私にもできることがある。だから……
私は玄関へと走った。
後ろから慌てた様子のベティが付いてきて、安全靴を履こうとする私の腕を掴んだ。
「ちょっと、待ちなさい!エリオルノ!!」
「すぐに戻るから!」
心配性なベティを安心させるようにそう力強く言うと、ベティが止めるのも聞かずに外に飛び出した。
一応レインコートと傘を持って出たのだけど、傘は差した瞬間にどこかに飛んでいった。
仕方なくレインコートだけで、現場を目指す。
レインコートもお情け程度のもので、すぐに全身がビショビショに濡れてしまった。
絡みつく布が動きを制限して、非常に走りにくい。
でもそんなこと構っていられなかった。
早く、早く……。
少しでも早く現場に行かないと。
事務所に大きなシートがあったから、あれで覆えば少しはマシなはずだ。
はぁはぁっと乱れる自分の息をどこか遠くに聞きながら、私は全力で現場に向かった。
私のアパルトマンから作業現場までは、乗合馬車で10分の距離だ。
それをこの雨の中、運動音痴の私が走っていくと小一時間はかかると推測してほしい。
きっと今日の私の運勢は最悪に輪をかけ、最低だ。
いや、今日とかそんなレベルじゃなく、生まれた時から凶星のご加護を受けているのかもしれない。
ベシッと勢いよく飛んできたニュースペーパーが顔に張り付いた。
「ぎゃぁぁぁぁ!ツケマ取れる!!!」
モガモガと叫ぶが、勢いよく張り付いたニュースペーパーはなかなか取れない。
やっとの思いでそれを外し、浅瀬の川のような石畳をかける。
いくら王都の端くれといっても、スラム街のペイズリー。
石畳はボコボコで、至るところに大きな池が出来ている。
その池を飛び越える脚力のない私は、もちろん突き進むしか道はない。
ザブザブとくるぶしまである水を蹴散らせた。
まぁお陰様で、安全靴なる乙女らしからぬ靴を着用しているだけあって、足だけは水が染み込んでこない。
そんなことをして進むと、いつの間に私の横にあった石造りのアパルトマンは少なくなっていた。
石畳も消え、赤茶けた土の絨毯がどこまでも広がる。
そこが私の仕事場だ。
踏み締めた足元は石畳と打って変って、ズブズブと沈み込みそうな程にぬかるんでいる。
いつもはこの現場を見る度に、胃が痛くなって帰りたくなるのに………。
今はここにたどり着けたことに心底安堵していた。
私は歩きにくい地面を慎重に進みながら、まず事務所に向かった。
何もない場所に立っている掘立小屋は、雨風を避ける術を知らず、風雨に晒されていた。
ベシベシッ激しい雨に叩かれ、かなり可哀想だ。
何故かこの愛想のない事務所にシンパシーを感じてしまった。
「偉いよ、お前は。頑張って耐えるんだよ」
ポンポンとその壁を叩き、私は事務所の横にある倉庫とは名ばかりの道具管理庫に入った。
誰もシャベルやツルハシやら一輪車やらを盗んだりはしないので、鍵などかけてない。
ここに大きなビニールシートをいくつか置いてあったはずだ。
よかった。興味はなくとも月に1回、ちゃんと仕事の道具の管理点検を行っておいて。
まさかこんな時に役に立つなんてね。
私は過去の自分を自分で褒めて、少しだけ自信を取り戻した。
えっと、あの時は倉庫の一番奥で見かけたんだけど。
ガサガサガサ…………あれ?
ガッ、ガサガサガサガサガサガサガサガサガサッッッッ………………な、ないっ!
「ちょ、え?なんでないのよ?」
こんな時に限って、ビニールシートがないなんて!
ビニールシートなんて普段の仕事では使わない。
だから出しっぱなしになっているんじゃなくて、単純にないのだ。
つまり、そこから導き出されるのは………盗まれた!
私は確信を持って、顔を上げた。
って、いやいや、こんなもの誰が盗むんだよ。
作業現場を離れれば、ただのビニール……いや、違う!
確かに家のない方から見れば、ビニールシートは素敵なおうちの屋根になるわ!
ガイィィィィィィンンンンンンンンン―――――。
こ、こんなことに今さら気付くなんて。
私はショックのあまり、その場に突っ伏した。
ああ……、自分の価値観だけで誰も盗まないなんと思った自分が浅はかだった。
悔しさに握る拳が震えた。
ぼんやりと視線を上げた私は、そのまま倉庫の中を見渡した。
倉庫の中には所狭しと色んな道具が置いてある。
シャベルの1本くらいなくなっていても私には気付けない。
今度ちゃんと鍵を付けよう。
それでもって、これからは月1回じゃなくて毎日、備品の管理をしっかりしよう。
拳を持ち上げ、胸の前でぐっと握りしめる。
そうだ、それが責任者の果たすべき最低限の仕事だわ。
それぐらいちゃんとしないと!
そう、その……この仕事を辞めるまでは……。
責任者として、それくらいはしないと後任者に引き継げない。
ハハッと悲しい笑いが零れた。
ああ、私ってダメな女だ。
きっと私はこの職場も首になるに決まっている。
首にされるよりも自分で辞める方が早いかもしれないけど、きっとどっちでも時間の差はないはずだ。
いずれの話。
ああ……せっかくひとつ誇れることがあったと思ったのに。
さっき戻ってきたちっさな自信が家出をしてしまった。
きっともう二度と帰ってこない。
自己嫌悪で吐きそうだ。
胸の奥がムカムカして、頭の芯がズキズキと痛む。
それ以上にこの体中でとぐろを巻く感情を解放するために泣き叫びたかった。
地面をゴロゴロと転がって、ドンドンと床を叩いて、髪の毛を掻きむしって、どうにかこの不快な状況から脱したかった。
でも………私の中にある高いだけしか取り柄のないプライドがそれを邪魔する。
私は全てに疲れてきた。
ノロノロと立ち上がると、風雨噴き荒ぶ荒野に出た。
このまま雨に攫われて消えてしまえたら、どれだけ楽なんだろう………。
そう自嘲気味に笑った瞬間、目が覚めるような激しい衝撃を頬に感じた。
雨粒の矢に叩かれたのだ。
その激しさに思わず頭が真っ白になった。
ひっと飛びあがりそうな冷たさに、自分を包む環境に目をやる余裕が出た。
自分でも気付かなかったけど、意外に熱くなってしまって、冷静さを忘れていたらしい。
「あ……私、どこに行こうとしてたの………」
さっきの私は無意識に、家に帰ろうとしていた。
このまま何も見なかったことにして、家に帰って、ベティに甘えて、仕事を放棄しようとしていた。
なんて最低なんだ。
何もできないくせに、何もしないうちに投げ出そうとするなんて…………。
バンッと勢いよく倉庫の扉を閉めた。
遮るもののない荒野では、雨風が全力でぶつかってくる。
気を抜けば、そのまま吹き飛ばされそうだ。
でも…………。
これくらいの方が今の私にはちょうどいいのかもしれない。
これなら………きっと今、私が泣いているかどうかなんて分からない。
「もうガムシャラに行くしかない!」
私は吹きすさぶ雨風のその先に向かって叫んだ。
もともと破れかぶれなんだ。
もともと誰にも期待も信頼もされてないんだ。
今さら恥の一つや二つ、増えたって痛くもかゆくもない!!!
なんて…………エリオルノのくせに強がってごめんなさい。
私は数分後にこのやけっぱちなやる気を後悔することになった。




