第五十話 孤児と、冒険者ギルド
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年との出会いを境に魔犬たちは町へ降り、人々との暮らしを紡ぎ始める。
そして、モルガナの弟子となった第三王女エレアノーリエを、領主として迎えたベイスの町は、人と魔犬が共に笑い合う魔法都市へと変貌していった――。
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人と魔犬が共に生きる活気あふれる町、ベイス。その周辺に広がる危険な街道や、未踏破のダンジョンを股にかけて活躍する一組の冒険者夫婦がいた。
夫は豪快で笑い声の大きな、大剣を軽々と振るう剣士。妻は冷静沈着で、確かな腕を持つ優秀な斥候。彼らの間には、親譲りの頑丈な肉体と、底抜けに明るく前向きな性格を受け継いだ一人の息子がいた。
名をアグトゥルという。
古い言葉を並べた響きに両親が込めたのは、荒ぶるほどの圧倒的な生命力で困難を切り拓き、険しい人生の山脈においても決して折れることのない確かな背骨となって生き抜いてほしいという、我が子への切なる願いだった。
当時、四歳だったアグトゥルにとって、世界は両親の大きな背中と、あたたかな笑顔そのものだった。
「アグトゥル、お留守番をしていれば、すぐに美味しいお土産を買って帰ってくるからな! パパとの約束だぞ」
「うん! パパ、ママ。いってらっしゃい! きをつけてね!」
いつものように元気に送り出したはずの朝。だが、その日の夕暮れ、町に帰ってきたのは両親ではなく、血相を変えた冒険者ギルドの職員たちと、二人が愛用していたボロボロの装備品だった。
北方の難所における魔物との予期せぬ遭遇戦。その過酷な戦いの不慮の事故により、両親は帰らぬ人となった。
幼いアグトゥルにとって、その死を本当の意味で理解することはまだ難しかった。ただ、二度とあの大きな手で頭を撫でてもらえないこと、どれだけ玄関を見つめて待っても「ただいま」の声を聴けないことだけは、痛いほどにわかってしまった。
幼い彼の小さな世界は、一瞬にして音を立てて崩れ去ったかのように思えた。しかし、孤独となったアグトゥルを包み込んだのは、冷たい絶望ではなく、冒険者ギルドの熱い喧騒と、不器用ながらも確かな温もりだった。
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冒険者という職業は常に死と隣り合わせである。明日の命すら保証されない過酷な生き方を選ぶ者が集まるからこそ、冒険者ギルドには、任務中に命を落とした者たちの遺児を支えるための「互助会」という独自の制度が根付いていた。
両親を失ったアグトゥルは、この互助会の施設へと身を寄せることになった。
当時、同じように危険な依頼や魔物の襲撃によって親を失った子どもたちは、施設の中に他にも何人かいた。過酷な現実を突きつけられながらも、施設が決して殺風景で冷たい収容所のような場所にならなかったのは、他ならぬ冒険者たちの存在ゆえだった。
そこは、荒くれ者たちが我が子のように、あるいは自分のことのように子どもたちの面倒を見る、どこか泥臭くて温かい空気に満ちていた。
「おおい、アグトゥル! 飯を残すんじゃねぇ、男なら皿の上のものは一つ残らず平らげて、もっとでかくなれ!」
「ガキども、喧嘩するんじゃねぇ! そんなもんしてるぐらいなら剣の素振りでもしてやがれ!」
屈強な冒険者たちは、言葉遣いも荒く、態度は文字通りガサツのひと言だったが、その胸の奥底には確かな愛情があった。
酒場の片隅で安い酒を煽りながら自らの武勇伝を嬉しそうに語って聞かせる者、暇を見つけては硬い木を削り、子供たち専用の手製の木刀を何本もこしらえて持たせてくれるベテランの剣士、傷だらけの大きな手で頭をグシャグシャと乱暴に、しかし優しく撫でていく先輩たち。
アグトゥルは、そんな大人たちの背中を追いかけるようにして、日を追うごとにのびのびと、そしてたくましく育っていった。
悲しみにいつまでも沈み込んでいる暇などないほど、周囲の大人たちからの無骨な愛情をたっぷりと浴びて育った彼は、いつしかまっすぐで力強い少年になっていた。
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ギルドの活気ある酒場や、外に設けられた砂塵の舞う訓練場で、屈強な大人たちにもみくちゃにされながら育ったアグトゥルは、驚異的なスピードでその身体能力を開花させていった。
同年代の子どもたちに比べて体格は一回り大きく、木刀を持たせれば、大人の見習いたちをも凌駕するほどの豪快で鋭い振る舞いを見せた。危なっかしいほどの野性的な直感力と、どんな困難な壁に直面しても一歩も怯まない抜群の胆力は、まさに亡き両親から受け継いだ次世代の戦士そのものの素質だった。
「今日もいい汗かいたぜ! やっぱり体を動かすのが一番だな!」
夕暮れの訓練場で、額の汗をゴシゴシと拭いながら満足げに笑うアグトゥル。その見事な成長ぶりは、彼を我が子のように見守り続けてきたギルドの大人たちをも心から驚かせ、この調子でいけば将来は間違いなく一流の冒険者になるだろうと、誰もが太鼓判を押していた。
しかし、そんな彼の健やかな成長の裏で、一つだけ周囲の大人たちの頭を深く悩ませる重大な問題があった。
――それこそが、お勉強の時間である。
互助会の一角で行われる、文字の読み書きや、歴史や地理を学ぶための座学が始まると、アグトゥルはまるで毒を食らったかのように静まり返り、顔色を失ってしまう。
「ええっと……この教科書の文字は、なんだっけ……アオラ? アウリ? ……」
ノートの前に座らされた瞬間から、彼の頭の中は真っ白になってしまう。じっと椅子に座って静かに文字を追うこと自体が、彼にとっては苦痛で仕方がなかった。
数分も経てば、背中がむずむずと動き出し、そわそわと落ち着きがなくなっていく。そして、教師の目を盗んでは、窓の外を飛んでいる小鳥や、訓練場を駆ける冒険者の姿を追いかけて、ついには席を立っていなくなってしまうのだ。
「おいアグトゥル! また勝手に授業を抜け出したな! 冒険者になれば、ただ力任せに暴れるだけじゃなくて、依頼書を理解したり、地理を読み取ることも同じくらい大事なんだぞ!」
「そんな難しい文字なんてわざわざ見なくても、気合と体当たりでぶつかればなんとかなるって!」
「そういう問題じゃねぇんだよ! ちゃんと座って聞きやがれ!」
笑ってごまかそうとするアグトゥルに、教師役を買って出たギルドの職員はいつも頭を抱え、大きなため息をついていた。体を使うことや直感的な戦闘のセンスにかけては天才的な閃きを見せるが、机に向かう勉強となると絶望的に頭に入らない。
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夜が深く更け、ベイスの町全体が穏やかな静寂に包まれる頃。
互助会の子供部屋のベッドに潜り込んだアグトゥルは、両親が生前身につけており、形見として受け継いだ小さな銀色のペンダントを、手のひらの中でそっと強く握りしめていた。
「パパ、ママ……俺、今日も訓練場でいっぱい剣を振ってきたんだ。いつか、もっともっと強くなって、二人みたいに誰かを守れる男になってみせるからさ。だから、空の上から見ててくれよな」
誰に強制されるでもなく、誰に教わるでもなく、幼い胸のなかでそう熱く誓う。
ガサツで、お勉強の時間はいつも逃げ出して、周囲の大人たちをハラハラさせてばかりの少年だったが、そのまっすぐな瞳には、亡き両親譲りの強い光がしっかりと宿っていた。
多くの冒険者たちの温かな愛情に包まれ、その背中を追いかけながら、アグトゥルはたくましく日々を駆け抜けていく。
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