土と混じった。


 夜の見回りをしたラグが、そこを踏んだ。


 朝になれば表面だけ乾く。


 だが、蹄の縁には残る。


「捨て場所まで言わなかった」


 ローデンは言った。


「俺の落ち度だ」


 言い訳はしなかった。


「毒か」


 ラグが聞いた。


「毒とは決められません」


 セレナは答えた。


「ただ、腐った水と脂が混じっています。傷へ入れてよいものではありません」


「傷はない」


 ナギリが言った。


「まだ」


 セレナが頷く。


「走って割れれば、そこから入ります」


     *


 サナが荷車の下を見る。


 泥を拭うために置かれていた古布。


 洗い桶。


 すぐ横の布包み。


「その桶は、そこで使わないでください」


 サナが言った。


「なぜだ」


 ローデンが聞く。


「洗った水が跳ねます」


「布までは離れている」


「今はです。ラグが脚を動かせば泥が飛びます」


「布を退けろ」


「ディル」


 サナが呼ぶ。


 ディルは荷車の轅へ入らなかった。


 馬の手綱にも触れない。


 荷台の横へ回り、上に積まれた重い布包みを両腕で持ち上げた。


 サナが下の縄を抜く。


 ディルが包みを乾いた石の上へ移す。


「ここでいいか」


「もう少し風上へ」


 ディルは黙って運んだ。


「値は」


 ローデンが聞く。


「王国向けの薄布です」


 サナが答える。


「臭いが入れば、塩市の厚布より値が下がります」


「どれだけだ」


「二包みで銀片十以上です」


「なら先に動かせ」


 カヤンが遠くを見たまま言った。


「風が西へ変わる」


 サナがすぐに布包みの位置を変えた。


 ローデンはカヤンを見る。


「いつだ」


「もう草の穂が向きを変えてる」


「聞いた。布は東へ置け」


     *


 セレナは、白い印の飲み水から必要な分だけ別の桶へ移した。


 その桶へ灰色の印布を結ぶ。


 飲む水ではない。


 薬へ使う水でもない。


 蹄を洗うための水である。


 サナは、濡れてよい古布と売り物の布を分けた。


 布荷を風上へ移す。


 濡れた泥を拭う布は、売り物へ戻さない。


 ローデンは、裂けた魚戻し水の革袋を荷車から出した。


「これはどうする」


 セレナが革袋を見る。


「内側へ臭いが残っています」


「飲み水へ戻せるか」


「戻しません」


「薬水は」


「使いません」


「洗い水なら」


「洗って干した後、もう一度見ます」


 サナが革袋を包んでいた布を見る。


「この布も薬包みには戻しません」


「何へ使う」


「油壺の下へ敷きます」


「値は」


「捨てるよりは残ります」


「なら分けろ」


 ナギリは桶を置いた。


 水。


 灰。


 硬い草束。


 古い布。


 老いた蹄見から教えられた声を思い出す。


 強くこするな。


 縁を開け。


 奥へ押すな。


 ナギリは、ラグの左後ろへ回った。


 ラグは動かなかった。


 誇り高い若い戦士が、人間の商隊の前で、若い女に蹄を洗われている。


 普通なら侮辱である。


 普通なら笑いになる。


 だが、誰も笑わなかった。


 泥が落ちたからである。


 黒い筋が水へ流れた。


 灰色の泡が立った。


 草束に、細い腐れの臭いが移った。


 ラグの顔から血の気が引いた。


「これが」


「泥だよ」


 ナギリは言った。


「ただ、走らせちゃいけない泥」


 セレナは、洗い水の桶へ赤い印を結んだ。


「水場の下手へ捨てます。馬にも飲ませません」


 サナは、泥の飛んだ古布へ札を結ぶ。


 ――蹄水。


 ――売り物へ戻さない。


 ――荷覆いの継ぎ布にだけ使う。


 ローデンが札を見る。


「捨てないのか」


「使えるところがあります」


「値は」


「まだ分かりません」


「次の水場までに出せ」


「はい」


     *


 ローデンはナギリへ聞いた。


「ラグは動けるか」


「歩けます」


「走れるか」


「今日は前を走らせません」


 ラグの肩が動いた。


「今度は何だ」


「洗ったばかりだから。土を入れない方がいい」


「では何をしろと」


「後ろで荷を見て」


「俺に荷守りをしろと?」


「そう」


「俺は突撃の血だ」


「今日は荷守りをして」


 ラグは怒るべきか迷った顔をした。


 サナは口元を布の陰へ隠した。


「笑っているのか」


 ラグが言う。


「布へ息をかけないようにしています」


 サナは答えた。


 セレナは真面目に言った。


「後ろの馬も見てください。右後ろが少し脚を逃がしています」


 ラグが馬を見る。


「俺が馬を見るのか」


「蹄は見なくて構いません」


 ナギリが言った。


「歩き方が変わったら呼んで」


「お前を?」


「私か、セレナを」


「なぜ俺が」


 ローデンが遮った。


「護衛だからだ」


 ラグがローデンを見る。


「先頭を走る者だけが護衛ではない」


 ローデンは続けた。


「最後尾が止まった時、戻って知らせる者も要る」


 ラグは答えなかった。


 まだ、その言葉を自分の役目とは思っていなかった。


     *


 トルガが南の境石の前へ立った。


 低い石である。


 王国の杭もない。


 柵もない。


 ただ、移動幕営がここから先を外と決めている石だった。


「ここまでだ」


 トルガは言った。


 ローデンが前へ出る。


「四騎、渡す」


 トルガが一騎ずつ見る。


「ラグ」


「はい」


「速さだけで先へ出るな」


 ラグの耳が動く。


「カヤン」


「はい」


「遠くを見たまま、足元を忘れるな」


「分かっています」


「ディル」


「はい」


「力を出す前に、何を支えるのか聞け」


 ディルが頷く。


「ナギリ」


「はい」


「見つけたものは口にしろ。止めるなら、理由も言え」


「はい」


 トルガはローデンを見る。


「血筋は俺が保証する」


 ローデンは荷札を畳んだ。


「血は帳へ書かん」


 トルガの眉が少し動く。


「何を書く」


「働きだ」


「なら見てやってくれ」


「見る」


 ローデンはそれだけ答えた。


 トルガはナギリへ聞いた。


「戻りたいか」


 ナギリは、草原の方を見た。


 移動幕営は、低い丘の向こうにある。


 ここからは見えない。


 見えないが、戻る道は分かる。


「まだ分かりません」


「いつ決める」


「見てから決めます」


「何を見る」


「次の水場」


 ローデンが口を挟む。


「その次も見ろ」


 ナギリがローデンを見る。


「その先は」


「着いてから決めろ」


 トルガが少しだけ笑った。


「お前らしい」


 ナギリが叔父を見る。


「どちらがですか」


「見てから決めるところだ」


     *


 ローデン商隊は、南へ動き始めた。


 荷車三台。


 牽引用の馬五頭。


 予備馬一頭。


 先頭にはカヤンが立つ。


 遠くの煙。


 水面の光。


 人影。


 草の色。


 進む先にあるものを、早く見つける。


 重い荷車の横にはディルが付く。


 車輪が石へ乗る時。


 荷が傾く時。


 縄を掛ける時。


 人の腕で支えるべきものを支える。


 後ろにはラグがいた。


 左後ろの蹄を気にしながら、荷車と予備馬の間を行き来する。


 速く走ることはできない。


 だが、後ろで起きたことを前へ伝えることはできる。


 ナギリは、列の外側を歩いた。


 ケンタウロスの蹄。


 馬の蹄。


 車輪の沈み。


 泥。


 水。


 傷。


 混じる前のものを見る。


 境石の前に、トルガだけが残った。


 商隊が丘を越えるまで見送る。


 ラグは一度だけ振り返った。


 ナギリは振り返らなかった。


 追放されたわけではない。


 戻れないと決められたわけでもない。


 彼女はただ、幕営の外でも蹄を見ろと言われた。


 そして今朝は、蹄を洗えと言っただけだった。


 その一言で、商隊は半刻遅れた。


 だが、ラグの蹄は割れなかった。


 布には腐れた臭いが移らなかった。


 飲み水へ洗い水は混じらなかった。


 馬も荷車も、揃って南へ進んだ。


 走る血は、速さだけでは続かない。


 止める者がいて。


 見る者がいて。


 戻って伝える者がいて。


 初めて、次の水場まで届くのである。

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