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身代わり花嫁の契約期間は三年です  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第15話 姉と妹と、離さなかった手

車輪が石畳を叩く音が、冬の空気に硬く響いた。


砦の門前に馬車が一台、止まった。子爵家の紋章はない。地味な旅用の馬車。護衛もなし。


御者が扉を開ける。


降りてきた女性を見て、私は一瞬だけ息を止めた。


——痩せていた。


亜麻色の髪は整えられているけれど、以前より艶がない。頬の線が鋭くなっている。社交界で「北の白百合」と呼ばれていた頃の、あのふっくらとした華やかさが削げ落ちている。


旅装は上質だが地味だ。宝飾品は耳飾りが一つだけ。侯爵家の婚約者だった頃には、指に三つ、首に一つ、必ず石が光っていた人なのに。


ロゼリア・トルーデ。


姉。


「お久しぶりです、姉上」


声は、自分でも驚くほど平らだった。


動揺していないわけではない。心臓は早い。けれど——こういうとき泣いたり取り乱したりしても、状況は変わらない。前世でも今世でも、それだけは学んでいる。


ロゼリアが私を見た。


一瞬、その目が揺れた。何を見ているのだろう。厨房仕事で荒れた手だろうか。簡素な服だろうか。それとも——自分より先に、この砦に馴染んでしまった妹の顔だろうか。


「……久しぶりね、メルル」


微笑み。社交界仕込みの、隙のない微笑み。


でも、目の奥に疲れが見える。あの笑顔の裏を読むのは難しいけれど、二十年近く姉妹をやっていれば、分かることもある。


——居場所が、ないのだ。


婚約は破棄された。エーリッヒの後ろ盾はなくなった。子爵家の収入源だった兵糧契約も解除されている。実家にいても、父の苛立ちの矛先になるだけだろう。


「視察に来た」と書状にはあった。けれど婚約を失った子爵家の嫡女に、辺境伯領を視察する権限はない。


(姉上。何をしに来たの。——本当は)


聞けなかった。門前で聞くことではない。


「長旅でお疲れでしょう。中へどうぞ」


手を差し伸べようとした、その時。


左側に、気配が立った。


アルヴィンだ。


いつの間にか、私の隣にいた。一歩後ろではなく、真横。肩幅の広い影が、冬の低い日差しを遮って私の左側を覆っている。


「ノルトハイム辺境伯だ」


短い。名乗りが一文。それだけ。


ロゼリアの目がアルヴィンに向いた。銀灰色の髪、切れ長の目、軍服の肩章。——「氷の将軍」。社交界で噂だけは聞いていたはずだ。


「ロゼリア・トルーデでございます。このたびは突然の訪問をお許しください、閣下」


完璧な礼。膝を折り、視線を下げ、声に震えはない。さすがだと思った。どんな状況でも礼節を崩さないのは、姉の本物の強さだ。


アルヴィンは頷いた。それだけ。それ以上の歓迎の言葉はなかった。


ただ——動かない。


私の左側から、一歩も動かない。


ロゼリアを案内するために歩き出す。アルヴィンがついてくる。自然に。当然のように。まるで最初からそこにいたかのように、私の半歩左を歩いている。


廊下の角を曲がった時、手が触れた。


アルヴィンの指が、私の左手に。


指先だけ。小指の外側が、かすかに重なっている。偶然のように見える角度。——でも偶然なら、次の一歩で離れるはずだ。


離れなかった。


廊下をもう三歩。四歩。角を曲がっても。


指が、触れたまま。


心臓がうるさい。


(閣下。閣下。——姉上が、すぐ後ろにいるんですけど)


振り向けない。振り向いたら顔が赤いのがバレる。前を向いたまま、客室までの廊下を歩いた。


アルヴィンは何も言わなかった。


指先だけが、ずっと温かかった。



夕食。食堂。


ロゼリアを食堂に案内した。砦の食堂は相変わらず飾り気がない。長机と長椅子、石壁に松明。兵士たちがぞろぞろと席についていく。


「……ここで食事を?」


ロゼリアの声に、隠しきれない戸惑いがあった。子爵家の食卓しか知らない人には、二百人の兵士が肩を並べる食堂は異様に見えるだろう。


「はい。いつもの食堂です」


配膳が始まった。


今日の献立は、根菜と干し肉の煮込み。ハーブを練り込んだパン。発酵野菜の付け合わせ。乾燥ベリーを刻んで混ぜた甘味のあるバター。


特別なものは一つもない。北方の食材だけで作る、砦の日常の食事。


ロゼリアの前に皿が置かれた。湯気が上がる。ローズマリーの香りがふわりと漂う。


姉が匙を取った。一口。


——止まった。


匙を持ったまま、姉の目が見開かれた。


「……これ、メルルが作ったの?」


「厨房班と一緒に、ですけど」


「おいしい。——すごく」


声が、素だった。社交界の微笑みが剥がれて、ただ驚いている顔。子供の頃、私が台所で作ったお菓子を食べた時と同じ——あの無防備な表情。


(あ——そういえば。姉上は昔、私のお菓子を喜んで食べてくれたっけ)


忘れていた。忘れようとしていたのかもしれない。


ロゼリアがもう一口。パンをちぎって煮込みに浸して、食べる。発酵野菜を試して、少し眉を上げる。


「酸味があるのね。でも、嫌じゃない」


周りを見ている。兵士たちが当たり前のように食べている。誰も特別な顔をしていない。これが日常なのだ。毎日、この味が出ている。


ロゼリアの匙が止まった。


皿の中を見つめている。


「……保存食くらい、誰にでも作れると思ってた」


小さな声だった。私に聞かせるつもりだったのか、独り言だったのか。


「——そういうものじゃ、なかったのね」


答えなかった。答える必要がなかった。


食堂の喧騒が、その沈黙を優しく埋めてくれた。



夜。部屋に戻って、発注書の残りを片づけていると、扉を叩く音がした。


「メルル。少しいいかしら」


ロゼリアだった。


客室用の室内着に着替えている。髪を下ろしている。——こうして見ると、やっぱり痩せた。鎖骨が浮いている。


「どうぞ、姉上」


椅子を勧めた。ロゼリアは座らなかった。部屋の入口に立ったまま、手に封書を一通持っている。


沈黙。


姉の指が、封書の角を撫でている。迷っているのだ。


「……エーリッヒ様から、手紙を預かっているの」


心臓が、一つ跳ねた。


「あなたに渡してほしいと。——子爵家を発つ前に、使者が来たの」


ロゼリアの目が、私を真っ直ぐに見ている。社交界の微笑みはない。疲れと、それから——もっと複雑な何かが混ざった、剥き出しの目。


封書が差し出された。


受け取った。重い。紙の重さではなく、差出人の名前の重さだ。


エーリッヒ・フォン・ブラント。


謹慎中の、姉の元婚約者。王太子の名を騙った人。ヴァルトシュタイン商会を使って交易網に手を伸ばしてきた人。


「……姉上は、中身をご存知ですか」


「いいえ。封がしてあったから」


ロゼリアの声は静かだった。


「ただ——」


言葉を切った。唇を噛んで、それから吐き出すように。


「あの方が、あなたに何か良いことを書いているとは、思えないの」


その一言が、妙に胸に刺さった。


姉は——気づき始めているのだ。エーリッヒ・フォン・ブラントという人間が、穏やかな笑顔の裏で何をしていたか。


「……ありがとう、姉上。読んでおきます」


ロゼリアが頷いて、扉に向かった。


ドアノブに手をかけて、振り返った。


「メルル」


「はい」


「……おいしかった。今日の食事」


それだけ言って、出ていった。


扉が閉まる。


封書を見下ろした。エーリッヒの筆跡で、私の名前が書いてある。


一輪挿しのローズマリーが、燭台の灯りの中で小さく揺れていた。


開封は、明日にしよう。今夜はもう——指先に残っている温度を、もう少しだけ覚えていたかった。

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