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身代わり花嫁の契約期間は三年です  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第6話 花と汁物と、名前を呼ぶ声

赴任して一年半が過ぎた頃には、兵士たちが私を「奥方様」ではなく「メルル殿」と呼ぶようになっていた。


いつからそうなったのか、正確には覚えていない。最初の冬を越えたあたりだったか。凍てつく朝に熱い粥を出し、吹雪の日に具沢山の汁物を出し、哨戒から戻る兵士たちに温かいハーブ茶を用意した。そのうちに「奥方様」の敬称が消えて、名前になった。


砦の食事は、もう別物だった。


保存食の種類は三倍に増えた。冬場の食品廃棄は七割減。近隣領からの食材仕入れルートが安定し、季節ごとの献立表を組めるようになった。志願兵が増え、脱走兵はゼロ。北方軍本部から「北方で最も士気の高い砦」と報告されているらしい。


「あんた、もう立派にここの人間よ」


グレーテがそう言ったのは、二年目の秋の朝だった。


「——ありがとう、グレーテさん」


素直に嬉しかった。この人に認められることが、どんな肩書きより重い。


その日の仕込みの合間に、グレーテが声を潜めた。


「明日ね、将軍の——前の奥方様の命日なの」


手が止まった。


「……そう、ですか」


「三年前の秋だった。魔獣の大規模南下があって、砦の南壁が破られた。あの人は——奥方様は、避難が間に合わなかった」


グレーテの目が遠くなった。


「将軍はね、それから笑わなくなったの。元々無口だったけど、あれ以来、本当に——」


言葉を切って、グレーテは鍋に目を戻した。


「別に、何かしろって言ってるんじゃないのよ。ただ、あんたには知っておいてほしかっただけ」


「……はい」


それ以上は聞かなかった。聞けなかった。


    ◇


翌朝。まだ暗いうちに起きた。


砦の小さな祈祷室。石壁に囲まれた、ろうそくの光だけの部屋。奥に慎ましい祭壇がある。


グレーテに聞いておいた。前の奥方様が好きだった花は、北方の野に咲く白い小花。霜花草というらしい。秋の終わりに、雪が降る直前に咲く。


昨日の夕方、砦の裏手の斜面で見つけた。五本だけ。茎が短くて、花弁が薄くて、風が吹いたら散ってしまいそうだった。


小さな壷に水を入れて、花を挿した。


それから、温かい汁物を一椀。根菜とハーブの、身体が芯から温まるやつ。生きている人間のための料理しか作れないけれど、温かいものを供えたかった。


祭壇の前に並べて、手を合わせた。


(はじめまして。——あなたの代わりに、ここにいます)


代わり。


その言葉が、思ったより重かった。


(あなたが愛した人のそばで、あなたが守った砦で、あなたの代わりに料理を作っています。——勝手に来て、ごめんなさい)


目を閉じて、少しだけそこにいた。


    ◇


厨房に戻って、朝の仕込みを始めた。


鍋に水を張り、昨日切っておいた根菜を入れ、竈に火をつける。いつもの手順。いつもの朝。


背後で、扉が開いた。


「——メルル」


振り向いた。


将軍閣下が、厨房の入口に立っていた。


(え——閣下が、厨房に?)


この人がここに来ることは、ほとんどない。食事は執務室に運ばれるし、厨房は「メルルの領域」として兵士たちも暗黙に認識している。将軍が足を踏み入れる場所ではない。


閣下の顔を見て、気づいた。


目が、赤い。——いや、赤いというほどではない。けれど、いつもの鉄壁の無表情とは、何かが違った。瞼がわずかに腫れている。眠れなかったのか。それとも。


「祈祷室に、花と汁物があった」


「……はい」


「お前が」


「はい。——出過ぎたことをしました。すみま——」


「ありがとう」


言葉が、止まった。


閣下が——こちらを、見ていた。


いつもの視線ではなかった。書類と現物を照合するような、あの冷たい目ではない。もっと近くて、もっと温かくて、もっと——痛い目だった。


何かを失くした人の目。それを思い出して、また失くすのが怖い人の目。


「霜花草だった」


「……グレーテさんに、お好きだったと聞きました」


「ああ。——好きだった」


過去形だった。「好きだった」。その三文字に込められた時間の重さが、石壁の祈祷室よりもずっと冷たく、ずっと静かだった。


閣下は、それ以上何も言わなかった。踵を返して、厨房を出ていった。


残されたのは、竈の火の音と、鍋の中で根菜がことこと煮える音だけ。


(——驚かせてしまったかな)


呟いた。声にはならなかった。


閣下の「ありがとう」が、まだ耳の中で響いている。あの声。あの目。あの——一瞬だけ見えた、鉄壁の裏側。


鍋の蓋を取った。湯気が顔にかかって、視界がぼやけた。


湯気のせいだ。


    ◇


その夜。


部屋の寝台に座って、膝を抱えていた。


灯りは消してある。窓から差し込む月明かりだけが、石壁を白く照らしている。


三年前の秋。魔獣の南下。南壁の崩壊。——避難が間に合わなかった、前の奥方。


あの人がいた場所に、私がいる。


あの人が使っていた厨房で、あの人が愛した人のために料理を作っている。


「身代わり」。


姉の代わり。前妻の代わり。


誰かの「代わり」でしか、ここにいる理由がない。


(——分かってた。最初から分かってた)


実家にいた時からそうだった。姉の影。父の視界の隅。「お前でいい」。誰の一番にもなれない。誰にも「あなたがいい」と言われたことがない。


分かっていた。分かっていたのだ。


——分かっていたかった、が正しい。


本当は、分かりたくなかった。砦に来て、兵士たちが「メルル殿」と呼んでくれて、グレーテが「ここの人間」と言ってくれて、マルクスが帳簿を認めてくれて。あの紺色のマントが、扉の前にあって。


ここなら「代わり」じゃない自分になれるかもしれないと、少しだけ思い始めていた。


でも今日、祈祷室で手を合わせた時に分かってしまった。


この人のそばにいたい。


この人の食卓を、ずっと温めていたい。


名前を呼ばれた時の、あの声を、もっと聞いていたい。


——でも。


契約は、あと一年。


一年後に婚姻は無効になり、私はこの砦を出る。手切れ金の金貨三百枚を持って、どこか別の場所で、別の人生を始める。それが契約だ。最初から決まっていたことだ。


(なんで——こんなこと、考えてるんだろ)


膝に顔を埋めた。


月明かりが窓から静かに流れ込んでいた。北方の秋は短い。もうすぐ雪が降る。二度目の冬が来る。


あと一年。


あと一年で、この砦の朝も、厨房の匂いも「まずくはない」も、全部——


考えるのをやめた。やめられなかった。竈の火を絶やすなと、あの人は言った。


消せない火が、胸の奥で小さく燃えていた。

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