鋼の愛馬に跨って3「旅人名」
差し入れの赤ワインを飲みながら、沙弥はピアノの演奏に耳を傾けていた。
談話室に置かれている小さめのグランドピアノで、範子さんがピアノを弾いていた。そのすぐ近くで、花ちゃんがその様子を見ている。
そして、談話室にはもう1組、コロコロとした体格の男性と、小柄で聡明な感じの女性のカップルが、ゲストハウスのオーナーと話し込んでいた。男性はこのゲストハウスの常連とのことで、毎シーズン必ず泊りにきているそうだ。
「はい、9時を回ったことだし、今日はここまで」
かれこれ30分以上、ピアノを弾き続けていた範子さんが、演奏をやめて談話室のテーブルに戻ってきた。
「なんていう曲ですか?」沙弥が尋ねると
「グノシエンヌとか、いろいろかな。全部、サティの曲」と範子さんが教えてくれた。
「ピアノ、お上手なんですね」
「この人、音大出身なんだよ。ピアノ科を首席で卒業したんだって」
花ちゃんが付け加えると
「もう、それ言わなくていいって!」
照れたように範子さんが、花ちゃんの肩を軽く叩く。
「サティなら、会話の邪魔にならないかなあって思って。『家具の音楽』っていう曲も作っているくらいだから。お店でBGM代わりに弾くことも多いから、ある程度は覚えてるんだけど、暗譜してる曲ってなると、やっぱり限られちゃうなあ」
「ピアニストなんですか?」
「今は、ただの趣味…いや、違うか。たまにギャラもらって演奏してるけど、本業は会社員です」
範子さんはニコリと微笑みながら、そう教えてくれた。
「すごいですね。ここでピアノを弾くお客さんは、これまでもいましたが、30分以上も弾き続けた人は、お客さんだけです」
テーブルの反対側に座っていたオーナーの男性が話しかけてきた。
「そこで、どうでしょう?うちの宿では、プライバシーのこともあって、お客さんをゲストネームで呼んでるのですが、『ピアノさん』とお呼びしてもいいですか?」
「ええ?はい、なんか恥ずかしいですけど、大丈夫です」
「ええ、いいなあ!俺なんかゲストネーム『ブンタ』ですよ」
常連だという、コロコロとした体型の男性が会話に参加してきた。
「本名が菅原だから、『ブンタ』って。全然、プライバシーの保護になってないと思いません?」
「ブンタは、高校生の頃からのあだ名だから、ブンタでいいんだよ。この人、お客さんですけど、もう10年以上の付き合いで、高校生の頃から知ってるんで、家族みたいなもんなんです。他のお客さんには、こんな扱いしませんよ」
オーナーが笑いながら、ブンタさんを指してそう言った。
「毎年、バイクで来てたんだけど、今年初めて彼女を連れてクルマで来るっていうから、こっちがドキドキしてたよ。なあ、ブンタ?」
「オーナー!俺のプライバシーは?」
顔を赤らめるブンタさんに、オーナーは笑顔で応える。
「そうなると、ブンタの彼女さんは、やっぱり『ブンカノ』になるかね?」
「『ブンカノ』は嫌ですー!他の名前希望しますー」
ブンタさんの隣にいた聡明そうな女性が声をあげた。この人が、その彼女というわけか。
「ゲストネームは、本人は付けられない決まりなので、他のお客さんに聞いてみましょうか。ピアノさん、何か良い案はありませんか?」
オーナーは、『ピアノさん』こと、範子さんに話を振る。
「ええ!責任重大ですね。俳優の多部未華子さんに似てると思ったから、「タベちゃん」でどうでしょうか?」
「あ、それいい!たまに似てるって言われます」とブンタさんの彼女さん。
「あっ!自分だけ格好いいゲストネーム、ずるい!」こちらはブンタさん。
「だって『ブンカノ』だと、菅原君と別れたら、使えないじゃない」
「ええええ?俺たち、別れる前提なの!?」
そこで、沙弥、オーナー、花ちゃん、範子さんは大笑いをしてしまった。
「そもそも、こんないい子と、ブンタはどこで知り合ったのよ」
「司法試験の予備校で、クラスが一緒だったんです」
ブンタさんの彼女が答えた。
「へえ、ブンタさんって司法試験合格を目指してるんですね」と花ちゃんが聞いたら
「いや、もう合格しました」とブンタさんから返ってきた。
「ええええええー!!」
これには、沙弥、範子さん、花ちゃんの3人は驚いて大きな声を出してしまった。
「そうなんだよ。去年の11月に、ブンタから『合格しました』っていう連絡があってさ」
オーナーは、ちっとも意外じゃなかったという感じで、そう付け加えた。
「正直、司法試験そのものよりも、司法予備試験の方が大変だったかな。特に口述試験がね。あれ、完全に『こいつは、自分たちの仲間として迎え入れるのに相応しい人物か?』って視点で、試験官は見てるよね」
ブンタさんがそう言うと、彼女さんも
「そうだって聞くよね。あたしは、まだこれからなんだけど…」と頷いた。
それまでニコニコしていたブンタさんは、そこで急に厳めしい表情になった。
「君、口述試験で緊張してるのかい?安心しなさい。この程度で緊張するようなら、私たちがちゃんと落としてあげるから!」
試験官の口調をまねたのだろう。そこだけ急に厳しい口調で話すと、すぐにまた元のニコニコした感じのお兄さんに戻った。
「とまあ、リアルにこんな風に言われた受験生もいるって話だからね」
「それで、ブンタは何を目指してるんだい?弁護士?裁判官?検察官?」
「まだ、決めてないんですよね。とりあえず今は、司法予備校の講師の手伝いやってますが」
「そうなんですよー!この前まで一緒に勉強してたのに、今は先生ヅラして教えてるんです!なんか、ムカつきません?」
ブンタさんの彼女さんが、そう同意を求めてきた。
「いや、だって俺、先生だし!」
ブンタさんがドヤ顔で返す。
「はいはい、わかった、わかった。やっぱり、ブンタの彼女さんのゲストネームは『ブンカノ』ね。別れたら、また別の名前考えるから、教えてね」
「えええ、イヤですー!」
彼女さんの反対をスルーして、オーナーはそう命名した。
「こんばんはー」
もう1組のカップルが談話室に現れた。30代前半くらいの男性と、20代後半くらいの女性だった。
「なんか楽しそうな声が聞こえてきたので、顔を出しに来ました」
男性の方がオーナーにそう声をかけた。
「ああ、こちら。今回が2度目の宿泊の『フライ』さん。フライは、揚げ物の方じゃなくて、フライフィッシングの略ね」
「もう、有無を言わさず『フライ』になりました」男性は苦笑しながら言った。
「ああ、なんか、わかりました。フライフィッシングが趣味なんですか?」
花ちゃんが声をかける。
「そうです。網走川で、エゾイワナとか、ヤマメとかが釣れるので」
「彼女さんも、フライフィッシングを?」
「いやいや、今回は単なる観光です。彼女は釣りはやりません」
「やりたいって言ってるんですけどね。教えるのが面倒くさいって、逃げられてるんです」
隣にいた女性が言った。誰かに似てると沙弥は思ったのだが、次の瞬間、思わず口からその名前が出ていた。
「芦田愛菜ちゃんだ」
「ああ、確かに!似てるかも」範子さんが相槌を打つ。
「はい、じゃゲストネーム決まりね。『マナ』さんということで」
オーナーがそう命名した。
「ええー、ずるいー!あたしも『タベ』ちゃんがいいですー!」
ブンタさんの彼女さんがそう言うと、
「じゃ、ブンタと別れたら、『タベ』ちゃんで」
「やめてくださいよ、縁起でもない!」
ブンタさんが、必死になって否定してくる。
「フライフィッシングって、けっこう繊細な世界ですよね」花ちゃんがそう言うと、
「花ちゃん、詳しいの?」と範子さんが尋ねる。
「うん。妹の旦那が、やってたって言ってた。なんか、釣った魚のお腹を割いて、何を食べているのか調べて、そこから想像して針を手作りするんだって。子どもが生まれてからは、なかなか行けないみたいだけど」
「詳しいですね。確かにそうです」フライさんが答える。
「魚のお腹割いて、内臓を調べるんだ!?ちょっと想像しただけでも、ムリかも」
範子さんが、いかもムリ!といった表情で話す。
「まあ、仕事で人間のお腹も割いてるくらいですからね。それと比べれば、まあ。繊細さはフライフィッシングの方が上ですが」
「どういうことですか?」
一同がギョッとした表情になったところで、ブンタさんが恐る恐るといった感じで尋ねる。
「ああ、すみません。職業、外科医なもので」
「ええ?フライさん、あなた医者だったの?」とオーナーが驚いたように言う。
「そうです。でも、最初にそう自己紹介すると、みんなそういう目でしか見なくなるから、釣りの話しかしませんでした。ちなみに、彼女は、同じ勤務先の病院の看護師です」
「勤続年数は、あたしの方が長いでーす」マナさんが答えた。
「そう、年下ですが、先輩なんで頭が上がりません」
「先輩がいくら頼んでも、釣りは教えてくれませーん。なんとか言ってやってください」
「いや、渓流とか危ないからさ」
「自分は良くて、あたしがダメっていうのは、納得いきませーん」
マナさんがふてくされた感じの、棒読み気味のイントネーションでやり取りするのが、可笑しくて沙弥は思わず笑ってしまった。
「まあ、確かに最初に医者だって言われてたら、ゲストネームも『ドク』になってただろうねえ」
オーナーがそう言うと
「ほらね!みんなそういう風にしか見なくなるんだから」
フライさんは、してやったり!といったような表情でオーナーに返す。
「さて、まだあと2人、ゲストネームが決まってない人がいるぞ!オーナー、お願いしますよ」
ブンタさんがオーナーを促した。
「って言っても、花ちゃんは、花ちゃんとしか思えないなあ」
範子さんが、花ちゃんの顔をまじまじと見て言った。
「あ、ちなみにその、あたしの本名が鈴木花子だから、範子…ピアノはそう呼んでくれてるんです」
花ちゃんが、そう弁解した。
「鈴木なら、『スー』さんかなあ」オーナーが、そう口を開くと
「それ、俺と一緒!!釣りバカ日誌じゃないんだから、もっと真面目に考えてよ、オーナー」
ブンタさんが、すかさず突っ込んだ。
「えーと、あたし。お2人が、クルマから降りてきたところを見て、なんか宝塚みたいだなあって、思ったんですよね。見た目とかじゃなくて、なんか2人で並んで立った時の雰囲気が、宝塚の男役と娘役みたいだなって」
沙弥が、ゲストハウスに到着した時に、初めて2人を見た時の印象を話した。
「じゃあ、タカラジェンヌから『ジェンヌ』でどうだろう?」と、フライさん。
「ちょっと長いけど、ピッタリだから、まあいいか。それじゃ、『スー』さんは無しで。『ジェンヌ』さんでいきましょう」
範子さんはツボに入ったのか、大笑いをしていた。花ちゃんこと、ジェンヌさんは何だか照れくさそうにしている。
「さて、最後はあなたです!」
オーナーが、沙弥の方を見て言った。
「バイクで来たから『ライダー』じゃ、ちょっと平凡だよね」
「いやいや、別に平凡な名前でいいでーす!」沙弥は慌てて返す。
「そう言えば、予約いただいた時に、北海道は2度目とフォームに書かれていましたが?」
「ああ、3年前に1度、上陸だけしたんです。その時は、一緒に来た友達のお祖母ちゃんが急死しちゃって、苫小牧についた日の夜に、またフェリーに乗ってそのまま、東京に戻りました。北海道にいたのは、半日だけ。苫小牧港から出ないで終わりました」
「そりゃ、災難だったね。じゃ、今回はそのリベンジなんだ」
ブンタさんが気の毒そうな表情でそう言ってくれた。
「でもまあ、『リベンジ』さんだと、なんかちょっと怖いな。そうだ、『ハーフ』さんはどうだろう?half a day、つまり半日のハーフね。そのまま『半日』でもいいかと思ったんだけど、同じ発音で別の意味の言葉もあるから、『ハーフ』さんでどう?」
「いいと思いまーす!」
範子さんと、花ちゃんが真っ先に賛成をして、他の面々もその後に続いた。
「それでは、『ハーフ』さんということで、よろしくお願いします」
オーナーから握手を求められたので、沙弥もそれに応じた。
「皆さん、次回からうちで宿泊を予約する時は、そのゲストネームでお願いしますね。『菅原です』って言ったら、『は?どなたですか?』って返しますから」
こうやって、沙弥たちのこのゲストハウスでの、名前が決まった。




