第五十一話 孤児と、魔犬
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年との出会いを境に魔犬たちは町へ降り、人々との暮らしを紡ぎ始める。
そして、モルガナの弟子となった第三王女エレアノーリエを、領主として迎えたベイスの町は、人と魔犬が共に笑い合う魔法都市へと変貌していった――。
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ベイスの町に、数年に一度の大きなざわめきが訪れた。
それは、人と魔犬が共に学び舎に通うことで知られる魔法学府『ベイス=アルカ魔法学校』による、特別な選抜の知らせだった。
当時、魔法学校では「3年に1回、領内から100名のみを受け入れる」という受け入れ体制を取っていた。在学中の衣食住と、学費は保証される代わりに、卒業後は冒険者として北の山脈に挑むか、領内の官職に就くことを条件としていた。
魔法適正と、卒業後の意思を重視するこの枠において、冒険者ギルドでの定期的な実地検査を受けたアグトゥルは、その中に見事に組み込まれることになった。
「おおい、聞いたぞアグトゥル! お前、あの魔法学校の入学枠に選ばれたらしいな!」
「すげぇじゃねぇか! 戻ってきて一緒に冒険者やろうな!」
互助会の食堂で突然告げられたその知らせに、周囲の冒険者たちは自分のことのように酒を掲げて大騒ぎした。かつて両親の背中を追いかけていた少年は、周囲の荒くれ者たちの期待を一身に背負い、真新しい制服に袖を通して、広大な学び舎の門をくぐる事になったのである。
しかし、いざ入学してみると、そこはアグトゥルにとって想像を絶する過酷な世界だった。
周囲の生徒たちはみな、努力を重ね、膨大な呪文の詠唱や高度な魔力回路の構築を必死に自分のものにしていた。誰もが血の滲むような鍛錬の果てに、3年での卒業を目指して日夜机にかじりついていたのである。
実技の演習や、身体強化を伴う直感的な模擬戦であれば、アグトゥルは野性の勘と恵まれた体格で周囲をあっと言わせるほどの成績を残した。しかし、ひとたび教室に入り、机に向かう座学の時間が始まると、彼の輝きは一瞬で霧散することになった。
「ええっと……この魔力流出の公式は、三番目の係数を……ううっ、頭が痛くなってきた……!」
広々とした講義室の一番後ろの席。窓の外をぼんやりと眺めながら、アグトゥルは目の前にあるぶ厚い教科書と格闘していた。しかし、文字や数式をいくら眺めても、脳内で意味のある情報として定着しない。
周囲の生徒たちが真剣なまなざしでペンを走らせ、流麗な文字で魔法陣をノートに描き取っている中、アグトゥルの周囲だけには、まるで別の時間が流れているかのように静まり返っていた。いや、正確には、あまりの難解さに彼の思考回路がショートして手が止まっていたのだ。
通常、この魔法学校は3年間で基礎から応用までを修め、卒業していく。しかし、アグトゥルの場合、実技の点数はトップクラスであるにもかかわらず、筆記試験の点数が常に壊滅的だった。単位の取得に必要なペーパーテストの数々は、彼にとって巨大な魔物よりも遥かに倒しにくい難敵だった。
「アグトゥル君、またこの問題が白紙だよ。君ねぇ、いくら実技で満点を取ろうとも、このままでは卒業どころか、二度目の留年が決まってしまうよ?」
担当の教官が、呆れと諦めが入り混じった顔で彼の机をコンコンと叩く。
その言葉通り、アグトゥルは周囲の仲間たちが次々と3年で巣立っていくのを横目に、気づけば4年目、そしてついに5年目へと突入しようとしていた。
「くそっ……! 体を動かす訓練ならいくらでも出来るのに、この文字の羅列はどうしてこうも頭に入ってこねぇんだ……!」
放課後の静まり返った自習室で、アグトゥルは一人、机に突っ伏して頭を抱えていた。周りの同級生たちはとうに卒業し、今や彼は級下の生徒たちに混じって講義を受ける身となっていた。焦りがないと言えば嘘になるが、それ以上に、どうあがいても机上の勉強が得意になれない自分に、深い無力感を覚え始めていた時期だった。
そんな、アグトゥルが人生最大の壁にぶつかって途方に暮れていたある日の夕方。いつものように補習室の隅で撃沈していた彼の前に、一匹の魔犬がノシノシと歩み寄ってきた。
その魔犬は、巨体にスモークグレーの毛並みを輝かせ、知的で凛とした気品を漂わせている。当時は生徒たちの学習補助や、行き詰まった者のメンタルケアを担当する補佐役として学校に常駐していた。
魔犬は、アグトゥルの前に置かれた真っ白な解答用紙と、ぐしゃぐしゃに丸められたノートの山をひとめぐり見据えた。そして、呆れたように小さく「ふぅ……」と長い息を吐き出した。
「やれやれ、また君かい。何度見ても、見事なまでに真っ白な答案用紙だ。体を動かすときの鋭い閃きはどこへ行ったんだ?」
「うっ……! 別にサボってるわけじゃないんだ。ただ、この文字を見ると、どうも頭の中が真っ白になっちまって……」
アグトゥルがバツが悪そうに頭を掻きながらそう答えると、スズは鼻をクンと鳴らして彼の隣にぴたりと座り込んだ。
「わかっている。君の頑張りはこの四年間、良く見てきた。……私も腹を括ろう。君が理解できるまで何度でも、何回でも教えてやる」
魔犬の瞳には、見捨てられないという温かな光が宿っていた。それからというもの、魔犬の厳しい「特訓」が始まることになった。
魔犬は宣言通り何度でも、何回でも、魔法の理論を教えた聞かせた。アグトゥルがペンを投げ出そうとすれば微弱な雷魔法を起こして諌め、自習室からの脱走を試みれば巨体を用いて押し留めた。
魔犬の甲斐甲斐しくもスパルタな指導により、アグトゥルは少しずつ、本当に少しずつではあるが、文字の羅列の裏にある魔法の本質を理解し始めた。
どれだけ失敗しても、スズは決して見捨てず、根気強く彼の隣に座り続けた。アグトゥルもまた、そんなスズの期待に応えようと、泥臭く、誰よりも熱心にペンを握りしめた。
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そして、アグトゥルの入学から実に五年の歳月が流れた春の日。
ベイス=アルカ魔法学校の大講堂において、卒業式が執り行われていた。
「おい見たか、あの五年も在籍したアグトゥルが、ついに卒業するぞ!」
「筆記の追試を何回受けたことか……でも、実技は凄まじかったからな! 騎士団から直々に誘いを受けて入団すると言うし、これからが楽しみだ!」
周囲の少しばかりの冷かしと称賛の中、アグトゥルは誇らしげな、しかしどこかホッとした顔つきで卒業証書をしっかりと握りしめていた。その隣には、同じく卒業式に出席することを許されたスモークグレーの魔犬が、まるで自分のことのように凛とした佇まいで誇らしげに尻尾を揺らしていた。
式典のあと、中庭の木陰で、アグトゥルは魔犬の前にしゃがみ込み、その柔らかい頭をそっと撫でた。
「本当にありがとな。お前がいなかったら、俺は今頃まだあの自習室の机にしがみついて泣いてたぜ」
「ふん、否定はしないな。……しかし、本当に卒業できてよかった。おめでとう、アグトゥル。よく頑張った」
魔犬は珍しくアグトゥルを手放しで褒め、満足げに口許を緩ませた。
アグトゥルは、魔犬のその様子に驚いた後、表情を真剣なものに変えた。
「あのさ……お前が良かったらなんだけどさ、俺と一緒に騎士団に来てくれないか? お前が居てくれたら安心だし、なにより、ここでお別れになるのは寂しい……」
今度は魔犬が驚く番だった。いつもは鋭いその眼光を真ん丸にして、アグトゥルを見つめる。五年間、ひたむきに励んできた少年。その友になるということ。魔犬にとって、生き方を定める決定になる。
魔犬は唸りながら暫く悩んだ。答えはとうに決まっていたが、この少年に着いていくというのは前途多難であるとわかりきっていた。その苦労役を買ってでるのがどうにも飲み込めなかった。
しかし、アグトゥルの覗き込むような顔を見て、魔犬はフッと表情を緩めてしまった。
「……良いだろう。アグトゥル、お前の友になってやる。友になるには名前が必要だ、何か考えてみろ」
「本当か!? ……しかし、名前か。……うぅーん、……あ! 『スズ』はどうだ? 銀の毛並みに合っているし、このお守りも錫で出来てるらしいんだ!」
アグトゥルはそういうと、肌身離さず持っていた、両親の形見――銀色のお守りを取り出した。その輝きは、いつでも柔らかく、少年の未来を照らしていた。
魔犬は眩しそうにそのお守りを見つめると、一つ、大きく頷いた。
「わかった。俺の名前は『スズ』だ。これから友としてお前の隣にいよう」
「あぁ! スズ! よろしくな!」
アグトゥルはニカッと笑うと、長らく面倒をかけた教師陣への挨拶と、スズの報告のために駆け出していった。
スズは「先が思いやられるな……」と一人ごちながらも、ノシノシとその後を着いていく。
一人と一匹の間には、魂の回廊が築かれ始めており、その輝きはいつしかベイスの町を、北に聳える山脈を照らしていくのだった。
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