第13話 将軍の料理と、遠い台所
「料理を教えてほしい」
朝の厨房で、アルヴィンがそう言った。
唐突だった。厨房班への指示を終えて振り向いたら、入口にあの大きな背中が立っていた。軍服の袖をすでに肘まで捲っている。
「……はい?」
「聞こえなかったか」
聞こえた。聞こえたけれど、意味が分からなかった。
「料理を、ですか」
「ああ」
理由は言わない。この人は、いつも理由を言わない。
グレーテが大鍋の向こうから、ちらりとこちらを見た。口元が微妙に引きつっている。笑いを堪えているのか、呆れているのか。たぶん両方だ。
「……分かりました。何を作りましょうか」
「簡単なものでいい」
簡単なもの。北方の砦で、ある食材で、この人にも作れる簡単なもの。
「じゃあ、卵のスープを」
卵と塩と水。失敗しようがない。——そう思った。
◇
甘かった。
「閣下、卵は殻を割ってから入れます」
「……割るのか」
割る。当然割る。殻ごと鍋に放り込む人間を、前世を含めて初めて見た。
アルヴィンの手から卵を受け取り、殻の割り方を実演する。片手でこんと叩いて、両手の親指で開く。中身が椀に落ちる。簡単な動作だ。
アルヴィンが同じようにやった。
卵が、粉砕された。
握力が強すぎるのだ。剣を振る手で卵を扱ったら、そうなる。殻の破片が中身に混ざり、指の間から白身が垂れている。
(……この人、戦場では百人を率いる将軍なのよね)
「もう少し、優しく」
「優しく」
アルヴィンが二個目の卵を手に取った。
今度は慎重に、そっと、叩く。
——何も起きなかった。力が足りない。
三個目。今度こそ中間を狙って——やっぱり粉砕した。
四個目で、ようやくまともに割れた。殻の破片が少し混じっているけれど、許容範囲だ。
「できた」
アルヴィンの声に、ほんの微かな達成感が滲んだ。
(卵を割っただけで、この顔するの……)
続いて、野菜を刻む工程。
「閣下、皮は剥いてから刻みます」
「……皮も食べられるだろう」
食べられるかどうかの話ではない。
包丁を握るアルヴィンの手が、まな板の上で野菜を押さえる。指の位置が危ない。剣の握り方が染みついていて、包丁を上から叩きつけるように振り下ろす。
「違います。引くように切ってください。こう——」
私の手がアルヴィンの手に触れた。
包丁を持つ指に、自分の指を重ねて、角度を直す。
——あ。
硬い指。大きい。私の手が、すっぽり包まれるくらい大きい。
倉庫で腰を支えてくれた手と、同じ手だ。
「……こう、か」
低い声が、近い。振り向いたら顔がすぐそこにある距離。
「は、はい。そう。そうです。そのまま引いてください」
手を離した。少し離れた。心臓がうるさい。
(料理を教えているだけよ。手を添えるのは指導の基本。基本なの)
結局、一時間かけてできたのは「卵と野菜の何か」だった。
スープと呼ぶには固すぎる。煮物と呼ぶには薄すぎる。卵の殻の破片が沈んでいる。野菜は大きさがばらばらで、皮が半分ついたままのものが混じっている。
二人で匙を入れた。
口に運ぶ。
沈黙。
「…………」
「…………」
同時に、微妙な顔をした。
「……まずくはない」
アルヴィンが言った。
あの台詞だ。赴任初日に私のシチューを食べて、鉄壁の顔で言った「まずくはない」。——今度は、自分の料理に対して。
吹き出した。
堪えようとした。堪えられなかった。匙を持ったまま、肩が震えて、ついに声が漏れた。
「ふ——っ、ごめんなさ、閣下、ごめんなさ——」
「……何がおかしい」
「い、いえ、その——まずくはない、が——ふふっ」
アルヴィンの眉がわずかに寄った。むっとしている。——のに。
私の笑い声を聞いて、その眉間の皺が、ゆっくりと解けた。
口元が。
ほんの少しだけ、上がった。
あの聖堂で見た不器用な笑み。あれと同じ——いや、もっと小さくて、もっと柔らかい。
笑っている。この人が。
「……閣下、笑ってます」
「笑っていない」
笑っている。
(——ああ、もう。この人は、本当に)
鍋の中の「まずくはない何か」が、湯気を上げている。おいしくはない。ぜんぜん、おいしくはない。
でも、この厨房で一緒に笑ったことは——たぶん、どんな料理よりも、温かかった。
◇
トルーデ子爵領。保存食加工場。
竈の前に立った職人が、手順書のページをめくり、首を傾げた。
「子爵様。この通りに塩を入れて、この通りの時間で乾燥させたんですが——」
差し出された干し肉の表面に、白い斑点が浮いていた。ゲオルクはそれを手に取り、匂いを嗅ぎ、指で押した。
硬すぎる。塩が多すぎるのだ。
「分量は書いてある通りか」
「はい。メルル様の手順書に、『塩は肉の重量の三分の一』と——」
「三分の一は目安だ。肉の状態を見て調整しろと、書いてあるはずだ」
「肉の状態を見て、とは——具体的にどう見ればいいのか、それが……」
ゲオルクは額に手を当てた。
手順書には確かに書いてある。『肉の色と弾力で判断する』『表面に水分が残っていたら追加で拭き取る』『気温が高い日は塩を一割減らす』。
文字にすれば明確だ。だが、「肉の色」をどう見るか、「弾力」のどの段階で判断するか——それは、あの子の手が知っていることだった。何百回、何千回と繰り返した手の記憶。
書いてある通りにやっても、同じものができない。
最初は慣れの問題だと思った。一ヶ月もすれば職人が覚えるだろうと。——甘かった。三ヶ月が過ぎても、品質は安定しない。
兵糧供給の契約は解除された。北方軍への主要な収入源が、消えた。
侯爵家との婚約も白紙になった。ロゼリアは屋敷にいるが、新たな縁談の話はない。社交界での評判は、エーリッヒの不祥事と共に地に落ちている。
机の上に積まれた書簡。領内の商人からの問い合わせ、税収の減少報告、使用人の給金の見直し案。
「……あの子がいないと、回らんのか」
声に出していた。
誰も答えなかった。加工場の職人たちは、手順書と手元の肉を交互に見つめているだけだった。
窓の外では、冬の曇り空が低く垂れ込めている。
◇
夜。部屋に戻った。
外套を脱いで椅子にかけ、机に向かう。冬支度の発注書を仕上げなければ。
燭台に火を灯した。
——そこで、気づいた。
机の脇に、小さな一輪挿しが置いてある。
陶器の小さな壷。水が入っている。そこに、一輪の花。
白い小さな花弁。茎が細い。——これは。
ローズマリーの花だ。砦の裏庭で、私が育て始めたハーブの鉢から咲いた花。先週、つぼみがついたのを見つけて喜んだばかりだ。
(……誰が飾ったの?)
リーゼだろうか。砦の使用人だろうか。
花を摘むなら、あの鉢がどこにあるか知っている必要がある。裏庭の奥、風よけの石壁の陰に置いた鉢。厨房の人間か、裏庭を通る人間しか場所を知らない。
(リーゼは裏庭に行ったことがないはず。じゃあ厨房班の誰か?)
花弁に触れた。まだ新しい。今日摘まれたものだ。
誰か分からないけれど。
(……ありがとう)
小さな花が、燭台の灯りに照らされて、薄い影を机の上に落としていた。
控えめな扉の音。
「メルル殿」
マルクスだった。こんな時間に来るのは珍しい。手に書類を一枚持っている。
「例の商会。ヴァルトシュタイン商会」
「……調べてくれたんですか」
「ブレンナーの商人に確認を取った。登記簿も照合した」
マルクスが書類を机に置いた。
「ブラント侯爵家の傘下だ。設立は三ヶ月前。——ちょうど、侯爵家嫡男が謹慎処分を受けた直後に当たる」
指が、止まった。
ブラント侯爵家。エーリッヒ・フォン・ブラント。姉の元婚約者。王太子の名を騙って命令書を出し、謹慎処分を受けた人。
その人の家が、北方の交易網に接触してきている。
リーゼの言葉が蘇った。『王都で、この砦の交易網について噂が流れております』。
偶然ではなかった。
一輪挿しのローズマリーが、燭台の灯りの中で静かに揺れていた。




