最後のお客様はあたし
「おはようございまーす!」
「おはよー」
「おはー」
「おはよ」
いつも通りの出勤と、いつも通りの元気な挨拶。
今日もまた、『One Night Honey』での一日が始まる。一体今日はどんな妖怪が来るのだろうか。そう考えるだけで心が踊り、仕事が楽しくて仕方ない。
ふんふん、と鼻歌混じりに化粧台につき、いつも通りに自分を飾る。雪女の悠美ほどに美しい見た目はしていないけれど、それでも飾ればそれなりになるものだ。
ぱたぱたと頬に粉を振っていると。
「随分とご機嫌みたいね」
唐突にそう、エリから声をかけられた。
割と無意識で鼻歌を歌っていたあたり、物凄く楽しいのがバレバレらしい。
「あ、ごめんなさい。うるさかったですか?」
「そんなことないわよ。それよりも、マキちゃん最近楽しそうだな、って思って」
「楽しいですから!」
そう、仕事が楽しくて仕方ないのだ。
どうやって声をかければ、どんな反応をしてくれるのか。どんな風に対応すれば、どんな風に喜んでくれるのか。
麻紀の接客で笑顔になる客を見ると、それだけで麻紀も嬉しくなる。
そして何より、給料明細が楽しみすぎる。どんどん増える貯金額を見ながらにやにやしているのは、きっと傍から見て気持ち悪いだろう。
だが、そんな麻紀の悪癖は当然知らないエリは、ほっと胸を撫で下ろした。
「そう。それじゃ、もう安心ね」
「へ?」
「一応、店長に言われてたのよね。色々と戸惑うことも多いだろうし、ほら、妖怪相手だから尻込みするかもしれないから、色々とフォローしてくれ、って。でも、心配ないわね。マキちゃん、仕事がすごく楽しそうだもの」
「はい!」
「うん。その様子だと、大丈夫みたいね」
うふふ、とエリが微笑む。
そして麻紀の隣で同じく顔に化粧を施しながらも、何気なく、呟いた。
「あまり、長続きしないのよ」
「……え?」
「このお店。マキちゃんの次に新人なのって、レイナだもの。あの子も、もう二年になるわ。新しい人が入っても、すぐに辞めちゃうのよね」
「そうなんですか?」
麻紀にしてみれば、これほど働きやすい職場もないのだけれど。
水商売にありがちなドロドロした人間関係もないし、先輩からのイビリのようなものもない。客も妖怪であるということを除けば優しいし、楽しく過ごせる。
だが――。
「マキちゃんは割と早く順応したけど、どうしても……私たちと妖怪って、違うのよ」
「まぁ……」
「どれだけ優しくされても、それが鬼みたいな顔をしていれば、それだけで怖いわ。怖がれば、それだけ相手との距離も遠くなる。だから相手も、それ以上踏み込んでこない。踏み込んでこないから、何をされるのかと怯えてしまう。悪循環ね」
「……」
確かに、そう言われると納得してしまう。
麻紀はとにかく、『元気に、誠実に』を心がけて接客をしていた。だからこそ、決して怖がるばかりではなく、とにかく相手を知ろうと頑張った。
だから今、こうやって受け入れられているのかもしれない、。
だが、それもできない人間だっているだろう。
「マキちゃん」
「はい」
「これからも、一緒に働きましょうね」
「はいっ!」
エリの笑顔と、かけられた言葉に。
麻紀は大きく頷いて、返した。
「マキさん、四番テーブルご指名入りましたのでお願いします」
「はーい」
夜半。
既に閉店時刻まで一時間を切り、新規の客は来ないだろうと思っていたところに、思わぬ指名が入った。
最近はそこそこ指名も増えているため、どの妖怪が来ているのかなと楽しみにしつつ、四番テーブルへと向かう。
そこにいたのは。
「こんばんは、マキです! よろしくお願いします!」
「こんばんは」
女性、だった。
そこそこ女性客というのも来るけれど、やはり珍しい。以前に雪女の悠美が来ていたときのように、やや驚きながら見やる。
麻紀よりも十歳くらいは年上に見える、大人の女性だ。
やや垂れた目が優しい雰囲気を持ち、落ち着いた色合いの服が年齢とよく合っている。どことなく全体的に、見たことがあるような見た目だ。
背格好は麻紀とほぼ同じくらいだろう女性が、にこっ、と微笑む。
大人の余裕というか、どことなく気品めいたものすら感じた。
「お隣よろしいですか?」
「ええ、座って」
「それじゃ、失礼します」
隣に腰掛け、改めて頭を下げる。
なんか見たことあるなぁ、と首を傾げるけれど、多分知り合いじゃない。
物凄い違和感に、知らず下唇を突き出す。だけれど、目の前の女性と一致する顔の知り合いは思い浮かばなかった。
「何か飲まれますか?」
「ええ。水割りをちょうだい。少し薄めにしてくれると助かるわ」
「はい、かしこまりました!」
注文通りに、水割りを作る。
少し薄めに、とのことなので、いつもよりウイスキーを少なめにしつつ。
最近はこの作業の大分慣れてきて、手元を見なくても作れるようになった。
だから、少しだけ女性の顔を見て。
「……」
その表情は、何だか複雑な心境を現しているようにも見える。
何だろう。
恥ずかしいような、それでいて親しみと懐かしさがあるみたいな。
「ええと、お客様の、お名前は何と?」
「……あたし?」
「あ、はい。あたしはマキといいます」
「……そうね。エム、とでも呼んでちょうだい」
うふふ、と微笑む女性。
多分偽名だろう。まぁ、自分の名前を言いたくない理由というのも分からないけれど、人には人の事情があるものだ。
その微笑みも。
やっぱり、見たことがある。
「エムさんは、お仕事は何を?」
「あたしもホステスをしてるのよ。このお店だと、キャストね」
「あ、はい、そうです」
ホステスのことをキャストと呼ぶ店は、珍しくない。
そもそもホステスという言葉が、どことなく淫靡なものだ。だからこそ、店側が女の子のことをキャストと呼ぶことで、まるで役者であるかのように錯覚させるのだとか。
しかし、何故それを知っているのだろう。
「結構、長いんですか?」
「そうね。もう十年になるわ」
「うわ、すごいベテランですね」
「もうおばさんよ。周りは若い子ばかりだしね」
「そうなんですか?」
「ええ。お店だと、あたしが最年長なの」
くい、と水割りを口に運び傾けるエム。
その所作も、まさにホステスのそれだ。割とこういう水商売をしていなければ分からないけれど、グラスの運び方だとか、飲み方だとか、細かいルールは色々あるのだ。乾杯をするときは必ず客のグラスより下、とか。
だというのに、その雰囲気にある気品。
まさに、ベテランのホステスといえばこんな感じなのだろう。
と、そこで気になった。
エムの姿は、人間のそれだ。全く人間と変わりない。
色々な客は来るけれど、必ずどこかは人間と異なる部分が存在するというのに、エムにはその欠片も見えなかった。
長い黒髪の中に、角でも隠しているのだろうか。
「ええと……エムさん」
「はい?」
「エムさんは、妖怪なんですか?」
妖怪相手専門のキャバクラで、聞くようなことではないのかもしれない。
だけれど、何故か感じた。
この客は――人間なんじゃないか、と。
「あら……あたし、妖怪に見える?」
「妖怪には見えないです」
「そうね。あたし妖怪じゃないから」
やっぱり。
妖怪しか来ないはずのキャバクラだというのに、妖怪じゃない客が来ているというのも不思議だけれど。
じー、とじっくりと、エムの顔を見る。
おっとりとした雰囲気を持つ垂れ目。
少しふくよかな頬。
形の整った鼻筋に、桜色の唇。
全体的に薄化粧を施されているそれは――。
「……あの、エムさん」
「何?」
「すっごい変なこと聞きます。この子頭おかしいんじゃない? って思わないで貰えると、助かります」
「大丈夫よ、その通りだから」
質問の前に、そう返される肯定。
あまりにも、常軌を逸した事態だ。あまりにもおかしすぎる。
こんな状況、あるわけがない。
目の前にいる、このお客様、エムは――。
「あたし、なんですか……?」
麻紀、なのだ。
年齢は、恐らく今の麻紀よりも、十歳は上だろう。だけれど間違いなく、顔のパーツはそれぞれ麻紀のそれだ。
背格好が似ている。当然だ。麻紀なのだから。
見たことがある。当然だ。麻紀なのだから。
一体何故、ここに。
未来の麻紀が、座っているのか――!
「そんなに警戒しないで。あたしは別に、何をしに来たわけでもないわよ」
「……なんで、あたしが?」
「んーと……マキちゃん……って呼ぶのもなんか変な気分ね。マキちゃんはもう、クダンさんとは会った?」
「クダンさん?」
お客様ノートを頭の中だけで捲ってみるが、クダンさんという客の名はない。
意思表示に首を傾げると、エムはくすくすと笑った。
「そっか。まだ会ってないのね」
「多分……」
「クダンさんは、牛の体に人間の頭を持つ妖怪なの。ちょっと見た目は不気味だけど、いい人よ」
牛の体に人間の頭という妖怪は、まだ会ったことがない。想像してみると物凄く不気味だった。
逆ならいるのだけれど。牛鬼とかミノタウロスとか。
「今日……んんと、あたしが来た未来の今日、クダンさんが来たの。彼、妖怪としては『絶対に当たる不吉な予言を残す』みたいな妖怪なんだけど、本当は時間を操作できるのよ。自分自身が未来に行って、見てきたことを話すんだって」
「へぇー」
「クダンさん、今日はご機嫌だったの。だから、一晩だけ好きな時代に連れて行ってあげる、って言われたのよ」
「はぁ……」
「だから来たの」
全く理由が分からない。
好きな時代に連れて行って貰えるなら、戦国時代とか、それこそ超未来とか行けばいいのに。
なんでわざわざ、十年前の自分に会いに来たのだろう。
「……あの」
「何故来たのか、でしょ? 分かってるわ。あたしも疑問に思ったから」
「はい?」
「あたしが、このお店で働き始めて、三ヶ月目くらいかしら。あたしの前に、十年後のあたしが来たのよ」
「……ええと?」
混乱してきた。
つまりエムが三ヶ月目というと、今の麻紀である。そこに十年後の麻紀が来た。
今まさにそれだ。
「つまりあたしは、約束を果たすために来たのよ。かつて自分が受けた助言を、昔の自分に言うためにね」
「……あの、よく意味が」
「三日前、かしら? ぬらりひょんのお爺さんと知り合ったでしょう?」
「っ!」
それは、麻紀以外の誰も知らない事実だ。
約束を守って店長には言わなかったし、誰にも知られていない。
それを知っているのも、当然だ。エムも、麻紀なのだから。
「貰った名刺、家に置いてあるでしょ? 明日は絶対に持ち歩いておきなさい」
「え、なんで……?」
「明日、役に立つわ。いい? 必ず持っておくのよ」
「……」
一体、何のことだか理解が全く追いつかない。
だけれど、エムは未来の麻紀。
ということは、麻紀にとっては未知である明日の出来事を、既に知っているのだろう。
だから、麻紀にできることは。
「……分かりました」
「ん。それじゃ、お願いね」
「あの……明日、何が起こるんですか?」
「それは内緒。先に知ってたら、つまらないでしょ?」
うふふ、とエムはその口元に人差し指を当てて、微笑んだ。
その仕草はずるい。
「でもね、安心しなさい」
「へ?」
「十年後のあなたも、すごく仕事が楽しいわよ」
十年後。
自分の十年後なんて全く考えていなかったけれど。
十年後の自分が言ってくれるんだから、それはきっと事実なのだろう。
だから、麻紀は大きく頷いた。
「はいっ!」
加えて。
「それと、十年後の貯金通帳。凄いことになってるわよ」
「……マジですか?」
このお金への執着。
やっぱりエムは麻紀なのだ、と改めて感じた瞬間だった。
翌日。
エムに言われた通り、ぬらりひょんの名刺を懐に入れて、麻紀はいつも通りに待機席に座っていた。
エムの言葉によれば、今日は何か起こるらしいのだけれど――至って現状は平和である。いつも通りに騒がしい店内だ。
取り越し苦労なのかな――と、コーヒーを啜って。
そこに。
「うらぁぁぁぁっ!」
「おいこるぁぁぁぁっ!」
突然、トラブルは舞い降りた。
店内に、一瞬静寂が走る。その理由は、玄関から入ってきた二人だ。
一人は、虎の頭に筋骨粒々の肉体をした、大柄な妖怪。
もう一人は、虎男よりも遥かに巨大な犬。
虎男の方は二つ足で、大犬の方は四つ足。しかし、どう見ても野生の動物とかではなく、妖怪だ。
しかも。
明らかに、平和的な雰囲気ではない。
「お客様、お騒がせして申し訳ありません」
そんな闖入者に対して、まず店長は店内へと詫びの言葉を述べ。
そして、二匹の妖怪へと向き直る。
「一体、何の御用でしょうか?」
「ほう? てめぇがここの店長か?」
「はい。一体どのようなご用件でしょうか? 用件によっては、少々手荒な対処となりますが」
「ほほー……人間にしちゃぁ、随分と度胸が据わってんじゃねぇか」
ククッ、と虎男が笑う。
だがそれと同時に、胸元から出たものは――想像の、埒外だった。
「こいつが何か分かるか?」
「それは……!」
「俺ぁもののけ通り署の刑事だ」
――警察手帳。
麻紀の知るそれと異なり、桜田門の代わりに描かれているのはお化けのようなマークだけれど、それは間違いなく警察手帳だ。
店長が狼狽しているのが分かる。
突然の警察の乱入など、想像すらしていなかっただろう。
「こいつが捜査令状だ。『One Night Honey』店長……おたくに、傷害の容疑がかかってんだよ」
「そんな! 私はそんなことしていません!」
「そいつは、これからの捜査で分かることだ! おい! この店長を署に連行しろ!」
「うぃっす!」
虎男の支持で、大犬が店長の前に立ちはだかる。
あまりの事態に、店の誰も動くことができない。
店長が、傷害事件――!
そんなわけが……。
「じ、事情を説明してください! どこの誰が、そんな訴えを!」
「そう言うと思って、被害者も連れてきてあるぜ。おたくの店に被害に遭った、可哀想な奴をなぁ」
虎男が右手をあげて、それと共に店に入ってくる姿。
それは。
――小さな、狸だった。
「――っ!」
「ほう? 心当たりはあるみてぇだな。こっちの聞いた事情によれば、ただ楽しんでいただけのあの狸を、外国人の男二人に指示して殴りつけた、とのことだが」
「うっ……!」
「決まりだな。悪いが、署に来てもらうぜ」
間違っていない。
だけれど、正しくもない。
確かに店長は、あの狸に対してクリフとラッセルをけしかけ、殴らせた。
だけれどそれは、麻紀を脅して店を辞めさせようとした、あの卑劣な狸に制裁しただけだ。
罪になるならば、あの狸の恐喝が先ではないか。
「ま、待ってください! 私が抜けたら、店が……!」
「あん? こんな事件を起こした店だ。営業停止に決まってんだろうが」
「そんな!」
あまりにも理不尽な虎男の言葉。
だけれど、国家権力だ。逆らうことなどできない。
このまま店長は連れていかれ、『One Night Honey』は営業停止。
やっと、仕事が楽しくなってきたのに――。
そこで、エムの言葉を思い出す。
――貰った名刺、家に置いてあるでしょ? 明日は絶対に持ち歩いておきなさい。
――明日、役に立つわ。いい? 必ず持っておくのよ。
この事態に、この名刺が何の役に立つというのか。
だけれど。
エムは、十年後の未来から来た。
そして十年後の麻紀は、仕事を楽しんでいた。
つまり、十年後も『One Night Honey』は存在する。
麻紀の行動で、これからの『One Night Honey』の行く末が、決まる。
「ケケケ……」
不快な、狸の笑い声が聞こえた。
あいつが警察に訴えなければ、こんな風に動くことはなかっただろう。そもそも、あの狸が麻紀を辞めさせようとしたのに。
そもそも、あの狸は――。
あれ?
――この間、少しばかり脅されたじゃろ? あのタヌキは、うちの若い衆でな。
何故、麻紀を脅したのか。
それは。
――この店の隣にある、『MNK48』に頼まれてな。『One Night Honey』を潰すように、とな。
ぬらりひょんの組、『あやかし組』が、他の店に頼まれた。
だから若い衆である狸をけしかけて、内部崩壊させようとした。
だけれど。
――ワシがお嬢ちゃんの後ろ盾になってやろう。
ぬらりひょんは今。
麻紀の、味方だ。
「待ってください!」
だからそう、大きな声で制止を告げる。
突如、別方向からの制止に、虎男が眉根を寄せた。
「……おい、嬢ちゃん。こいつはこの店長の罪だ。邪魔するってぇなら、公務執行妨害で逮捕するぞ?」
「ぼ、暴力をふるった事実は、ありません!」
「あぁ? てめぇ、何を今更……!」
待機席から玄関へ、かつかつ、とヒールの音を響かせながら歩く。
麻紀にしか。
この店の今を、救えないのだから――!
「そこのタヌキさん! 店長があなたに暴力を振るった事実は、ありません!」
「な、何言ってんだお前!?」
「もしもそう主張すると言うなら――あたしも、手があります!」
狸の前で目一杯虚勢を張りながら、そう言って。
胸元に大事に入れていたそれを、取り出す。
絶対に持ち歩いておけ、と言われた名刺。
狸のボスであり、麻紀の後ろ盾。
ぬらりひょん。
「な、なんだてめぇ……えぇっ!?」
「あたしの働く店が、あなたに潰されようとしている……そう、連絡しましょうか?」
「いぃっ!? な、なんで組長の名刺をっ!?」
「おい……てめぇら何を……」
狸は、ぬらりひょんの部下。
ならば、ぬらりひょんの名前を出せば、黒も白になる。
暴力の事実などなかった。
そう、ねじ曲げることだってできる。
案の定、狸の顔から血の気が引いていた。
「だ、代紋も本物……! 金箔もちゃんとある……ほ、本物だ……!」
「あなたのボスは、あたしの後ろ盾になってくれると約束してくれました。これでも、まだ主張しますか!?」
「暴力の事なんてありませんでした!」
狸が、すぐに掌を返してそう土下座する。
あまりの豹変ぶりに、虎男も店長も、ぽかんとしながら状況を見るしかできていない。
畳み掛けるならば、今。
「じゃああなたは、警察に嘘を吐いたんですね」
「うっ……!」
「警察とこの名刺と、どちらが怖いのかは分かりますよね?」
「俺は警察に嘘を吐きました!」
これで大丈夫。
安心して、その名刺を胸元にしまい。
そして、虎男を見据えた。
状況の変化に、眉根を寄せる虎男。さすがに、強引すぎたのは否めない。
だけれど、麻紀は。
この店を、守りたい。
「……どういうわけだ? 嬢ちゃん」
「見ての通りです。暴力の事実などありませんし、そちらの狸が警察に嘘を吐いていたそうです」
「……それで、俺が納得すると思うか?」
「どうぞ、いくらでもそこの狸を問い詰めてください」
虎男の覇気に気圧されそうになりながらも、気丈にそう告げる。
足は震えている。歯の根は鳴っている。
だけど、弱気は、見せない――!
虎男は少しだけ考える素振りを見せて。
そして、大きく溜息を吐いた。
「……被害者がいねぇんじゃ、立証もできねぇな」
「でしたら!」
「今日のところは、嬢ちゃんに免じて帰ってやる。だが、次に妙な事件を起こしやがったら、確実にしょっぴいてやらぁ」
ぽん、と大きな手で、虎男が麻紀の肩を叩き。
そして、大きな牙を剥き出しにして、笑みを浮かべた。
「嬢ちゃん、名は?」
「マキです」
「そうか。次ぁプライベートで来てやるよ」
虎男はそう言って、「じゃあな」と狸の首を掴んで玄関から出て行った。
その瞬間に、ぺたん、と麻紀は床に腰をつく。
……腰抜けた。
「マキさん……」
「あ、え、えっと……勝手なことして、すみません」
「いや……それよりも、その名刺……いや、違いますね」
店長は、大きく溜息を吐き。
そしてゆっくりと腰を落とし、麻紀に右手を伸ばした。
「ありがとうございます、マキさん。あなたのおかげで、店は救われました」
「はいっ!」
右手を握り返し。
そして、店内でわあっ、と歓声が広がった。
「マキちゃんの勇気に乾杯だ! ピンドン持ってきな!」
「『One Night Honey』がなくなっちまったら、俺ら飲むとこなくなるとこだったぜ!」
「こっちも祝いだ! ピンドン持ってこい!」
「よっしゃ、次来たときはマキちゃん指名してやるぜ!」
今日は、これから騒がしいだろう。
だけれどそれは、喜びゆえに。
キャストも、ボーイも、客も、誰もが『One Night Honey』を好きだから。
「乾杯っ!」
今晩も。
『One Night Honey』の夜は、騒がしく更けてゆく。
これにて完結。
ご来店、まことにありがとうございました。
『One night honey』。言葉通り、一夜の恋人としてお楽しみいただけたでしょうか?
当店は年中無休。いつでも開いております。寂しい夜にでも、またご贔屓くださいませ。
またのご来店、心よりお待ちしております。