第7話 手紙と選択と、お前が望むなら
父からの手紙は、いつも季節の挨拶で始まる。——今日の手紙には、挨拶がなかった。
『メルルへ。
ロゼリアとブラント侯爵家嫡男エーリッヒ殿の婚約が正式に成立した。
ついては、当家として北方辺境伯閣下への婚姻の件を再整理する必要が生じた。本来の花嫁であるロゼリアを北方に送る用意がある。メルルは帰還せよ。
時期については追って通達する。準備を進めておくように。
トルーデ子爵 ゲオルク』
三度読んだ。
一度目は、文字を追うだけで精一杯だった。二度目で、意味を理解した。三度目で——手紙を持つ指先が、かすかに冷たくなった。
(場つなぎ)
その言葉が、頭の中にぽとりと落ちた。
姉の婚約が決まるまでの、場つなぎ。北方の将軍を待たせておくための、代わりの駒。用が済んだら回収する。——最初からそのつもりだったのか。
最初から。
(……知ってた)
知っていた。分かっていた。「お前でいい」と言われた時から。私は姉の代わりで、契約の穴を埋めるための存在で、三年経てば終わる仮のものだと。
だから怒りは来なかった。怒りの代わりに来たのは、もっと静かなものだった。
砦の食堂で、兵士たちが「メルル殿」と呼ぶ声。グレーテの「ここの人間よ」。マルクスが帳簿を何度も読み返す横顔。セオの——何でもない、と言い直す不自然な笑顔。
竈の火。鍋底に映る朝日。「まずくはない」。
紺色のマント。
「ありがとう」。
——失いたくない。
全部。この砦にあるもの、全部。
手紙を畳んだ。膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込むのを感じた。
怒れない自分が、少しだけ情けなかった。
◇
将軍執務室の扉を叩いたのは、手紙を受け取ってから二時間後だった。
迷った。迷ったけれど、これは報告すべきことだ。白い結婚の契約当事者であるこの人には、知る権利がある。
「失礼いたします」
閣下は執務机に向かっていた。書類から目を上げ、私を見た。
「実家から手紙が届きました。——お目通しいただけますか」
手紙を差し出した。閣下が受け取り、目を通す。その間、私は窓の外を見ていた。北方の空は高く、冷たく、何も隠さない色をしている。
紙を畳む音がした。
沈黙。
長い沈黙だった。閣下の指が、手紙の角をなぞっている。表情は——いつも通りの無。読めない。
「……お前が望むなら」
低い声だった。
「俺が断る」
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
断る。閣下が。実家に。——私のために?
(いや。違う)
「閣下。それは——契約上の義務として、おっしゃっているのですか」
聞いた。聞かなければよかったのかもしれない。でも聞かずにはいられなかった。
この人の言葉が、義務なのか感情なのか。それを確かめたかった。確かめるのが怖かった。
閣下の口が、わずかに開いた。
何か言おうとした。——言えなかった。
その一瞬の沈黙が、全てだった。
「……お前が残りたいと思うなら、俺は断れる立場にある」
声が、さっきより硬かった。感情を封じ込めたような声。言葉を選び直した声。——最初に言おうとしたことと、たぶん、違う言葉。
(立場。そうだ。この人は辺境伯で、将軍で、子爵家より上位の貴族で。断る権限がある。……それだけのこと)
「ありがとうございます、閣下」
頭を下げた。
「残留を希望いたします。——ただし、閣下のお手を煩わせるつもりはありません。返書は、自分で書きます」
顔を上げた時、閣下の目が——ほんの一瞬、何かを堪えるように細くなった。
気のせいかもしれない。
◇
部屋に戻り、机に向かった。
便箋を広げ、ペンを取り、一行目を書いた。消した。もう一度書いた。また消した。
三度目で、ようやく筆が止まらなくなった。
『父上へ。
お手紙、拝受いたしました。姉上の婚約成立をお慶び申し上げます。
さて、帰還のご命令につきまして。
私は北方守備軍の砦にて厨房管理官の職務を務めております。この職務は白い結婚の契約期間中に正式に任命されたものであり、契約満了までの残り十ヶ月間、継続する意思がございます。
なお、私が当砦にて開発した保存食の製法、および食材調達の交易網は、私個人の技術と人脈によるものです。トルーデ家の資産ではございません。
帰還のご要望には沿いかねます。ご了承くださいませ。
メルル・トルーデ』
敬語だ。一字一句、丁寧な敬語。
でも——一切の譲歩がない。
ペンを置いた。手が震えていた。怒りではない。もっと深いところから来る震えだった。
(私の技術は、私のもの)
生まれて初めて——前世を含めて初めて、自分の価値を自分の言葉で父に突きつけた。
封をして、蝋を垂らし、明日の便に託す。
これでいい。
これで——いいのだ。
◇
トルーデ子爵邸。応接間。
メルルの返書を読み終えたゲオルクは、書面を持ったまま、しばらく動けなかった。
「……何と言っているの?」
向かいの長椅子から、長女のロゼリアが声をかけた。隣にはエーリッヒが座っている。
「帰らん、と」
「え?」
ロゼリアが眉をひそめた。
「あの子が? 帰らないって——なぜ?」
「自分の技術は家の資産ではない、と書いてある」
エーリッヒが軽く息を吐いた。穏やかな顔の奥で、何かを計算する目が動いている。
「子爵。兵糧の品質問題は、その後どうなっている」
ゲオルクの額に汗が滲んだ。
「……契約先の商会から、改善がなければ来期の契約を解除すると通告が来ている」
「それは困る」
エーリッヒの声は静かだった。
「子爵家の安定した収入は、ロゼリアとの婚姻条件の一つだ。兵糧契約が消えれば——」
言葉を切った。ロゼリアの顔が青ざめている。
「あの子がいなくても回るでしょう? 保存食くらい、誰にでも作れるはずよ」
ロゼリアの声に苛立ちが混じった。エーリッヒは答えなかった。代わりに、ゲオルクに目を向けた。
「この問題が王太子殿下の耳に入る前に、何とかしてくれ」
穏やかな声。穏やかな顔。——その裏にある焦りを、ゲオルクは見抜けなかった。
応接間の窓から見える庭園では、薔薇が最後の花を散らしていた。




