鋼の愛馬に跨って4「南帰行」
帯広は暑かった。
バイクに乗る際は、ヘルメット、グローブ、ブーツに加え、長袖・長ズボンが正式な服装だ。転倒や事故に遭った際、身体へのダメージを最小限に抑えるためには、これらは絶対に守らなくてはならない。
それはつまり、真夏でも長袖を着なくてはならないということだった。実際、紫外線や走行時の風圧の影響を考慮すると、肌の露出面積が少ない方が疲労が少ないというデータも出ている。今は真夏でも快適に走行できるようなライディングジャケットが各メーカーから多数、販売されている。
沙弥が愛用しているのは、パンチングメッシュ加工を施した、ディアスキン(鹿革)製のライダース・ジャケットだった。ラムスキン(羊革)並みの軽さとしなやかさに、レザー(牛革)並みの強度を兼ね備えているという、高級品だ。正直、買うのには勇気を要する値段だったが、自分の身を守る物の出費をケチっても仕方ないと開き直って、購入に踏み切った。
パンチングメッシュ加工のせいで、革に細かい穴が開いているので、見た目ほどは暑くない。むしろ、長時間ノンストップで走っていると、ちょっと肌寒さを感じるくらいだった。
ただ、帯広はそんなパンチングメッシュ加工のライダース・ジャケットを、思わず脱いでしまいたくなるほどの暑さだった。そういえば、帯広は広大な構造盆地だと、宿泊したゲストハウスのオーナーも言っていた。なるほど、夏場に甲府盆地を走った時と似たような印象を受けるわけだ。
とうとう、沙弥の北海道ツーリングも最終日を迎えていた。今夜、苫小牧港を出港するフェリーで東京に戻る。昨日の網走から帯広までの走行距離は、約175km。3時間ほどの行程だった。最終日である今日の走行距離が約300kmになるので、昨日は意図的に距離を抑えた。4日目ということで、疲労も溜まっていたので、ちょうど良い走行距離だったと思う。2日連続でのロングライディングは、避けるように計画しておいて正解だった。
おかげで、帯広名物の豚丼も食べることができた。昼食は毎日セイコーマートで済ませていると言ったら、花ちゃんから
「いやいや、せっかく北海道に来たんだから、1食くらいは土地のものを食べて帰ろうよ!」
と、説得された。そして、沙弥のツーリングコースを確認したうえで、帯広名物の豚丼のお店を検索して探し出してくれたのだ。
さらに範子さんからは、森高牧場のソフトクリームもお勧めされたのだが、場所が厚岸でその後、帯広に向かうにはかなりの遠回りになってしまうため、そちらは断念した。
「あたしは食べたことないんだけど、音大時代の友達が食べたことあって、すごく美味しかったって言ってたから」
花ちゃんも、範子さんもとても優しくて、あたたかい感じの人たちだった。出発する前に2人と連絡先の交換ができた。無事に東京に着いたら、必ず連絡して欲しいとのことだったので、家に着いたら真っ先に連絡するつもりだ。
※
あの夜。それぞれのゲストネームが決まったあと、花ちゃん、範子さんの差し入れてくれたワインを飲みながら、沙弥たち3人は会話に花を咲かせていた。
酔いが回っていたせいもあるし、2人の気の置けない雰囲気のせいもあったかもしれない。気が付けば、沙弥は自分のとても個人的なことを話していた。
「3年前。わたしは身近な人を2人、亡くしたんです。1人は一緒に北海道まで来た友達。交通事故でした。もう1人は当時、付き合っていた彼氏。こちらは自殺でした」
2人の顔がきゅっと引き締まるのが、沙弥にも分かった。酔って赤の他人に話すことではないかもしれない。でも、赤の他人だからこそ話せることもある。
「それって、あたしたちに話しちゃっても大丈夫?沙弥ちゃん、辛くない?」
この時、既に2人には本名を伝えていたので、範子さんは本名で呼んでくれた。
「大丈夫です。すみません、こんな話。いきなりされても困りますよね」
「いいよ。沙弥さんさえ、大丈夫なら話して」
花ちゃん…花子さんが優しくそう促してくれたので、沙弥は続きを話すことにした。
「交通事故は仕方ないと思ったんです。運が悪かったとしか言いようがない。悲しいけど、あたしには防ぎ切れないことでした。でも、彼氏の方は違った。仕事で悩んでたみたいなんですけど、あたしには何も言ってくれなかった。頭が良くて、プライドの高い人だったんで、悩んでることを知られたくなかったのかもしれません」
そこで、沙弥は一息ついた。
「彼女って言っても、家族じゃない以上、赤の他人なんですよね。彼の家族からは結局、葬儀の日程も、場所も教えてもらえませんでした。遺書があったのかどうかも分かりませんし、理由だって本当のことはわかりませんでした」
泣いてはいなかったが、沙弥の声が震えていたせいだろう。範子さんが、やさしく背中をさすってくれた。
「でも、それでなんだか吹っ切れちゃったんですよね。人間、いつ死んじゃうかわからない。だったら、やりたいようにやろう。生きたいように生きよう。そう思いました。それでまず2カ月間、仕事を休職して、大型自動二輪の免許を取りに行きました」
「お、いいね。その行動力、あたし好きよ」
花子さんはそう言ってくれた。
「彼氏は、あたしがバイクに乗ること、あんまり快く思ってなかったんですよね。北海道ツーリングも、いったんは止められたし。だから遠慮してたんですけど、亡くなっちゃったし、もういいや!って」
どうにか大型自動二輪免許を取得したこと、今の愛車のスーパーフォア1300に乗り換えたことなどを、沙弥はそのあと2人に話した。花子さんと範子さんは、丁寧に沙弥の気持ちに寄り添って話を聞いてくれた。
話し終えたあとに、花子さんがそっと顔を近づけてきた。
「じゃ、あたしも、すごく個人的なことを話しちゃうね。沙弥さん、ちゃんと受け止めてね」
そう言ったあと、花子さんは範子さんの顔を見て、範子さんが頷くのを確認してから、話し始めた。
「あたしたちね、友達じゃないの。カップルなんだよ」
そこまで言うと、花子さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「だから、あの場でカップルじゃなかったのは、沙弥さんだけだったってこと。ごめんねえ、黙ってて」
「ゲストネームを決める時ね。沙弥さんがあたしたちのことを、宝塚の男役と娘役みたいって言って、正直ちょっとドキッとしたんだよね。鋭いなあって。今やっと、気が楽になったな」
続いて範子さんが、そう打ち明けてくれた。
「なんだ、そうでしたか」
沙弥はそこでひと呼吸おいて、こう続けた。
「最初に見た時から、お似合いの2人だと思ってました」
※
襟裳岬へ着くまでの道のりと、そこから苫小牧まで行くまでの道のりは、今回の沙弥の北海道ツーリングの中で、最も過酷な行程となった。途中、雨らしい雨にも降られず、順調に走行してきたのだが、最後の最後になってレインウェアのお世話になることになった。
絶え間なく海から吹き付ける強風。そこに降り注ぐ海水混じりの雨。ヘルメットのシールドを、何度も拭わないと視界を確保できないほどのタフなコンディションだった。さらに海から吹き付ける強風のせいだろう。夏とは思えないほど、肌寒かった。雨に降られなかったとしても、パンチングメッシュ加工のライダース・ジャケットだけでは、寒さに耐えられなかったかもしれない。その上にレインウェアを着ていて、丁度いいくらいの気温だった。
道中がそんな調子だったので、襟裳岬に着いた時の感想も、単にホッとしたとしか思えなかった。岬の突端から、日本で唯一定住しているアザラシが見られるとのことだったが、正直、そんな余裕はなかった。トイレを済ませると、休憩もそこそこに沙弥はまたスーパーフォアに跨って、最終目的地の苫小牧港を目指した。
※
苫小牧発・大洗行きフェリーの出航時刻は18時45分。日没までには、まだ30分ほどの時間があった。甲板のデッキで汐風に吹かれながら、沙弥は遠ざかっていく苫小牧の街の灯を見つめていた。
3年前。片山由紀と一緒に行くはずだった宗谷岬に、やっと行くことができた。旅の途中、由紀の魂はずっと一緒だったと沙弥は信じている。
「由紀、あたしコンビニの前で1人でお弁当食べられるようになったよ。人前でも平気で缶ビールも飲めるようになった。3年かかったけどね。だからもう、大丈夫。由紀の分までバイクに乗り続けるよ」
そう呟きながら、沙弥は遠ざかっていく北の大地・北海道に別れを告げた。
※
午後2時の大洗港のフェリーターミナルは、気温35度を超える猛暑だった。北海道とは異なり、べっとりとまとわりつくような湿度の高い空気が、沙弥の身体を包む。フェリーのランプウェイを通って大洗港のフェリーターミナルに降りると、そのまま北関東道の水戸大洗インターチェンジを目指した。
日差しは容赦なく沙弥のライダース・ジャケットを照らしつける。いっそライダース・ジャケットを脱ぎ捨てて、Tシャツで走りたい気持ちを抑えつけながら、北関東道から常磐自動車道へつながる友部ジャンクションまで走り抜ける。
夏の昼下がりのあまりの暑さに耐えきれず、沙弥は常磐自動車道の友部サービスエリアでいったん休憩することにした。ダメだ、暑過ぎて集中力が持たない。
花子さんと範子さんは、今ごろ最終目的地のチミケップ湖の湖畔にあるホテルに向かっているところだろうか?2人は翌日、博物館網走監獄などを観光した後、あのゲストハウスにもう1泊してから、最終目的地チミケップ湖畔のホテルに向かうと言っていた。
「あのホテル、よく予約できましたね。なかなか取れないんで、幻のホテルとも言われてるんですよ」
ゲストハウスのオーナーはそう言っていたが、実はブンタさんとその彼女も、前日にそのホテルに泊まったそうだ。
「まあ、尽くせる手は全て尽くしましたから」とブンタさんも言っていたので
「うちら、かなりラッキーだったんだね」と、予約した花子さんも驚いた様子だった。
そう言えば、そのホテルはテレビもインターネットもなく、携帯電話の電波も届きにくい場所にあるとのことだったので、沙弥が「無事に帰宅しました!」LINEを送信しても、すぐには確認できないかもしれないと花子さんが言っていた。
「ネットも携帯もつながらないホテルなんて、なんかヤらしいですね」
出発直前、見送りに来てくれた花子さんと範子さんに、沙弥がそう言ってからかったら
「きゃー、花ちゃん!そんなところで、あたしを一体どうするつもりー!」
とノリのいい範子さんが便乗してきたので
「いやいや、知らなかったんだって!あたしも後で聞いて、焦ったんだから!」
花子さんが半ば本気でアタフタしていたのが、面白かった。
※
友部サービスエリアから、常磐自動車道の上り方面を見渡す。さっきまでの肌に突き刺さるような日差しはなりを潜め、今は速い動きの雲が空を覆い尽くそうとしていた。東京方面の空は、立ち込めた黒い雲で真っ暗だ。その真っ暗な雲の中で時折、稲光が光っているのがここからでもわかる。
念のためスマホで雨雲レーダーを確認してみた。沙弥の家のある東京都西部は、真っ赤になっていた。東京都多摩地区にはレベル3の警報も出ている。さて、このままあの中に突っ込んで行くべきか、それともどこかで時間を潰して、雨雲が去るのを待つべきか。
どうも関東の西の方で、線状降水帯が次々と発生しているようだ。この様子だと、暗くなってからだとさらに危険が増す気がする。どうせずぶ濡れになるのなら、明るいうちに帰宅できるようにした方が良さそうだ。
「あーあ。旅の最後の最後で、こんなことが待ってるなんてね」
沙弥は覚悟を決めて、ライダース・ジャケットの上にレインウェアを着込んだ。あの雨は手強そうだ。レインウェアも役に立たないかもしれない。
でも、止まない雨はない。人生、良いことだって、悪いことだって、長くは続かない。これから先もアップダウンは必ずあるだろう。
そんな時、今回の北海道ツーリングが、生涯にわたって心の支えになってくれそうな気が、沙弥にはしていた。
鋼の愛馬に跨って:了
<著者注釈>
今回の作品を執筆するにあたって、モデルとなったゲストハウスはありますが、本作で書かれている内容は全てフィクションです。直接問い合わせる等の行為は、お控えください。




