第14話 商人たちの答えと、マントの温度
動くなら、早いほうがいい。
ヴァルトシュタイン商会がブラント侯爵家の傘下だと判明した翌朝、私はマルクスと二人で兵站事務室に籠もった。
机の上に交易先のリストを広げる。ブレンナー伯爵領のヴェーバー商会、ハイルブルクの乾物問屋、北方三領の小規模商人四件。全部で六つの取引先。この一年半で一つずつ信頼を積み上げてきた、私の——私個人の交易網。
「全ての取引先に確認の書簡を出します。侯爵家の商会から接触がなかったか、条件の提示がなかったか」
「分かった。俺のほうでも登記簿を取り寄せる。ヴァルトシュタインの資本関係をもう少し洗う」
マルクスがペンを取った。帳簿の人間は、こういうとき迷いがない。数字と事実で動く。
書簡は六通。文面は丁寧に、しかし要点だけを絞った。
『貴商会に対し、ヴァルトシュタイン商会もしくはブラント侯爵家に関連する者から、取引条件の変更や独占契約の提案がございましたでしょうか。事実確認のためお伺いいたします。——北方砦厨房管理官 メルル・フォン・ノルトハイム』
封をして、朝の便に託した。
(……エーリッヒ・フォン・ブラント)
謹慎処分中のはずだ。侯爵家の屋敷から出ることを禁じられている。けれど書簡の発送は禁じられていないし、代理人を通じた間接的な活動は法的にはグレー。
あの穏やかな顔の裏で、まだ動いている。
三日で、全ての取引先から返答が届いた。
◇
「来やがったよ、侯爵家の手先が」
ヴェーバーが砦の応接間の椅子に腰を下ろして、遠慮なく言った。
五十代の大柄な男。赤ら顔に厚い首。商人というより猟師のような風貌だが、北方随一の目利きだ。ブレンナー伯爵領の市場で最初に私の保存食を認めてくれた人。
「先月だな。若い商人が二人、うちの店に来た。ヴァルトシュタイン商会の名刺を出して、『北方の食材交易を一元管理したい。独占契約に切り替えれば卸値を二割上げる』と」
「二割」
「ああ。悪くない条件だ。——金だけ見ればな」
ヴェーバーがジョッキを傾けた。砦の食堂で出している麦酒。自分で頼んだらしい。
「だがな、嬢ちゃん」
「はい」
「品質と信頼は金じゃ買えねえんだよ」
ヴェーバーの目が、据わった。商売人の目。数字だけで動くマルクスとは違う、長年の経験で人を見る目。
「あんたの保存食は品質が安定してる。納期も守る。何より、あんた自身が現場に立って品質を見てる。そういう取引先は、北方じゃ滅多にいない」
返答に詰まった。
「他の連中も同じだ。ハイルブルクの問屋も、小口の連中も、全員断ったって聞いてる。——侯爵家の金より、あんたの信頼を取ったんだよ」
(……全員)
六件中、六件。
全ての取引先が、侯爵家の勧誘を断った。
「ヴェーバーさん」
「ん」
「ありがとうございます。——それで、今日お越しいただいたのは」
「ああ、本題だな」
ヴェーバーが姿勢を正した。商人の顔に戻る。
「あんたの交易網、そろそろ正式な協定にしたほうがいい。個人の信頼だけで回してるうちはいいが、侯爵家みたいな大手が横から手を出してきた以上、法的な裏付けがないと守りきれん」
「同感です。——実は、協定の草案を用意してあります」
鞄から書類の束を取り出した。マルクスと三日かけてまとめた交易協定の草案。メルル・フォン・ノルトハイム個人名義の契約を、辺境伯領の公印を添えて公的資産として登録する形式。
ヴェーバーが草案に目を通す。ページをめくる指が止まらない。数字と条件を一つずつ確認している。
「……よくできてる。抜けがない」
「マルクスが帳簿を全部引っ張り出して、裏を取ってくれました」
「あの仏頂面のじいさんか。いい仕事をする」
応接間の扉が開いた。
アルヴィンが入ってきた。
「ノルトハイム辺境伯だ。——立会人として署名する」
短い。一言で十分だった。ヴェーバーの背筋が伸びる。辺境伯本人が立会人。この協定が「辺境伯領の公式な取引」であるという宣言だ。
(……また、将軍が便利な使われ方をしている)
いや。便利というより——守られている、のかもしれない。
調印は静かに終わった。メルル・フォン・ノルトハイムの署名、ヴェーバー商会の署名、そしてアルヴィン・フォン・ノルトハイムの立会人署名。辺境伯領の公印が、赤い蝋の上に押された。
「これで法的に守られる。侯爵家が何を言ってこようと、この協定がある限り、あんたの交易網に手は出せない」
ヴェーバーが立ち上がり、私に手を差し出した。
握手。硬い掌。商人の手だ。
「嬢ちゃん。——いや、ノルトハイム夫人。北方の商売は、あんたが変えた。俺たちはそれを忘れない」
(——泣くな。ここで泣いたら商談が台無しになる)
「ありがとうございます、ヴェーバーさん。これからもよろしくお願いします」
声が少しだけ震えたのは、応接間の空気が乾燥していたせいだ。たぶん。
◇
帰路の馬車。
ヴェーバーを見送った後、残りの取引先への協定書の写しを整理し、マルクスに追加の書簡を託し、翌日の献立を確認し——気がついたら、馬車の中だった。
荷台ではなく、今日は護衛馬車のほうだ。アルヴィンが隣に座っている。
座席は広い。前の荷馬車と違って肩は触れない。それなのに、隣にいるという事実だけで妙に意識してしまう。
疲れていた。朝から書類を作り、商人と交渉し、調印式を仕切った。前世の社員食堂時代にも、納品業者との交渉で一日が潰れた日があったけれど、あの頃より緊張した。侯爵家が相手なのだから当然だ。
馬車の揺れが心地いい。
目が重い。
(……少しだけ。少しだけ目を閉じよう)
◇
目が覚めた。
馬車はまだ走っている。窓の外は夕焼けだ。北方の冬の夕焼け、短くて鮮やかなやつ。
肩に、何かがかかっていた。
重い。温かい。——マント。
紺色の、分厚い生地に毛皮の裏地。大きい。肩から余るほど大きい。
知っている。この匂い。外気と、微かな革の匂いと、それから——この砦の、石壁の匂い。
(風で……)
窓を見た。
閉まっている。
馬車の窓は、きっちりと閉じられていた。風は入らない。風でマントがかかることは、物理的にありえない。
隣を見た。
アルヴィンは窓の外を見ている。外套を着ていない。軍服の上に何も羽織っていない。——さっきまで、マントを着ていたはずなのに。
「……閣下」
「何だ」
振り向かない。窓の外を見たまま。
言うべきか、言わないべきか。
「……ありがとうございます」
「何がだ」
何がだ、ではない。分かっているくせに。
(——この人は、本当にもう)
マントを肩に引き寄せた。毛皮の裏地が頬に触れる。温かい。アルヴィンの体温が、まだ残っている。
何も言わなかった。アルヴィンも何も言わなかった。
馬車の揺れと、車輪の音と、二人分の沈黙だけが、夕焼けの中を走っていた。
◇
砦の門が見えた頃、セオが走ってきた。
門前で待っていたのではない。廊下の奥から全力で駆けてきた足音がそのまま門の外まで飛び出してきた、という感じだ。息が白い。
「メルル殿!」
馬車が止まる前に叫んでいる。
「どうしたの、セオ副官。そんなに慌てて」
「書状です。今日の午後の便で届きました」
セオが封書を差し出した。息を切らしている割に、表情は真剣だ。いつもの軽い笑みがない。
封書を受け取った。差出人の名前を見た。
ロゼリア・トルーデ。
姉だ。
封を切った。便箋は一枚。姉の筆跡。整った、社交界仕込みの美しい字。
『メルルへ。北方の視察に参ります。到着は十日後の予定です。——ロゼリア・トルーデ』
短い。姉の手紙にしては短すぎる。
視察。婚約を破棄された子爵家の嫡女に、北方の砦を視察する権限はない。
(……姉上。何をしに来るの)
マントの温かさが、まだ肩に残っていた。
北風が吹いた。便箋の端が、かすかに揺れた。




