第5話 マントと兵糧と、誰かの優しさ
くしゃみが三回続いた時点で、私は前世から引き継いだ「限界まで働く癖」を呪った。
「あんた、顔が赤い」
朝の厨房でグレーテに額を触られ、その手が即座に引っ込んだ。
「熱があるじゃない。何度言えば分かるの、夜通し厨房にこもるのはやめなさいって」
「でも、燻製の温度管理が——」
「燻製は逃げない。あんたの身体のほうが先に逃げるわよ」
正論だった。ぐうの音も出ない。
部屋に押し戻され、毛布を二枚かけられ、グレーテが出ていく背中に「明日の仕込みは——」と言いかけたら、振り向きもせず「私がやるから寝なさい」と返された。
(……すみません)
目を閉じた。熱のせいで瞼が重い。
前世でもこうだった。締め切り前に徹夜して体調を崩す。学習しない。三十二年生きても学習しなかったのだから、二度目の人生でも直らないのは道理といえば道理だ。
意識が遠くなった。
◇
夢を見ていた気がする。
暗い厨房で、誰かが火の番をしてくれている夢。薪が爆ぜる音。温かい空気。背中に何かが——
目が覚めたのは、翌朝だった。
熱は引いていた。身体はまだ少しだるいが、頭ははっきりしている。起き上がって、窓の外を見た。朝日が石壁を白く染めている。
部屋の扉を開けた。
足元に、何かがあった。
畳まれた外套。——いや、マントだ。分厚い生地に、毛皮の裏地。深い紺色。折り目が丁寧で、埃一つない。
(……これ、誰の?)
手に取った。重い。しっかりした仕立てだ。砦の兵士たちが着ている量産品とは明らかに違う。生地の質が良すぎる。ボタンの金具に細かい彫刻が入っている。
でも、扉の前に置いてあったということは、誰かが届けてくれたのだろう。風邪をひいた私に。
(兵舎の予備かしら。セオ副官あたりが気を利かせてくれたのかも)
廊下に出ると、ちょうどセオが角を曲がってきた。
「あ、メルル殿。お加減いかがですか」
「おかげさまで。——あの、これ」
マントを掲げて見せた。
セオの顔が、固まった。
目が見開かれ、口が半開きになり、そのまま三秒ほど石像になった。
「……あの、セオ副官?」
「あ——あのマント、それ、団長の——」
声が裏返りかけた瞬間、廊下の奥から気配がした。
セオが弾かれたように振り返った。将軍閣下が、執務室の扉の前に立っていた。距離は十歩以上ある。声は聞こえていないはずだ。けれど閣下の視線がセオを正確に捉えていた。
無表情。完全な無表情。なのに、目だけが「黙れ」と言っていた。
セオの口が閉じた。
「——いえ。何でもないです。予備品ですよ、兵舎の。ええ、そうです。予備です」
不自然すぎた。笑顔も声もぎこちない。しかしセオはそれ以上何も言わず、足早に閣下のほうへ去っていった。
(……何なの、この砦の人たちの「何でもない」率の高さは)
とりあえず、予備品なのだろう。ありがたく使わせてもらうことにして、マントを部屋に持ち帰った。
羽織ってみる。
大きい。肩が余る。袖が長い。——体格のいい男性用だ。予備品にしてはずいぶん上等だけれど、北方の砦では防寒具は命に関わるものだから、質の良いものを備蓄しているのかもしれない。
温かかった。
毛皮の裏地が、熱の引いた身体にじんわり沁みた。誰かがこれを、私が眠っている間に、扉の前に置いてくれた。
(……ありがとう、誰か)
名前も知らない親切。
それだけのことなのに、少しだけ目の奥が熱くなった。——まだ微熱が残っているせいだ。きっと。
◇
三日で完全に回復した。
グレーテに「今度倒れたら厨房出入り禁止にする」と宣告されたので、深夜の作業は週に三回までと自分に制限をかけた。前世の私に聞かせたい台詞だ。
回復した翌日から、溜まっていた事務仕事に取りかかった。
帳簿を広げ、この三ヶ月間の食品管理記録を一覧にまとめていく。砦で私が作った保存食と、実家——トルーデ子爵領から納品された保存食。同じ期間、同じ保管条件で並べた時の品質差。
数字は、嘘をつかない。
砦で作った干し肉の廃棄率は四パーセント。子爵領からの納品品は十九パーセント。
発酵野菜。砦の自家製は品質維持期間が四十日。納品品は十二日。
塩漬け肉の塩分濃度。砦のものは適正値。納品品は基準の一・七倍。兵士の腎臓に負担がかかる水準だ。
(——やっぱり)
知っていた。二ヶ月前、最初に木箱を開けた時から気づいていた。でも数字にして並べると、ごまかしようがなかった。
私の保存技術は、手順書では再現できていない。
あの技術は、塩の加減や乾燥の見極め、温度と湿度の感覚で調整する部分が大きい。前世で何千回と繰り返した手の記憶だ。文字にしたところで、その通りにできる人間がいなければ意味がない。
(私がいないと、この品質は維持できない)
それは事実だった。事実として受け止めるしかなかった。
実家が困るのは、望んでいない。父にも、姉にも、恨みがないと言えば嘘になるけれど、領民や使用人たちに罪はない。
でも——この数字を見てしまった以上、「心配しすぎ」と目を閉じることはもうできなかった。
◇
将軍執務室。
品質データの報告書を持って閣下を訪ねたのは、その日の夕方だった。
「北方軍本部から通達が来ている」
閣下は私が口を開くより先に、机の上の書簡を示した。
「子爵家の兵糧品質問題が、正式に報告書として王都に送られた」
知らなかった。本部が動いていたとは。
「品質基準を下回る納品が三期連続。看過できないと判断された」
閣下の声に感情はない。事実を述べているだけだ。
「……左様ですか」
私も、できるだけ平静に答えた。
実家のことだ。複雑な感情がないと言えば嘘になる。でも——兵士たちがあの品質の保存食を食べ続けることのほうが問題だ。品質クレームは正当だ。
「メルル」
閣下が私の名を呼んだ。敬称なしの、あの呼び方。
「お前の技術は、兵士を守っている」
短かった。たった一文。閣下の顔は相変わらず鉄壁で、その声は相変わらず感情の色がなくて。
なのに。
その一文が、三ヶ月分の疲れを全部溶かすように、胸に落ちた。
(——仕事の評価だ。将軍として、厨房管理官の仕事を認めてくれただけ。それ以上の意味はない)
そう思った。そう思うことにした。
「ありがとうございます、閣下」
頭を下げて、執務室を出た。
廊下を歩きながら、あのマントのことを思い出した。紺色の、大きな、温かいマント。肩から余るほど大きな、上等な仕立ての。
予備品。兵舎の予備品。
——そうだ。予備品だ。
それ以外の可能性を考えるのは、この契約には含まれていない。
部屋に戻って、品質データの帳簿を閉じた。
窓の外では北風が唸り、冬の足音がすぐそこまで来ていた。




