第三話 約束の足跡と、境界の雪解け
春の柔らかな光が差し込む山の館で、蜂蜜色の若犬――ブランは、毎日同じことを繰り返していた。
館の最上階、高くに穿たれた窓枠へと飛び乗り、麓の街へと続く山道をじっと見つめ続けるのだ。そして、決まって同じ話を仲間に繰り返す。
「――ノランがね、ぼくを追いかけて、魔法をいっぱい勉強して、この山の上まで来るって約束してくれたんだ!」
「何度も聞いたけど、本当に人間の子供がこの山を登ってくるのか?」
「僕たちを怖がらないなんて、変わった人間だよなぁ」
口々に呆れや好奇心の声を上げる魔犬たちの中心で、この山の主であり、彼らの良き隣人でもある魔女は、いつも通り大きな黒檀の机に向かって古い魔導書を開いていた。
その姿は人間の基準で言えば十歳ほどの少女にしか見えないが、瞳の奥には何百年という歳月を見つめてきた深い智慧の輝きが宿っている。
ブランの言葉を聞きながら、魔女の指先はページをめくるのを止めていた。
ノラン。ブランに名前をくれたという、その少年の無邪気な「約束」が、彼女の胸の奥に小さな、けれど無視できない波紋を広げていた。
人間の子供の言葉など、季節が巡れば忘れてしまう一時的な感傷に過ぎない。大抵はそうなのだ。それに、この山は生半可な人間が登れるほど甘くはない。険しく鋭い岩肌、並みの人間では太刀打ちできない野生の動物、魔獣、そして何より――かつて封じたあの「地下迷宮」の忌まわしい残滓が、今なお地脈の底で不気味に燻っている。
「境界線を越えてはならない。それは人間にとっても、私たちにとっても同じことよ」
魔女は小さな唇から、鈴を転がすような声で静かに呟いた。
魔犬たちと自身の静かで心地よい楽園を維持するためには、人間社会との交流などいらない。魔女はそう自分に言い聞かせ、ブランの言葉を「子供の夢物語」として、意識の底へと追いやることにした。
――だが、人間の持つ「意志」の強さを、彼女は誰よりも知っているはずだった。
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それは、ブランが山へ帰った直後の、ある嵐の夜のことだった。
「お前、本気で言っているのか……!」
暖炉の火が爆ぜる居間で、父親が信じられないものを見るような目でノランを見据え、その肩を強く掴んで揺さぶった。母親は部屋の隅で、嵐を静めるために、神への祈りの言葉をぶつぶつと唱えながら、ガタガタと身を震わせている。
「僕、防衛隊に志願しようと思うんだ。明日、詰所に行ってくる」
「正気か! あの犬を飼っている、山に潜む不気味な魔女の呪いがいつ降るかも分からないんだぞ! 迷宮の魔獣どもがいつ街の結界を破るかも分からないんだ! なぜ自らその牙の前に飛び込もうとする!」
「……僕のせいだから」
ノランは怯える両親を安心させるように、穏やかな、けれど芯のある声で静かに返した。
「僕がブランをーー山の生き物を家に連れてきたから、父さんも母さんも、毎日こんなに怖がって眠れなくなっちゃったんだ。だから、僕が防衛隊に入って誰よりも強くなる。僕がこの家の、街の盾になれば、もう誰も何も怖がらなくてよくなるでしょう? 二人に、昔みたいな静かな生活を送って欲しいんだ。」
狂信的なまでに魔獣を恐れる両親。その恐怖を植え付けた原因が自分にあると、幼いながらに責任を背負い込んだ少年の、それは悲痛なまでの決意だった。
「だが、いやそれは。…第一、お前はまだ成人もしていないんだぞ、それにーー」
「お願いだよ、父さん」
まだ幼い、15才の成人も済ませていない子供に、危険を冒して欲しくないと言い募る父親の言葉を遮った、息子のあまりに真っ直ぐな瞳の前に、両親はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
こうして異例の幼さで防衛隊の門を叩いたノランを、大人たちは大いに歓迎し、そして深く同情した。
街の防衛隊の詰所には、いつしか彼のひたむきさを讃える賑やかな声が響くようになっていた。
「よし、そこまで! ノラン、今の受け流しは悪くなかったぞ!」
防衛隊の開けた訓練場に、隊長の太い声が響き渡った。
地面にへたり込んだ少年ノランの手には、打ち込みすぎて先が割れてしまった木刀が握られている。息を切らすノランの元へ、代わる代わる稽古をつけていた先輩たちが歩み寄り、その小さな背中を次々に叩いた。
「大の大人が三人がかりでやっと音をあげるなんて、大した根性だ」
「本当だよ。ノランの両親は、その…繊細だからな……。早く一人前になるって、この若さで防衛隊に志願するだけでも驚きなのに、こんだけ泥くさい稽古に食らいついてくるんだ。可愛がりたくもなるさ」
「あはは……ありがとうございます。でも僕、まだまだです。先輩たちみたいな身こなしかができないと」
「焦るな。お前は十分に筋がいい。ほら、次は体の軸の動かし方だ。腰の捻りを意識しろ」
「はい!お願いします!」
大人たちは、彼の家庭の複雑な事情にそっと心を痛めつつも、ひたむきに木刀を振るう彼の姿に深い愛おしさを覚え、まるで我が子や年の離れた弟を育てるように、剣術や身のこなしかたのすべてを親身になって叩き込んだ。
また、もっとも警戒するべき場所として、あの冬、ブランが命がけて降りてきた山についての知識も叩き込んだ。そこでノランは始めて、いかに過酷な道をブランが降りてきたのか、そこに至るまでどれだけの期待を膨らませていたのかに、想像を巡らすことができるようになった。
防衛隊の大人たちが親身であるのは、街の境界線を歩く巡回の最中も同じだった。
教会によって、数ヶ月に一度だけ整備される精霊魔法の結界。その淡く輝く境界線の杭を一つずつ確かめながら、ノランは隊長たちの後ろを歩く。
「この結界で町の安全が守られている。魔獣どもはいつも結界の綻びを狙ってくる。ノラン、異変を見逃すなよ」
「はい!」
ノランは隊長たちの教えを真剣に聞きながら、同時に、誰も気づかないほど冷静な目で、結界が放つ精霊魔法の光の揺らぎを観察していた。
そして夜になれば、自室の床にボロボロの木片をいくつもを広げ、昼間に叩き込まれた身のこなしの理屈と、結界の構造を夢中で書き留める。彼の手のひらは、昼間の素振りのマメと、夜間の魔法の暴発による無数の小さな火傷の痕で覆われていた。
彼のすべての原動力は、かつて数ヶ月だけ屋根裏で一緒に過ごした、あの小さな「弟」と交わした約束、そして、その小さな体が起こした奇跡の残像だった。
静かな冬の夜、暖炉の前に丸まる蜂蜜色の子犬を撫でていた時の記憶が、今も鮮烈に蘇る。
『ねえ、ノラン。山の上のお家ではね、魔女様も、ぼくの父さんや母さんも、みんな頭の中で魔法を編むんだよ』
『頭の中で? どんな風に?』
『ええとね……まず、心の中に小さな火花をパチパチってイメージするの。それをね、魔力にのせて、ぎゅって繋ぎ合わせるんだって。言葉とか、模様とかをカチカチって組み立てる感じ! ほら、こんな風に……!』
小さな子犬だったブランが、一生懸命に四肢を踏ん張り、鼻先にぐっと力を込めた。
その瞬間、毛量豊かな尻尾が膨れ上がり、ブランの蜂蜜色の短い毛並みが、パチパチと小さな火花のような光を帯びたのだ。それはまだ完全な魔法ではない。けれど、大魔女のもとで育まれた魔犬としての血が、無意識に術式を組み上げようとした発動しかけの、魔力の幾何学模様だった。
光はすぐに霧散してしまったが、ノランの瞳には、鮮烈に焼き付いたまま離れなかった。
『……すごいよ、ブラン。今、魔法が出来上がっていくのが、ほんの少しだけ見えた気がする』
『うん! ぼくはまだ発動しかけまでしかできないけど、魔女様の魔法はとっても綺麗で、すっごく強いんだ!』
ブランが一生懸命見せてくれた、あの発動しかけの魔法。
そして防衛隊の巡回中、ノランは実際に、結界の隙間から現れた「火魔法を使う魔獣」と最前線で対峙した。普通の人間なら恐怖に縮み上がるその火と、ブランの見せてくれた光の輪郭。それらがノランの頭の中で、一本の線として繋がった。
(ブランが見せてくれた、あの魔法。そして魔獣が火を放つ瞬間の、何かが揺らぐ気配。繋ぎ合わせれば、僕にも――)
ブランに会いに行くために、あの地獄の山を登る力がほしい。弟との約束を破る男になりたくない。
ノランは、ブランとの別れを強いられた後、小さな子犬の心を、人間の勝手な恐れから傷つけたことを深く悔やんでいた。そして、防衛隊に入って、山の厳しさを知ってからさらにその思いは強くなった。
過酷な道を登り、ブランへ会いに行く。その約束を果たすことが、ひとつ贖罪になると考えていた。
必死に、ノランはブランの言葉と、魔獣が起こす物理現象を脳内で徹底的に自分の言葉にした。木片には、魔獣の炎を紐解くための無数のイメージと、仮説が狂気的なほど書き殴られている。
そして、魔法を習得する機会に恵まれるはずのない、辺境の少年が、炎を操る魔道魔法を、独学で生み出してしまったのである。
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そして、頑固な冬の氷が完全に緩み、山の緑が瑞々しく芽吹いたある春の朝。
山の地脈が、嫌な音を立てて激しく震えた。
「――ッ!?」
魔女は読書を中断し、鋭い視線を山の麓へと向けた。
ただの地震ではない。地中の奥深く、数百年前に封印したはずの「地下迷宮」の門が、無理やり抉じ開けられたような、泥泥とした不快な波動。
直後、館の広間にいたブランが、狂ったように吼え声を上げた。
「ノランだ……! ノランが来てる! でも、変な魔術の匂いがする、怖い匂いだ!」
ブランは魔女の制止の声が届くよりも早く、弾かれたように館を飛び出し、山道を猛烈な速度で駆け下りていった。
長をはじめとする大人の魔犬たちも、ブランの危機、そして山を汚す魔物の気配を察知し、鋭い爪で土を蹴って一斉にブランの後に続いた。
魔女は椅子から音もなく下りると、漆黒の長い髪をなびかせ、数百年ぶりに自らの意志で麓へと降下した。胸の奥に去来するのは、十歳の日にすべてを失った故郷の津波の記憶、あるいは愛する養家を守るために影に徹した、あの戦いの日々の記憶。
魔女は、僅かに表情を歪めながら、空中を滑るように移動した。地脈の乱れの中心地――山の麓の森へと急ぐ。
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森の開けた草地は、すでに硝煙と腐食の毒気で満たされていた。地割れから這い出た魔物の群れを前に、満身創痍の少年ノランが木刀を構え、強い意志を瞳に宿して対峙している。
「はぁ、はぁ……! 炎よ(ファイア)!」
ノランの放った魔法に、上空から見下ろしたモルガナは息を呑んだ。
それは、辺鄙な町の少年が至るはずのない、魔道魔法に間違いなかった。誰も教えていないはずの、空間を切り裂く複雑な魔法陣の幾何学。十代前半の少年が独学で至るにはあまりに過酷な、高速の連射が、魔獣の群れを次々と穿つ。防衛隊の大人たちに教わった見事な身のこなしが、その魔法の機動力を支えていた。
だが、下級の炎では決定打に欠け、魔力が底を突きかけた瞬間、金の光が戦場へ飛び込んだ。
「ノラン!!」
「ブラン……! 約束、守ったよ……!」
純白に近い蜂蜜色の若犬へと成長したブランがノランの前に立ちはだかり、強固な蜂蜜色の結界を展開する。
その光景を見つめていたモルガナは、全身の血液が凍りついたかのような凄まじい衝撃に襲われていた。
魔物の群れに囲まれ、満身創痍になりながらも諦めずに前を見据えている少年の横顔、その絶対的な意志、そして響き渡る声。
それは、数百年前に死を遂げたはずの、魔女の最愛の義兄――レイハルトの姿と、寸分の狂いもなく完全に一致していた。
(――レイ、ハルト……お兄様……?)
人間社会と交わってはならないと、数百年にわたって頑なに敷き続けていた大魔女の冷徹な境界線が、その少年の姿を見た瞬間、衝動的に崩壊した。
かつて鉄の家で、孤独に震えていた自分を救い出し、星空の下で心を溶かすように笑ってくれた、あの温かい魂。
「……私の前で、その魂を二度と奪わせない!!」
十歳の姿の大魔女は、怒りのままに両手を広げた。
彼女の背後に展開されたのは、空間そのものが悲鳴を上げるほどの超高密度な魔力を孕んだ、巨大な魔法の紋章。
眩い純白の閃光が、世界を真っ白に染め上げようとしていた――。
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大魔女モルガナの掲げた両手から放たれた極大光弾は、空間そのものを圧殺するほどの衝撃波となり、ひしめき合っていた魔物の群れを、肉片一切残さず一瞬にして消滅させた。
泥泥とした濁った邪気は、精霊の息吹を帯びた純白の力によって完全に浄化され、あとに残ったのは、春の柔らかな日差しが差し込む静かな木漏れ日の草地だけだった。
「は……つ……、あ……」
木刀を構えたまま草地へとへたり込んだノランは、ただ目の前で起きた理外の光景に息を呑んでいた。
視線を上空へと向ければ、そこには漆黒の長い髪を風にたなびかせ、十歳の少女の姿をした大魔女が、神聖な威容をまとって静かに宙に浮いている。
ブランから何度も聞かされていた「世界で一番強くて、物静かで、深い智慧を持つ魔女」。その圧倒的な力の前に、恐怖よりも先に、純粋な畏怖が彼の胸を満たした。
魔女は音もなく草地へと舞い降りた。彼女の瞳は、目の前の少年の姿を、かつての義兄レイハルトの面影と重ね合わせたまま、微かに揺れていた。
「ノラン……だったね」
鈴を転がすような声が、静まり返った森に響く。魔女は感情を押し殺すように、努めて静かに語りかけた。
「事象を解析し、抗うための論理。十代前半の人間が独学で至るには、あまりに過酷な領域だわ。…君は、その牙を手に入れるために、どれほどの血を滲ませて、そのまでに至ったのかしらね」
その言葉に、ノランは少しだけ目元を緩め、おっとりとした、けれど芯のある声で応えた。
「……ブランと約束したんです。魔法をいっぱい勉強して、魔獣に負けないくらい強くなって、山を登って会いに行くって。僕は、約束を破る男になりたくなかった」
ノランの言葉に呼応するように、金の絹のような毛並みを持つブランが、嬉しそうに彼の胸へと飛び込んだ。ノランは愛おしそうにブランの体を強く抱きしめる。
目の前の少年は、魔女が拒んだ名付けの境界線を、愛という純粋な意志で飛び越えてみせたのだ。かつてレイハルトが、鉄の家の看護塔で魔女の境界線を無くしてくれた時のように。
瞳の奥に、最愛の兄の魂を確信したモルガナの小さな口元が、数百年ぶりに人間に向けて優しく綻んだ。
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この日を境に、頑なだった山と町の境界線は、優しくほどけ始めることとなった。
ノランはブランと共に、晴れて山の館へと招かれる。だが、そこで待っていたのは、過酷な「大魔女の本格的な魔道修行」だった。
「――酷く、遠回りをして。……信じられないほどの執念を感じるわ」
大きな黒檀の机に向かったモルガナは、ノランがこれまで夜な夜な書き殴ってきたボロボロの木片を小さな手で並べながら、静かにそう呟いた。
「魔道魔法は、緻密な論理と多層の幾何学によって、世界そのものを強制的に『再定義』する魔法。君の構築には、正規の教育を受けていないがゆえの無駄な遠回りが多すぎるわ。」
「……けれど、執念が、この歪な幾何学を奇跡的に成立させている。君のその歪みを削ぎ落とし、完璧な理路に書き換える。それが私の最初の授業よ」
それからの日々は、脳の芯が焼け付くような座学の連続だった。
完璧な論理の構築、そして空中に展開される多層の幾何学模様を頭の中で立体的に同時処理しなければならず、ノランは毎晩、知恵熱を出して床に倒れ込んだ。
しかし、しごかれていたのはノランだけではない。相棒であるブランもまた、親、兄弟による凄まじい「魔犬としての特訓」に叩きのめされていた。
「その程度で人間と山を出るというのか!早く立て!」
「グゥ…キュウン…!」
父犬による雷撃の魔法が、ブランの結界を突き抜け、全身を焦がす。すかさず回復魔法を使用するが、さらに兄弟たちからの波状攻撃が襲いかかり、防御を諦め、後ろ足で地面を蹴りあげ、素早い身のこなしで対処する。
反撃の光弾を打とうと尻尾を膨らませたところ、母犬の精霊魔法がそれを妨害し、父犬の追撃を食らってしまった。
「あんたは魔道魔法はちっともなんだから、精霊魔法で粘ることだけ考えなさい!そんなんじゃノランとかいう子供も丸焦げだよ!」
厳しい母犬からの叱咤を受け、さらに友の名前を出され、ブランは奮起する。
元々、母犬のいう通りブランには魔道魔法の才が乏しかった。さらに毛皮も他の兄弟に比べて弱く、精霊魔法だけはいっぱしという不出来な子犬が、人間の友と共に町に出て、魔獣を狩る手伝いをすると言い出したため、親兄弟一丸となって、ブランを鍛え、もしくは諦めさせようとしていた。
「ノランと町を守るんだ!そして、いつか町の人にも僕や魔女様を認めてもらう!!」
ブランの望みとは、隠れることなく友と暮らすこと。友の幸せを叶えることだった。実はブランは、再開を果たしたノランから、ノランの家の現状や防衛隊の仕事のことを聞かされていた。
抱いたのは、ノランの家に与えた影響への懺悔の気持ちと、魔女様ーーモルガナを忌避する町への憤りだった。
ノランは、家については気にするなと笑ってくれたが、ブランにはそうはいかなかった。幼い日の好奇心に負けた愚かさを恥じて、ノランがそうしてくれたように、ブランも友のために出来得ることをしたかった。
また、魔女様が誤解されたままなのも、幼いころから納得がいっていなかった。山に潜む迷宮の魔獣を結界を張り、封じ、さらに解析をして根絶を目指す魔女の数百年を、町の人間は知らない。
それならば、自分が魔女様の遣いとして、ノランの友として町を守り、目に見える守りとなろうと考えたのだった。
意思固く、親兄弟を睨み付けると、震える四つ足で立ち上がり、咆哮する。
「ワフゥッ…まだまだ!!僕は強くなる!!」
そうして、少年と若犬の壮絶な修行の日々が過ぎ、ついにはノランは魔女の座学卒業を、ブランは親兄弟からの太鼓判をもらい、大魔女による、実戦的な「てほどき」を受けることになった。
行われたのは、一人と一匹 対 大魔女。大魔女に一撃を与えることができれば晴れて合格というものだった。
ノランとブランは最後の試練に息を巻いて取りかかったが、相手はかの、世界に並ぶもののない偉大な魔法使いである。
「甘いよ、ブラン。今のはただ力を外に垂れ流しただけ。そんな薄い障壁では、迷宮の深い層にいる魔獣の一撃で粉々に砕け散るわよ」
魔女の冷徹な声と共に、館の裏に作られた訓練場に無数の重力圧が叩きつけられる。
ブランは四肢をわななかせ、金の毛並みを泥にまみれさせながら、必死に頭を振って立ち上がった。魔犬としての誇りと、健気な執念が、まだ若い彼の体を突き動かしている。
ブランは喉を鳴らし、全身の力を絞り出して光の防壁を編み直す。その四肢を踏ん張る姿は、かつてノランの部屋の屋根裏で「発動しかけの光」を見せてくれたあの頃の何倍も力強く、精緻な理路を帯び始めていた。魔女は容赦なく重力圧を強めていくが、ブランは牙を剥き、決して膝を折らなかった。
「……なるほど。では、ノラン。君も入りなさい。ここからは二人の力を噛み合わせるわ」
魔女の合図で、ノランも木刀を構えて試練の渦中へと飛び込む。
「魔犬の結界防御と、人間の放つ魔道攻撃を、寸分の狂いもなく同期させる」という前代未聞の共同訓練。毎日、朝から晩まで、魔力が枯渇して互いの血の匂いが混ざり合うほどの距離で呼吸を合わせ続けた。
そして試練はの挑戦が数ヶ月を過ぎたある日、奇妙な変化がノランに訪れた。
「ブラン、右からの突撃に備えて、展開――」
指示を出そうとしたノランの脳裏に、突如、ブランの鮮明な「意思」が言葉となって直接流れ込んできたのだ。
『分かってる、ノラン! 結界は僕が支える、合図の瞬間に思いきり撃ち抜いて!』
「え……?」
ノランが驚愕に目を見開いた瞬間、ブランが力強く土を蹴った。刹那、強固な蜂蜜色の光の結界が展開され、魔女の放つ氷の礫を完璧に弾き返した。
厳しい修練を共にし、お互いの魔力と力の残滓が混ざり会った結果、ノランはブランたち魔犬の紡ぐ言葉を、完全に理解できるようになっていた。
今ノランが受け取った「意思」は、本来人間の耳であれば、ただの犬の鳴き声に聞こえていただろう、ブランが焦り人間の言葉を使えなかった吠え声だったのだ。
驚くノランの耳に、訓練場の周囲で見守っていた長や魔犬たちの騒がしい声も、はっきりと意味を伴って聞こえてくる。
『ブラン、人間に張る結界ばかりに気を取られるな!自分は回避しろ!』
『人間!!もっと強く打ち出せ!』
『今日こそ合格だ!』
「あはは……みんな、僕たちのこと応援してくれてたんだね」
驚愕と喜びが混ざった笑顔を浮かべるノランを見て、魔犬たちは一斉に驚いたように耳を震わせ、それから嬉しそうに遠吠えを上げた。
「――ノラン! 結界が閉じるその一瞬の手前よ!」
上空からモルガナの鋭い指示が飛ぶ。ノランはブランの言葉を完全に肌と魂で受け止め、結界が消失する瞬きの隙間に、最適化された爆炎の幾何学を滑り込ませた。轟音と共に放たれた超高速の炎弾が、魔女の氷壁を正面から粉砕する。
「……見事よ。君たちはもう、言葉すら超えた真の半身だわ」
宙から舞い降りたモルガナの言葉に、ブランは誇らしげに胸を張り、ノランは愛おしそうにその金の毛並みを強く抱きしめた。
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山頂での過酷な修行の合間、ノランは定期的に麓の街へと戻り、防衛隊の活動にも参加し続けた。
街の人々の「魔女と魔犬」に対する強烈な恐怖。それを変えたのは、ノランと犬たちが重ねた、誰に誇るでもない小さな日常の積み重ねだった。
異変に気づいたのは、境界線の見回りをしていた防衛隊の隊長たちだった。
「おい……なぁ、気のせいか? 最近、ここの結界の綻びが、綺麗になくなってる気がするんだが」
「ああ。教会の巡回はまだ先のはずなのに、まるで、誰かが外側から強固な楔を打ち直してくれたみたいだ……」
隊長たちが首を傾げて杭を見つめる中、ノランはそっと視線を遠くの山際へと向けた。そこには、大人たちの目には映らない遥か彼方の物陰から、街を見守るように静かに座って地脈を魔法で補強してくれている魔犬たちの姿があった。ノランが小さく手を振ると、犬たちは気高き耳を一度だけ震わせ、静かに森の奥へと消えていった。
実は、山の魔犬たちは、ブランの旅立ちはまだ許していなかったなかでも、魔女様の献身を町の人間に認めさせることには賛同し、町の結界の強化を秘密裏に買ってでたのである。
密やかに街を守ってくれている彼らの気配が愛おしく、ノランは小さく破顔した。そして、じっと杭を見つめる隊長たちの背中を見つめ、今日こそがその時だと、胸の奥でそっと覚悟を決めた。
「――隊長。皆さん」
ノランのいつもより少しだけ引き締まった声に、隊長たちが振り返る。
「驚かれると思います。でも、僕を信じて聞いてください。……数ヶ月前からこの結界の綻びを直してくれているのは、あそこにいる山の魔犬たちです」
「なっ……魔犬だと!? あの山の化け物どもが、結界を直しているというのか?」
一人の隊員が声を荒らげたが、ノランはまっすぐに彼らの目を見つめ返した。その瞳には、かつて異例の幼さで防衛隊の門を叩いた時と同じ、強固な意志の光が宿っている
「化け物ではありません。彼らは人の言葉を解し、魔法を操る『クーシー』という聡明な種族です。……実は僕、かつてこの街に迷い込んだ彼らの子犬を、密かに招き入れ、屋根裏で一緒に過ごしたことがあります。」
「そして、一人で山へ向かったある日、地割れから魔物が出た時に僕を救ってくれたのは、大きく成長したその子犬――ブランだったんです」
隊長たちが息を呑む。ノランは言葉を区切ることなく、一気に続けた。
「僕は今、山の上の館で魔女様のもと、彼と共に修行をしています。魔女様も魔犬たちも、街を呪おうなんてしていません。むしろ何百年もの間、地下迷宮の底から溢れる魔物を封じ、この街の盾になってくださっていたんです」
ノランの口から語られるあまりに衝撃的な真実に、詰所の空気は完全に凍りついた。しかし、ノランの手のひらに刻まれた無数の魔法の火傷の痕と、独学で魔道魔法を編み出したという彼の異常なまでの執念を知る大人たちは、それが決して少年の荒唐無稽な嘘などではないことを感じていた。
隊長たちは複雑な表情を浮かべたが、かつてのように武器を握る手に力を込める者はいなかった。自分たちの命が、目に見えない山の住人によって守られている事実を、彼らは肌で察し始めていた。
さらに、街が最も困窮する冬の時期。多くの人々が謎の毒熱に倒れ、教会の薬草が底を突きかけたことがあった。ノランは、館の主から預かったという、冬の雪山でも青々と茂る貴重な薬草を大量に防衛隊の詰所へと届けた。
「これ、魔女様から預かってきました。弟子が世話になっている礼だと…。その等価交換だそうです」
「魔女が、俺たちのために……?」
隊長は、受け取った薬草の品質に息を呑んだ。普段教会から施されるものと比べられないほど上等であったからだ。
その薬草によって街の病魔はまたたく間に退けられ、人々の中から「不気味な不老の怪異」への恐れが、確かな感謝の念へと塗り替えられていった。
何より、最も変化を見せたのはノランの両親だった。
最初は「魔女の呪いだ」とノランが山へ行くことすら泣いて止めていた両親だったが、山から帰るたびに、ノランが洗練された立派な佇まいになっていく姿を見て、徐々にその頑なな心を緩めていった。ノランが届ける山の恵みに、母親が神へ祈りを捧げるのではなく、「美味そうだね」と微笑むようになった日の夜、ノランは自室の窓辺で、静かに涙を流した。
街の人々を縛っていた恐怖という名の境界線が、今、優しく、確かに融け始めていた。
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そして、冬の厳しい寒さが和らぎ、柔らかな春の陽光が街を包み込み始めた頃、防衛隊の巡回ルートには、これまでの歴史にない「異例の光景」が加わるようになっていた。
「おい、ブラン! 東の林の奥、魔力の揺らぎはないか?」
先頭を歩く防衛隊長が、当たり前のように隣の影へと声をかける。
そこにいたのは、陽光を浴びて蜂蜜色にきらきらと輝く、美しくも立派な体躯をした若犬だった 。
ブランは気高き耳をぴんと立てると、林の奥を鋭く睨みつけ、それからノランの顔を見上げて短く喉を鳴らした 。
「大丈夫!!獣の足跡はあるけど、もう近くにはいないみたいだし!」
ブランが元気な少年の声でそう返事をすると、隊長は「そうか、助かる」と破顔して、ブランの豊かな蜂蜜色の首元をガシガシと大きく撫で回した。かつては「山の恐怖の象徴」として遠巻きに恐れられていた魔犬の毛並みは、今や隊員たちにとって、最も心強い戦友の証となっていた。
最初はノランに同行するだけだったブランだが、その圧倒的な索敵能力と、魔女仕込みの精霊魔法による結界の強固さは、またたく間に防衛隊の大人たちを魅了した。今では正式な「防衛隊の特別隊員」のような立場で巡回に参加している。
街の子供たちからも「金の犬のブランちゃん」と英雄視され、クッキーを餌付けされるほどの人気者になっている 。その親たちは、積極的に関わろうとはしなかったが、子供にクッキーを渋ることなく渡し、遠巻きに見守るような歩み寄り方を見せていた。
「ワンッ!ワッフ!」
『ノラン、街の人間はみんな優しいね。僕、もっと強くなって、この街をずっと守りたいな』
巡回中、歩きながらノランの脳裏に直接響いた、お調子者ながらもひたむきなブランの思念 。その言葉に、ノランは胸がいっぱいになりながら「うん、一緒に守ろうね」と相棒の背中にそっと手を置いた。
「ノラン、ブランは何て言ったんだ?」
隊長が何かの報告かとノランに聞くと、ノランとブランはお互いに顔を見合って破顔した。
その様子に、特に異変などではないと判断した隊長は、苦笑しながら巡回を続けるのであった。一匹と一人もその列に続く。
魔犬と人間。かつて決して交わることのなかった二つの存在が、同じ歩幅で街の境界線を歩いている。その確かな足跡が、世界の未来を少しずつ、けれど決定的に書き換え始めていた。
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それからまた一年と少しの月日が流れた、ある初夏の日のことだった。
麓のノランの家に、新しい命が誕生した。ノランにとっての初めての人間の弟、「レオン」だった。
その幼い弟の誕生を祝うように、ある日、山からトコトコと下りてきたのは、脱走した頃のブランよりもさらに幼い、生まれたばかりの小さな小さな魔犬の子犬だった。柔らかな灰色の毛並みを持ったその子犬は、短い足を一生懸命に動かして、赤ん坊の寝かされた揺り籠の足元へと歩み寄った。
「わんっ」
愛らしい高音と共に、子犬は赤ん坊の顔を覗き込むようにして、ちょこんとその場に座り込んだ。赤ん坊が小さな手を伸ばすと、子犬はその掌にそっと濡れた鼻先を押し付け、自らの微かな精霊魔法の波動を、赤ん坊の呼吸に合わせるように優しく寄り添わせた。
それは、新しく生まれた小さな命を、一生をかけて隣で守り抜くことを魔犬自らが選択した瞬間だった。
深夜テンションで投稿!




