1吹 追放されたわけではありません。ただ、蹄を洗えと言っただけです
草原の民は、走る血を誇る。
風を裂く脚。
地を叩く蹄。
乾いた草を蹴り、低い丘を越え、敵陣の横腹へ突き刺さる突撃。
それが第十四文化圏、ケンタウロスの誇りである。
王立学術院の帳では、彼らはケンタウロスと呼ばれる。
だが、彼ら自身は、そうは言わない。
彼らは自分たちを、走る血の民と呼ぶ。
父の血。
母の腹。
祖の駆けた道。
幼い頃に初めて越えた丘。
初めて割った水場の氷。
初めて血をにじませた蹄。
それらを一つにして、血と呼ぶ。
だから、彼らにとって足元は誇りだった。
足元を疑うことは、血を疑うことだった。
*
ナギリは、まだ蹄見ではなかった。
蹄を見る者ではあった。
だが、正式な蹄見ではない。
蹄見とは、部族の走りを止めることができる役である。
若い戦士の突撃を止める。
族長の遠征を遅らせる。
婚礼の走りを延期させる。
それだけの言葉を持つ。
ナギリには、まだそれがない。
彼女にあるのは、目だけだった。
泥を見る目。
蹄の縁を見る目。
熱を持った脚を見る目。
草の倒れ方を見る目。
そして、走りたい者が見ようとしないものを見る目である。
*
その日、ローデン商隊は、草原の南の境で出立を待っていた。
移動幕営から、五騎のケンタウロスが来ていた。
先頭に立つのは、トルガ。
移動幕営側の隊長である。
大きな体に古い傷が多い。
速さを誇る年齢は過ぎているが、誰を先へ出し、誰を後ろへ置けば全員が戻れるかを知っている。
トルガは、境まで同行する。
境を越えた後は、移動幕営へ戻る。
ローデンへ引き渡されるのは四騎だった。
ラグ。
カヤン。
ディル。
そして、ナギリ。
ラグとナギリは、母方のいとこ同士である。
トルガは、二人の母方の叔父だった。
だからといって、トルガは二人を甘やかさない。
むしろ、血が近い者ほど人前で厳しく扱った。
「境までは俺がまとめる」
トルガは、四騎へ言った。
「境から先はローデンの商隊だ。護衛の判断と、進むか止まるかの最後の判断は、ローデンがする」
ラグは不満そうに鼻を鳴らした。
ナギリは地面を見ていた。
カヤンは遠くを見ていた。
ディルは、荷車の傾きを見ていた。
同じ場所にいても、四騎の目は違うものを見ていた。
*
商隊主は、人間のローデン。
砂道を往来する商人である。
第五文化圏では薬草、紙、小壺を買う。
第十三文化圏では布を買う。
南の塩市へ品を運ぶ。
王国の町から金具や穀物を戻す。
道を一度通るだけでは、商いにならない。
行きの荷。
帰りの荷。
買う値。
売る値。
運賃。
関所。
護衛。
水。
そのすべてをつないで、ローデンの商隊は動く。
荷車は三台。
前の二台は二頭立て。
後ろの軽い荷車は一頭立て。
さらに、荷を付けていない予備馬が一頭いる。
馬は全部で六頭だった。
荷車を引くのは馬である。
ケンタウロスは護衛として歩き、走る。
馬の代わりに轅へ入る者はいない。
ローデンには、弟子が二人いた。
一人は、ラミアのセレナ。
第五文化圏、青壺の家の長女である。
水を見る。
薬を見る。
壺を見る。
紙へ移った油を見る。
毒と汚れを、すぐ同じものとして扱わない。
何が混じったか分からないものは、捨てる前に分ける。
消す前に帳へ残す。
もう一人は、アラクネのサナ。
第十三文化圏の織屋で、下糸を拾っていた娘である。
布を見る。
糸を見る。
荷紐を見る。
湿り。
砂。
塩。
汗。
臭い。
古い糸。
何へ戻せるか。
何へは戻せないか。
どの用途なら、まだ値が残るか。
二人とも、まだ一人前の商人ではない。
だが、ローデンは二人を荷付きとは呼ばなかった。
弟子と呼ぶ。
見つけた傷みを、値と道へ直すことを教えている。
*
「遅い」
ラグが言った。
朝の風の中で、黒い毛束が揺れた。
「このままでは、昼の水場に間に合わない」
ローデンは荷札を確認している。
サナは、砂を避けるために布包みを高く吊り直している。
セレナは、水袋へ結んだ印布を確かめている。
白。
青。
灰。
黒。
赤。
水の使い道が混じらないための印である。
ディルは、一番重い荷車の横に立っていた。
傾いた荷枠を両腕で支え、サナが締め直した荷紐へ重みがかからないようにしている。
荷車を引いているのではない。
上の荷が崩れないように、人の腕で支えている。
カヤンは商隊の外側に立ち、南の低地を見ていた。
「水場に煙が二つ」
カヤンが言った。
「先客がいる。西側の浅瀬には人影がない」
ローデンは顔を上げない。
「見えたことだけ言え」
「煙が二筋。人影は三つ。西の浅瀬には見えない」
「それでいい」
ローデンは言いかけた。
少し止まり、言い直す。
「聞いた」
それぞれの仕事が、それぞれの理由で出立を遅らせていた。
だが、ラグはそれを見ない。
彼が見ているのは、草原の先だけだった。
「走れば着く」
ラグは言った。
「俺たちが前を開ける」
「馬と荷車は、お前と同じ速さでは走らん」
ローデンが答えた。
「先へ行って何を開ける」
「道だ」
「荷車が通れない道を開けても、値にならん」
ラグは口を閉じた。
ナギリは、その足元を見ていた。
ラグの左後ろ。
蹄の外縁に、薄く泥が残っている。
泥だけなら構わない。
草原には泥がある。
雨の後なら、なおさらだ。
だが、その泥は色が違った。
朝の浅い水場の泥ではない。
黒い。
少し粘る。
乾き方が遅い。
臭いも違う。
湿った草の匂いではない。
閉じた荷の下で悪くなった水の匂いに似ていた。
「ラグ」
ナギリは言った。
「左後ろを洗って」
ラグは振り返った。
若い顔に、不快が走った。
「何だ」
「蹄の縁。黒い泥が入ってる」
「泥くらい、走れば落ちる」
「落ちない泥だよ」
「お前はいつから蹄見になった」
周囲の空気が止まった。
ローデンは荷札から顔を上げた。
セレナは水袋へ印を結ぶ手を止めた。
サナは布包みの紐を結ぶ手を止めない。
止めないが、聞いている。
ナギリは答えなかった。
正式な蹄見ではない。
それは事実だった。
だから、言えることだけを言った。
「洗った方がいい」
「俺の蹄が汚れていると?」
「汚れてる」
ラグの肩が膨れた。
「ナギリ」
ラグは低く言った。
「俺は昨日、北の丘を一息で越えた」
「知ってる」
「その前は、三つの隊を追い抜いた」
「知ってる」
「俺の蹄は、族長の血だ」
「それも知ってる」
「なら、なぜ止める」
ナギリは、ラグの左後ろを見た。
黒い泥は、蹄の割れ目の奥へ入っている。
外から見れば小さい。
走る者なら、なおさら見ない。
だが、走ればそこへ熱が入る。
熱が入れば、泥は奥へ押される。
奥へ入れば、夜には腫れる。
腫れれば、明日は走れない。
「血で走るんじゃない」
ナギリは言った。
「蹄で走る」
笑う者はいなかった。
*
ラグが一歩前へ出た。
大きな体が、ナギリの前へ影を落とす。
ナギリは動かなかった。
彼女も、走る血の民である。
ただし、彼女の誇りは速さではない。
走れる状態で帰すことだった。
「追放されたいのか」
ラグが言った。
トルガの耳が動いた。
「誰を追放するか、お前が決めるな」
低い声だった。
ラグが叔父を見る。
「ですが」
「境へ出ると決めたのは族長と蹄見だ。お前ではない」
トルガはナギリを見る。
「お前も、追放された顔をするな」
「してません」
「している」
「見てるだけです」
「それがうるさいと言われたんだ」
ナギリは少しだけ口を閉じた。
ラグが鼻を鳴らす。
「やはり、幕営から出されたんじゃないか」
「外で見ろと言われた」
ナギリは答えた。
「追放されたわけじゃない」
「なら、俺を止めるな」
「止めてない」
「なら何だ」
「蹄を洗えと言ってる」
沈黙。
草が風に倒れる音だけがした。
*
ローデンが口を開いた。
「身内の言い合いは終わりだ」
トルガが少しだけ眉を上げた。
「境までは俺の隊だ」
「なら決めろ」
ローデンはラグの蹄を指した。
「そのまま渡すか。洗って渡すか」
トルガはラグを見る。
「見せろ」
「走れます」
「聞いていない」
トルガの声が低くなる。
「蹄を見せろ」
ラグは不満そうに左後ろを出した。
ナギリが近づく。
「触るよ」
「勝手にしろ」
ナギリは蹄の縁へ触れた。
熱い。
まだ深くはない。
だが、泥が入り込んだ縁だけ熱が強い。
「熱があります」
ナギリは言った。
「どの程度だ」
ローデンが聞く。
「走れば悪くなる程度です」
「今すぐ歩けないのか」
「歩けます」
「先頭を走れるか」
「走らせません」
ラグが顔を上げた。
「お前に決める言葉はない」
「私にはない」
ナギリは言った。
「でも、ローデンにはある」
ローデンがラグを見る。
「俺の商隊で誰をどこへ置くかは、俺が決める」
「まだ引き渡されていない」
「なら叔父に決めてもらえ」
トルガは短く言った。
「洗え」
ラグの耳が伏せられた。
*
セレナが近づいた。
「泥を見ます」
「薬売りに何が分かる」
ラグが言った。
「今は、薬売りではありません」
セレナは短く答えた。
「ローデンの弟子です」
蹄の周囲を見る。
泥へ直接指を入れず、乾いた紙片を当てる。
湿りを吸わせる。
薄い板へ置き、少し風に当てる。
それから臭いを確かめた。
「水だけではありません」
セレナは言った。
「古い脂があります。魚の臭いも残っています」
ローデンの顔が変わった。
「魚」
「昨日、裂けた革袋です」
セレナは、荷車の後ろを見る。
前日の夕方、干し魚を戻すために使った水袋の縫い目が裂けた。
水は売り物ではなかった。
飲み水でもない。
薬へ使う水でもない。
ローデンは捨てるよう命じた。
だが、捨てる場所までは言わなかった。
荷車の陰へ流された古い水は、土と混じった。
夜の見回りをしたラグが、そこを踏んだ。
朝になれば表面だけ乾く。
だが、蹄の縁には残る。
「捨て場所まで言わなかった」
ローデンは言った。
「俺の落ち度だ」
言い訳はしなかった。
「毒か」
ラグが聞いた。
「毒とは決められません」
セレナは答えた。
「ただ、腐った水と脂が混じっています。傷へ入れてよいものではありません」
「傷はない」
ナギリが言った。
「まだ」
セレナが頷く。
「走って割れれば、そこから入ります」
*
サナが荷車の下を見る。
泥を拭うために置かれていた古布。
洗い桶。
すぐ横の布包み。
「その桶は、そこで使わないでください」
サナが言った。
「なぜだ」
ローデンが聞く。
「洗った水が跳ねます」
「布までは離れている」
「今はです。ラグが脚を動かせば泥が飛びます」
「布を退けろ」
「ディル」
サナが呼ぶ。
ディルは荷車の轅へ入らなかった。
馬の手綱にも触れない。
荷台の横へ回り、上に積まれた重い布包みを両腕で持ち上げた。
サナが下の縄を抜く。
ディルが包みを乾いた石の上へ移す。
「ここでいいか」
「もう少し風上へ」
ディルは黙って運んだ。
「値は」
ローデンが聞く。
「王国向けの薄布です」
サナが答える。
「臭いが入れば、塩市の厚布より値が下がります」
「どれだけだ」
「二包みで銀片十以上です」
「なら先に動かせ」
カヤンが遠くを見たまま言った。
「風が西へ変わる」
サナがすぐに布包みの位置を変えた。
ローデンはカヤンを見る。
「いつだ」
「もう草の穂が向きを変えてる」
「聞いた。布は東へ置け」
*
セレナは、白い印の飲み水から必要な分だけ別の桶へ移した。
その桶へ灰色の印布を結ぶ。
飲む水ではない。
薬へ使う水でもない。
蹄を洗うための水である。
サナは、濡れてよい古布と売り物の布を分けた。
布荷を風上へ移す。
濡れた泥を拭う布は、売り物へ戻さない。
ローデンは、裂けた魚戻し水の革袋を荷車から出した。
「これはどうする」
セレナが革袋を見る。
「内側へ臭いが残っています」
「飲み水へ戻せるか」
「戻しません」
「薬水は」
「使いません」
「洗い水なら」
「洗って干した後、もう一度見ます」
サナが革袋を包んでいた布を見る。
「この布も薬包みには戻しません」
「何へ使う」
「油壺の下へ敷きます」
「値は」
「捨てるよりは残ります」
「なら分けろ」
ナギリは桶を置いた。
水。
灰。
硬い草束。
古い布。
老いた蹄見から教えられた声を思い出す。
強くこするな。
縁を開け。
奥へ押すな。
ナギリは、ラグの左後ろへ回った。
ラグは動かなかった。
誇り高い若い戦士が、人間の商隊の前で、若い女に蹄を洗われている。
普通なら侮辱である。
普通なら笑いになる。
だが、誰も笑わなかった。
泥が落ちたからである。
黒い筋が水へ流れた。
灰色の泡が立った。
草束に、細い腐れの臭いが移った。
ラグの顔から血の気が引いた。
「これが」
「泥だよ」
ナギリは言った。
「ただ、走らせちゃいけない泥」
セレナは、洗い水の桶へ赤い印を結んだ。
「水場の下手へ捨てます。馬にも飲ませません」
サナは、泥の飛んだ古布へ札を結ぶ。
――蹄水。
――売り物へ戻さない。
――荷覆いの継ぎ布にだけ使う。
ローデンが札を見る。
「捨てないのか」
「使えるところがあります」
「値は」
「まだ分かりません」
「次の水場までに出せ」
「はい」
*
ローデンはナギリへ聞いた。
「ラグは動けるか」
「歩けます」
「走れるか」
「今日は前を走らせません」
ラグの肩が動いた。
「今度は何だ」
「洗ったばかりだから。土を入れない方がいい」
「では何をしろと」
「後ろで荷を見て」
「俺に荷守りをしろと?」
「そう」
「俺は突撃の血だ」
「今日は荷守りをして」
ラグは怒るべきか迷った顔をした。
サナは口元を布の陰へ隠した。
「笑っているのか」
ラグが言う。
「布へ息をかけないようにしています」
サナは答えた。
セレナは真面目に言った。
「後ろの馬も見てください。右後ろが少し脚を逃がしています」
ラグが馬を見る。
「俺が馬を見るのか」
「蹄は見なくて構いません」
ナギリが言った。
「歩き方が変わったら呼んで」
「お前を?」
「私か、セレナを」
「なぜ俺が」
ローデンが遮った。
「護衛だからだ」
ラグがローデンを見る。
「先頭を走る者だけが護衛ではない」
ローデンは続けた。
「最後尾が止まった時、戻って知らせる者も要る」
ラグは答えなかった。
まだ、その言葉を自分の役目とは思っていなかった。
*
トルガが南の境石の前へ立った。
低い石である。
王国の杭もない。
柵もない。
ただ、移動幕営がここから先を外と決めている石だった。
「ここまでだ」
トルガは言った。
ローデンが前へ出る。
「四騎、渡す」
トルガが一騎ずつ見る。
「ラグ」
「はい」
「速さだけで先へ出るな」
ラグの耳が動く。
「カヤン」
「はい」
「遠くを見たまま、足元を忘れるな」
「分かっています」
「ディル」
「はい」
「力を出す前に、何を支えるのか聞け」
ディルが頷く。
「ナギリ」
「はい」
「見つけたものは口にしろ。止めるなら、理由も言え」
「はい」
トルガはローデンを見る。
「血筋は俺が保証する」
ローデンは荷札を畳んだ。
「血は帳へ書かん」
トルガの眉が少し動く。
「何を書く」
「働きだ」
「なら見てやってくれ」
「見る」
ローデンはそれだけ答えた。
トルガはナギリへ聞いた。
「戻りたいか」
ナギリは、草原の方を見た。
移動幕営は、低い丘の向こうにある。
ここからは見えない。
見えないが、戻る道は分かる。
「まだ分かりません」
「いつ決める」
「見てから決めます」
「何を見る」
「次の水場」
ローデンが口を挟む。
「その次も見ろ」
ナギリがローデンを見る。
「その先は」
「着いてから決めろ」
トルガが少しだけ笑った。
「お前らしい」
ナギリが叔父を見る。
「どちらがですか」
「見てから決めるところだ」
*
ローデン商隊は、南へ動き始めた。
荷車三台。
牽引用の馬五頭。
予備馬一頭。
先頭にはカヤンが立つ。
遠くの煙。
水面の光。
人影。
草の色。
進む先にあるものを、早く見つける。
重い荷車の横にはディルが付く。
車輪が石へ乗る時。
荷が傾く時。
縄を掛ける時。
人の腕で支えるべきものを支える。
後ろにはラグがいた。
左後ろの蹄を気にしながら、荷車と予備馬の間を行き来する。
速く走ることはできない。
だが、後ろで起きたことを前へ伝えることはできる。
ナギリは、列の外側を歩いた。
ケンタウロスの蹄。
馬の蹄。
車輪の沈み。
泥。
水。
傷。
混じる前のものを見る。
境石の前に、トルガだけが残った。
商隊が丘を越えるまで見送る。
ラグは一度だけ振り返った。
ナギリは振り返らなかった。
追放されたわけではない。
戻れないと決められたわけでもない。
彼女はただ、幕営の外でも蹄を見ろと言われた。
そして今朝は、蹄を洗えと言っただけだった。
その一言で、商隊は半刻遅れた。
だが、ラグの蹄は割れなかった。
布には腐れた臭いが移らなかった。
飲み水へ洗い水は混じらなかった。
馬も荷車も、揃って南へ進んだ。
走る血は、速さだけでは続かない。
止める者がいて。
見る者がいて。
戻って伝える者がいて。
初めて、次の水場まで届くのである。




