第15話 姉と妹と、離さなかった手
車輪が石畳を叩く音が、冬の空気に硬く響いた。
砦の門前に馬車が一台、止まった。子爵家の紋章はない。地味な旅用の馬車。護衛もなし。
御者が扉を開ける。
降りてきた女性を見て、私は一瞬だけ息を止めた。
——痩せていた。
亜麻色の髪は整えられているけれど、以前より艶がない。頬の線が鋭くなっている。社交界で「北の白百合」と呼ばれていた頃の、あのふっくらとした華やかさが削げ落ちている。
旅装は上質だが地味だ。宝飾品は耳飾りが一つだけ。侯爵家の婚約者だった頃には、指に三つ、首に一つ、必ず石が光っていた人なのに。
ロゼリア・トルーデ。
姉。
「お久しぶりです、姉上」
声は、自分でも驚くほど平らだった。
動揺していないわけではない。心臓は早い。けれど——こういうとき泣いたり取り乱したりしても、状況は変わらない。前世でも今世でも、それだけは学んでいる。
ロゼリアが私を見た。
一瞬、その目が揺れた。何を見ているのだろう。厨房仕事で荒れた手だろうか。簡素な服だろうか。それとも——自分より先に、この砦に馴染んでしまった妹の顔だろうか。
「……久しぶりね、メルル」
微笑み。社交界仕込みの、隙のない微笑み。
でも、目の奥に疲れが見える。あの笑顔の裏を読むのは難しいけれど、二十年近く姉妹をやっていれば、分かることもある。
——居場所が、ないのだ。
婚約は破棄された。エーリッヒの後ろ盾はなくなった。子爵家の収入源だった兵糧契約も解除されている。実家にいても、父の苛立ちの矛先になるだけだろう。
「視察に来た」と書状にはあった。けれど婚約を失った子爵家の嫡女に、辺境伯領を視察する権限はない。
(姉上。何をしに来たの。——本当は)
聞けなかった。門前で聞くことではない。
「長旅でお疲れでしょう。中へどうぞ」
手を差し伸べようとした、その時。
左側に、気配が立った。
アルヴィンだ。
いつの間にか、私の隣にいた。一歩後ろではなく、真横。肩幅の広い影が、冬の低い日差しを遮って私の左側を覆っている。
「ノルトハイム辺境伯だ」
短い。名乗りが一文。それだけ。
ロゼリアの目がアルヴィンに向いた。銀灰色の髪、切れ長の目、軍服の肩章。——「氷の将軍」。社交界で噂だけは聞いていたはずだ。
「ロゼリア・トルーデでございます。このたびは突然の訪問をお許しください、閣下」
完璧な礼。膝を折り、視線を下げ、声に震えはない。さすがだと思った。どんな状況でも礼節を崩さないのは、姉の本物の強さだ。
アルヴィンは頷いた。それだけ。それ以上の歓迎の言葉はなかった。
ただ——動かない。
私の左側から、一歩も動かない。
ロゼリアを案内するために歩き出す。アルヴィンがついてくる。自然に。当然のように。まるで最初からそこにいたかのように、私の半歩左を歩いている。
廊下の角を曲がった時、手が触れた。
アルヴィンの指が、私の左手に。
指先だけ。小指の外側が、かすかに重なっている。偶然のように見える角度。——でも偶然なら、次の一歩で離れるはずだ。
離れなかった。
廊下をもう三歩。四歩。角を曲がっても。
指が、触れたまま。
心臓がうるさい。
(閣下。閣下。——姉上が、すぐ後ろにいるんですけど)
振り向けない。振り向いたら顔が赤いのがバレる。前を向いたまま、客室までの廊下を歩いた。
アルヴィンは何も言わなかった。
指先だけが、ずっと温かかった。
◇
夕食。食堂。
ロゼリアを食堂に案内した。砦の食堂は相変わらず飾り気がない。長机と長椅子、石壁に松明。兵士たちがぞろぞろと席についていく。
「……ここで食事を?」
ロゼリアの声に、隠しきれない戸惑いがあった。子爵家の食卓しか知らない人には、二百人の兵士が肩を並べる食堂は異様に見えるだろう。
「はい。いつもの食堂です」
配膳が始まった。
今日の献立は、根菜と干し肉の煮込み。ハーブを練り込んだパン。発酵野菜の付け合わせ。乾燥ベリーを刻んで混ぜた甘味のあるバター。
特別なものは一つもない。北方の食材だけで作る、砦の日常の食事。
ロゼリアの前に皿が置かれた。湯気が上がる。ローズマリーの香りがふわりと漂う。
姉が匙を取った。一口。
——止まった。
匙を持ったまま、姉の目が見開かれた。
「……これ、メルルが作ったの?」
「厨房班と一緒に、ですけど」
「おいしい。——すごく」
声が、素だった。社交界の微笑みが剥がれて、ただ驚いている顔。子供の頃、私が台所で作ったお菓子を食べた時と同じ——あの無防備な表情。
(あ——そういえば。姉上は昔、私のお菓子を喜んで食べてくれたっけ)
忘れていた。忘れようとしていたのかもしれない。
ロゼリアがもう一口。パンをちぎって煮込みに浸して、食べる。発酵野菜を試して、少し眉を上げる。
「酸味があるのね。でも、嫌じゃない」
周りを見ている。兵士たちが当たり前のように食べている。誰も特別な顔をしていない。これが日常なのだ。毎日、この味が出ている。
ロゼリアの匙が止まった。
皿の中を見つめている。
「……保存食くらい、誰にでも作れると思ってた」
小さな声だった。私に聞かせるつもりだったのか、独り言だったのか。
「——そういうものじゃ、なかったのね」
答えなかった。答える必要がなかった。
食堂の喧騒が、その沈黙を優しく埋めてくれた。
◇
夜。部屋に戻って、発注書の残りを片づけていると、扉を叩く音がした。
「メルル。少しいいかしら」
ロゼリアだった。
客室用の室内着に着替えている。髪を下ろしている。——こうして見ると、やっぱり痩せた。鎖骨が浮いている。
「どうぞ、姉上」
椅子を勧めた。ロゼリアは座らなかった。部屋の入口に立ったまま、手に封書を一通持っている。
沈黙。
姉の指が、封書の角を撫でている。迷っているのだ。
「……エーリッヒ様から、手紙を預かっているの」
心臓が、一つ跳ねた。
「あなたに渡してほしいと。——子爵家を発つ前に、使者が来たの」
ロゼリアの目が、私を真っ直ぐに見ている。社交界の微笑みはない。疲れと、それから——もっと複雑な何かが混ざった、剥き出しの目。
封書が差し出された。
受け取った。重い。紙の重さではなく、差出人の名前の重さだ。
エーリッヒ・フォン・ブラント。
謹慎中の、姉の元婚約者。王太子の名を騙った人。ヴァルトシュタイン商会を使って交易網に手を伸ばしてきた人。
「……姉上は、中身をご存知ですか」
「いいえ。封がしてあったから」
ロゼリアの声は静かだった。
「ただ——」
言葉を切った。唇を噛んで、それから吐き出すように。
「あの方が、あなたに何か良いことを書いているとは、思えないの」
その一言が、妙に胸に刺さった。
姉は——気づき始めているのだ。エーリッヒ・フォン・ブラントという人間が、穏やかな笑顔の裏で何をしていたか。
「……ありがとう、姉上。読んでおきます」
ロゼリアが頷いて、扉に向かった。
ドアノブに手をかけて、振り返った。
「メルル」
「はい」
「……おいしかった。今日の食事」
それだけ言って、出ていった。
扉が閉まる。
封書を見下ろした。エーリッヒの筆跡で、私の名前が書いてある。
一輪挿しのローズマリーが、燭台の灯りの中で小さく揺れていた。
開封は、明日にしよう。今夜はもう——指先に残っている温度を、もう少しだけ覚えていたかった。




