第二話 少女の悲劇と、魔女の永劫
犬たちの「魔女さま」生い立ち編です。犬は後半から出てきます。
十歳の誕生日の記憶は、今でも私の網膜の裏に、どこまでも残酷なほど鮮やかな「青」として焼き付いている。
海の街コードリア。その街は、大陸の南端に突き出た美しい半島に位置していた。一年を通じて温暖な精霊の風が吹き抜け、波打ち際には陽光を反射してきらめく白いレンガ造りの家々が、まるで美しい真珠の首飾りのように整然と並んでいた。街の人々は豊かで穏やかな海を愛し、海もまた、絶え間のない魚介の恵みをもって人々を愛していた。
私、モルガナ=コードリアは、その街を古くから治める名家に生まれ、何不自由のない、温かな愛情のゆりかごの中で育った。
「モルガナ、誕生日おめでとう。さあ、冷めないうちに特製の海鮮煮込みをおあがり」
母の柔らかい手が、ハーブと潮の芳醇な湯気を立てる大皿をテーブルの真ん中に置いた。
父はいつもより少し照れくさそうな顔をしながら、私の前に小さな木箱を差し出した。中に入っていたのは、街の最高のガラス職人が一ヶ月かけて磨き上げたという、深海の色をしたきらきらと輝く髪飾りだった。
「十歳か。もう立派なレディだね、モルガナ。その髪飾りが、これからの君の歩む道を明るく照らしてくれるお守りになるといい」
父の大きな手が、私の頭を愛おしそうに撫でる。
世界は平和で、優しさに満ちていた。水平線の向こうから昇る朝日の美しさを疑う者がいないように、誰もが、その幸福が永遠に、当たり前に続いていくものだと信じて疑わなかった。
その音が、世界のすべてを叩き割るまでは。
――ズウ、ウン。
それは、大地が、あるいは海そのものが恐怖に身震いしたかのような、体の芯まで不快に震わせる重苦しい地鳴りだった。
食卓の銀の食器が嫌な高音を立てて触れ合い、部屋の隅に置かれた観葉植物の葉が小刻みに波打つ。直後、港の方から、かつて聞いたこともないような人間の甲高い悲鳴と、家畜たちの狂ったような鳴き声が、突風と共に窓から流れ込んできた。
「……なんだ、今の音は。ただの地震ではないな」
父が表情を険しくし、窓の外の海へ視線を向けた、まさにその瞬間だった。
水平線の彼方、空と海の美しい境界線が、物理的にあり得ない形に歪み、せり上がった。
それは、世界の半分を塗り潰すような「黒い水の壁」だった。
いや、それは単なる水の塊ではなかった。天を覆い尽くすほどの質量を持ったおびただしい量の海水、その濁流の頂点に、「それ」は君臨していた。
山と見紛うほどの巨体。全身をヌメり気のある黒黒とした鱗で覆い、太い大樹のような無数の触手をのたうたせ、街の広場ほどもある巨大な三つの眼球が、ドロドロとした狂気の色を湛えて爛々と輝いている。海の深淵、世界の理の底から這い出でた超巨大モンスター。
そいつが、地獄の底から響くような咆哮を上げた。
キィィィィィィィン!
脳を直接かき回されるような高周波。次の瞬間、その怪物がただ一度、その巨体を僅かに身じろぎさせた。それだけで、押し出された悪意そのものの質量が、爆速の壁となって街へと殺到した。
「モルガナ!! 走れ!! 荷物はいい、内陸の坂へ!!」
父が叫び、私の細い腕を引きちぎらんばかりの力で掴んで外へ飛び出す。しかし、人間の必死の足掻きなど、天災を模した怪物の猛威の前には何の意味も持たなかった。
押し寄せた津波は、海の街が何百年もかけて築き上げた頑強な石造りの防壁を、まるで乾燥した薄い木片のように一瞬で粉砕した。レンガ造りの美しい家々が、凄まじい轟音と共に内側から爆散していく。白波は一瞬にして、泥とヘドロ、建物の残骸を巻き込んだ黒い濁流へと姿を変え、人々の悲鳴を、日常を、数多の命を、容赦なく貪り喰っていった。
「お父さま! お母さま!」
足が地面を離れ、私の小さな体が浮き上がる。次の瞬間、世界が上下左右に狂ったように回転した。
強烈な衝撃が全身を襲う。濁流に揉まれる視界の中で、必死に、必死に私に向けて伸ばされる父の手が見えた。だが、その手は、激流に流されてきた巨大な交易船の竜骨によって、無残にもへし折られ、引きちぎられるようにして一瞬で闇の中へ消えていった。視線を向けた先、母の最期の悲鳴は、ゴボゴボという水の底の、虚しい気泡に変わっていた。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ!! お父さま! 助けて、お母さま!!)
肺が焼けるように痛い。鼻腔と口内に滑り込んできたのは、無数の魚の残骸と、巻き上げられた深海のヘドロ、そして、たった今まで生きていた人々の生々しい血が混ざり合った、おぞましい世界の終わりの濁流だった。
死という名の底なしの顎が、すぐ隣で口を開けて私を待っていた。
その時だった。
私の胸の奥、魂の最も深い場所から、言葉にならない悲痛な叫びと共に、純白の光が爆発的に溢れ出た。
それは、私の意思とは完全に無関係に発動した、世界でも類を見ないほどに純粋な『精霊魔法』の覚醒だった。
愛する家族を奪われ、自らの命の灯火も消えかけたその瞬間、私の魂の悲鳴に、内に秘められていた『精霊魔法』の力が過剰なまでに呼応したのだ。私の体を包み込むようにして、絶対的な癒しと守護を宿した純白の光の球ーー「結界」が形成される。
身体を引き裂こうと迫った無数の瓦礫も、命を削り取ろうとする濁ったヘドロも、その光の障壁に触れた瞬間に、まるで最初から存在しなかったかのように一瞬で浄化され、霧散していった。
やがて、数時間が過ぎ、ゴォゴォと音を立てて水が引いたとき。
かつて美しかった海の街コードリアに広がっていたのは、見渡す限りの泥と、無残にねじ曲がった無数の「かつて人間だったもの」が転がる、言葉を失う地獄絵図だった。
その泥の海の真ん中で、十歳の少女が一人、ぽつんと立っていた。
涙は出なかった。あまりの絶望に、感情を出力するための回路が焼き切れてしまったのだ。ただ、空気中に漂う乾いた泥と、他人の血の感触だけが肌に冷たかった。
私は魂を失った人形のように、ただ内陸へ、海から遠ざかる方向へと、狂ったように歩き出した。
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どのくらいの距離を、何日間歩き続けたのだろう。
内陸の街にある、古びた教会の簡素なベッドの上で私が目を覚ましたとき、窓の外からは静かな鳥のさえずりが聞こえていた。
泥まみれで行き倒れていた私を救い、ここまで運んだのは教会の神父だった。しかし、意識を取り戻した私の小さなベッドを囲んでいたのは、聖職者たちだけではなかった。
「気がついたかい、小さな聖女」
低く、だが驚くほど明瞭に響く声。
ベッドの傍らに立っていたのは、豪奢な漆黒の魔導衣を身にまとった、見上げるような体躯の銀髪の男だった。鋭い眼光の奥には、底知れぬ知性と、冷徹なまでの合理性が宿っている。彼の名は、アルベール=アイゼンハルト。歴々と続く、国内屈指の魔道魔法の家系の当主だった。
「……ここは、どこですか」
「教会の救護室だよ。よくぞあの地獄から、十歳の小さな体で、ここまで歩き通してくれた……。本当に、奇跡だ。名前は言えるかな、お嬢ちゃん」
優しく涙ぐみながら声をかける神父に、私は感情の消えた虚ろな目で、天井を見つめたまま応えた。
「……モルガナ=コードリアです。…でも、もうコードリアは、お父さま、お母さんも、みんなあの黒い水の中に消えました。私だけが、生き残りました。私は、ただの名前の殻です」
その言葉に、神父は痛ましそうに胸十字を切り、涙を拭った。
「君が生き残ったのは、紛れもない奇跡なのだよ。君の放った純粋な精霊魔法が、あの恐るべきモンスターを退け、コードリア以外の土地を災厄から守った。……モルガナ。それほどの才能、精霊に愛された証を、ここで眠らせておくのは惜しい。どうだろう、我が教会の、神の庇護のもとで安全に暮らしてはみないかい。我々が君の身を一生守ると約束しよう」
教会の人々は知っていた。この少女が生き残る際に発動させた、あまりに純粋で巨大な『精霊魔法』の残滓を。それは世界から失われつつある、神が世界に遣わすと言われる、精霊に愛された者にしか使えない奇跡の力。
教会にとって彼女は、信仰と恩寵を体現する「聖女」そのものだった。彼らはモルガナを、外の世界の汚れから隔離し、過保護なほどに鳥籠の中に閉じ込め、教会の権威の象徴として守り、祈らせる生活を強いるつもりだった。
しかし、アルベール=アイゼンハルトという男の視線は、まったく別のものを見ていた。
「聖職者の諸君、一度席を外してもらおう。この少女と二人だけで、確かめねばならぬことがある。……長居は無用だ、退がりたまえ」
彼は協会の者たちを、有無をいわせぬ物言いで部屋から下がらせると、私の細く、生気のない手首を掴み、その瞳の奥を覗き込むようにして言った。
「教会は君を『精霊に愛された無垢な聖女』として、ただ座して祈るだけの偶像にするつもりだ。だが、モルガナ。私は君の奥底で、今なお静かに燻り続けている、もう一つの圧倒的な魔力の残滓を見逃さない」
アルベールが掴んだ私の手首から、バチバチと、青く鋭い火花が散った。
それは魔獣の生態を解析し、世界の法則を数式のように書き換えて従える、戦闘と論理の力――『魔道魔法』の明確な波動だった。
「君の中には、あのモンスターに、この不条理な世界に抗うための『魔道魔法』の恐るべき才能が眠っている。精霊魔法が精霊に希う『癒しと守護』の力なら、魔道魔法は自らの意志で世界を捻じ曲げる『戦い、滅ぼす』力だ。モルガナ、君のその瞳は、ただ祈るだけで満足して余生を終えるような、惰弱な人間のそれではないはずだ」
アルベールは手首を離し、ベッドの脇に一歩下がると、冷徹な、しかし確かな敬意を込めて選択を突きつけた。
「鳥籠の中で他人のために涙を流し、一生を終える聖女となるか。それとも、我がアイゼンハルト家でその牙を研ぎ澄まし、二度と誰にも何も奪わせない圧倒的な強さを手に入れるか。選びなさい、モルガナ=コードリア」
「……抗う、力」
私の頭脳に、あの目の前で引きちぎられた父の腕と、水の底へ消えた母の姿が、鮮烈な痛みを伴って蘇る。
もしあの時、私にあいつを滅ぼす力があれば。あいつを解析し、法則を書き換える牙があれば、家族を救えたのではないか。
祈るだけで誰も救われないのなら、神の奇跡などという生温かい檻など、私には必要ない。
「……私に、あいつを噛み殺せる牙をください。アイゼンハルトの旦那様」
こうして、全てを失った十歳の少女は、大いなる大魔女への血塗られた第一歩を踏み出すべく、魔道の名門へと引き取られていく道を選んだのだった。
*
アイゼンハルトの家名は、伊達ではなかった。
険しい岩山をくり抜くようにして建てられた、堅牢な石造りの本邸。そこは陽光すら容易には届かない、規律と冷徹さに支配された「鉄の檻」のような場所だった。
「遅いぞ、モルガナ! 魔力の構築が遅れている! それでは術が完成する前に魔獣の爪に引き裂かれるぞ!」
師であり養父となったアルベールの怒号が、冷たい地下修練場の石壁に跳ね返り、鼓膜を震わせる。
引き取られた翌日から、私の日常は地獄のような修行で埋め尽くされた。魔道魔法とは、精霊に希う精霊魔法とは真逆の技術。魔獣の生態を解剖し、世界の理を数式のように紐解き、自らの魔力で強制的に現象を再構築する「論理と戦い」の業だ。
まだ十歳の小さな体には、その過酷な魔力の循環はあまりに重く、毎日体中の血管が内側から焼き切れるような激痛に襲われた。泥のように眠り、夜中に激痛で目を覚ましては、亡き両親を思い出して空虚を見つめる日々。
引き取られて半年が経った頃、私はついに心身の限界を迎えていた。
その日の修行でも構築式の展開に失敗し、アルベールから課された罰として、明かりもない冷徹な地下の瞑想室に一人、夜通し閉じ込められることになった。
冷たい床に膝を抱え、暗闇の中で息を潜める。
(私は、何のために生きているのだろう。牙を手に入れる前に、この鉄の家に壊されてしまうのではないか……)
孤独と絶望が、かつての津波のヘドロのように胸の奥に溢れてきた、その時だった。
カチャリ、と静かに扉の鍵が開く音がした。
差し込んだ微かな光の中に立っていたのは、アルベールの実子であり、私より二歳年上の義兄、レイハルトだった。彼はアイゼンハルトの血筋でありながら、どこかおっとりとした、春の陽だまりのような優しさを持つ少年だった。
「しーっ、静かに。お父様に見つかったら大変だからね」
レイハルトは悪戯っぽく微笑むと、私の細い手を取って、音を立てずに地下室から連れ出した。彼が私を導いたのは、本邸の最上階にある、普段は立ち入りが禁止されている看視塔のテラスだった。
夜風が、頬を優しく撫でる。見上げた空には、海の街では見たこともないような、降るばかりの満天の星々が輝いていた。
「ほら、モルガナ。今日の分の回復薬……の代わりに、これ。街のパン屋でこっそり買った、林檎の焼き菓子だよ。まだ少し温かい」
レイハルトは私の隣に腰掛け、紙に包まれたお菓子を差し出した。一口齧ると、甘酸っぱい林檎の蜜の味が、冷え切った体の中にじんわりと広がっていく。
「……お兄様、どうして。こんなことをしたら、養父様に酷く叱られます」
「叱られるさ。でも、君が今にも消えてしまいそうな顔で地下室に運ばれるのを見て、放っておけるわけないだろう? 君はアイゼンハルトの強さを手に入れようと必死だけど、僕にとっては、ただの可愛い妹なんだ」
レイハルトはそう言うと、私の頭を優しく撫でた。その手の温もりは、あの津波の日に失った、父の手の温もりにどこか似ていた。
「モルガナ。君がどこから来たか、どんな過去を持っているかは関係ない。僕たちがここでこうして同じ星空を見上げて、一つの菓子を分け合っている。それだけで、僕と君の間には何の境界線もないんだよ。だから、一人で全部を背負い込まないで」
その言葉を聞いた瞬間、半年間、一枚の鉄板のようになっていた私の心が、音を立てて融け出していった。私の目から、あの日以来初めて、温かい涙が溢れて止まらなくなった。レイハルトは何も言わず、ただ私の小さな肩を、その細い腕で静かに抱きしめ続けてくれた。
この鉄の家で、私は一人ではない。この優しい義兄を守るためなら、私はどんな過酷な修行にも耐えられる。
この星空の下の誓いこそが、私にとっての新たな「生きる意味」であり、大魔女モルガナの真の原点となったのだった。
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歳月は瞬く間に流れ、私は成人を迎えた。
私の才能は完全に開花していた。生まれ持った『精霊魔法』の絶対的な防御と、死に物狂いで身につけた『魔道魔法』の圧倒的な攻撃力。その双方を最高峰の次元で組み合わせ、防御結界を展開しながら同時に複数の極大攻撃魔術を同時並列で構築するという、前代未聞の技術を私は確立していた。
その実力は、今や軍隊一つを単騎で壊滅させかねないほどであり、周囲からはアイゼンハルト家「跡継ぎ筆頭」と目されるまでの大魔女へと成長していた。
しかし、その輝かしい名声の裏で、暗い影が私の足元に忍び寄る。
「……聞いたか? やはり次期当主はモルガナ様になるのでは、と」
「だが、彼女は『コードリア』の生き残り。アイゼンハルトの純血ではない」
「血筋を差し置いて、余所者が家を継ぐなど、古参の家臣たちが納得するものか」
本邸の廊下を歩けば、親族や家臣たちのそんな会話が耳に届く。
私は誰よりもアイゼンハルト家を愛し、恩を返したいと願っていた。レイハルトとの絆も、あの星空の夜以来、兄妹以上の深い信頼で結ばれている。だからこそ、その「血筋という境界線」が、家を内側から引き裂く醜い不和の種になることを、はっきりと理解していた。
ある夜、私はアルベールと、次期当主となるべきレイハルトの前に深く頭を下げた。
「養父様、お兄様。私は、アイゼンハルトの跡継ぎの座を固辞いたします」
「モルガナ、何を言うんだ!」
レイハルトが驚愕して立ち上がる。だが、私の瞳は、かつて十歳で牙を求めた時と同じように、静かで揺るぎなかった。
「私はアイゼンハルトの血を引いていません。この家が私にくれた恩義は、家を内側から割ることで返すものではないはずです。私は生涯、子供を残さず、この家に尽くす一本の杖となります。当主の座はお兄様が継ぎ、私は影として、後進の育成と家の守護にこの半生を捧げます」
養父アルベールは静かに私を見つめ、深く、重い息を吐いた。
「……決意は固い、か。モルガナよ。その意思を尊重しよう」
「ありがとうございます。養父様」
レイハルトは悔しそうに拳を握りしめ、唇を噛んでいたが、やがて、かつて看視塔でそうしてくれたように、優しく私の肩に手を置いた。
「わかった。なら、僕は世界一君を頼りにする当主になる。君が影に隠れるというのなら、僕は君が誇れるような、輝く光の当主になってみせるよ」
彼はそう言って、少し大人びた顔で、寂しそうに微笑んだ。
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さらに時は流れ、私が六十歳を迎える頃。
かつての少女は、国中の難事を請け負う有力な大魔女として、その名を轟かせていた。レイハルトは見事に当主を務め上げ、私は約束通り、アイゼンハルトの影として数多くの優秀な魔術師を育て上げた。
鏡に映る、目尻に刻まれたシワ、黒髪より多くなってきた白髪。それらは私がアイゼンハルトの影として、確かに刻んできた誇り高き時間の証だった。
しかし、その頃から、私の肉体に「奇妙な現象」が始まりを告げる。
「……あら?」
ある朝、洗面台の鏡を見た私は、思わず自分の目を疑った。
目尻に深く刻まれていたはずのシワが、ほんの少し、浅くなっている。最初は疲れによる見間違いかと思った。しかし、一ヶ月が経ち、一年が経つごとに、髪は白髪から艶やかな黒髪へと変色してゆき、たるみ始めていた肌は瑞々しさを取り戻していく。
それは、私の肉体が「若返る」という、世界の理を真っ向から踏みにじる不気味な怪異だった。
(なぜ……? 私の体の中で、何が起きているの?)
魔道魔法の知識を総動員して自らの肉体を解析するが、細胞の変異も呪いの痕跡もない。ただ一つ分かったのは、私のなかで今もなお強大になっていく『精霊魔法』の力が、私の細胞を、魔力を、全盛期の状態へと絶え間なく「修復」し続けているということ。それも、人間の治癒の枠を遥かに超えた、永劫の時を生きると言われる、精霊そのものの時間軸へと、私を引きずり込みながら。
そして、決定的な日が訪れる。
義兄であり、共に歩んできたレイハルトが、八十の齡を数える頃、親族に看取られながらの大往生を遂げた。
親族や多くの弟子たちが涙を流す、重々しい葬儀の席。その中心で、亡骸を見つめる私の姿は――皮肉にも、肌の張りも髪の艶も人生の頂点に達した、三十歳前後の美しい女性の姿だった。
「おい、見ろ……。久しぶりにお会いしたが、モルガナ様はなぜあのようなお姿なのだ?」
「化け物じみている……」
「まさか、若さを保つために禁忌の魔術に手を染めたのでは……」
周囲の参列者から向けられる、明らかな怯えと不気味さを孕んだ視線。
私は理解した。自分だけが、人間の時間の外側へと完全に弾き出されてしまったのだ。このままこの家に、人間社会に留まれば、不老の怪異を持つ私はいつか「災いをもたらす魔女」として恐れられ、愛するアイゼンハルトの家に、今度こそ破滅をもたらすだろう。
「レイハルトお兄様。私たちの間に、境界線は無いと言ってくれましたね。でも、時間だけは、私たちを隔ててしまうようです」
冷たくなった義兄の手にそっと触れ、私は誰にも告げず、夜の闇に紛れてアイゼンハルトの家を去った。
各地を転々としながらも、若返りの勢いは止まらない。三十代から二十代へ、そして十代へ。
自身の姿が、かつて全てを失ったあの最悪の災厄の日と同じ「十歳」の姿へと完全に戻ったとき。私は人間としての名前も、身分も、社会も、すべてを捨てることを決意した。
吹き荒ぶ雪の音だけが響く、遙か遠い辺境の未踏の雪山。
十歳の姿をした大魔女は、孤独な死に場所を求めるように、冷たい白銀の世界へと、静かにその足を踏み入れていった。
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人間を捨て、名前を捨て、ただ一人の孤独を求めて辿り着いたのは、険しい自然と魔獣の跋扈する、辺境の未踏峰だった。
十歳の少女の姿をした大魔女――今の私は、かつての生家の姓も、育ての親の姓も持たない、ただの脱け殻のような存在だった。膝まで埋まる深い雪を厭うこともなく、私は山の中腹にある、古びた巨岩の突き出た平地に立った。ここから先は、狂暴な原生生物である「魔狼」たちが絶対的な支配権を握る、人間の立ち入れぬ不可侵の領域だ。
「……よし、ここを私の墓標としよう」
私は小さく息を吐くと、手袋を外した右手を静かに天へと掲げた。
詠唱はない。ただ、私の内に眠る膨大な『魔道魔法』の構築式が、一瞬で世界の法則を書き換える。
ド、ド、ド、ド、ドオオォォォン――!!
凄まじい地鳴りと共に、雪の下の堅牢な岩盤が生き物のようにせり上がり、絡み合い、精密な立方体を形成していく。岩を削り、接合し、強固な防壁と美しい柱を組み上げる。かつてアイゼンハルトの家で血の滲むような修行の末に身につけた建築魔術だ。
ほんの数分のうちに、白銀の世界に石造りの館が姿を現した。
その館の最上階には、私の生み出した構築式の都合か、あるいは無意識の郷愁か――かつて夜通し閉じ込められた地下室から、義兄レイハルトが私を連れ出してくれた、あのアイゼンハルトの「看視塔」に酷くよく似た、小さなテラスが形作られていた。
私は少し苦笑しながらも、全ての役割を終えて横たわるような、穏やかな気持ちで館へと足を踏み入れた。
だが、その圧倒的な魔力の波動は、山を統べる獣たちへの「宣戦布告」に他ならなかった。
ガルルルルル……。
翌朝、私が館の重い扉を開けると、昨日張った結界を囲むようにして、雪原のあちこちから馬ほどもある巨体を持った魔狼の群れが現れた。その中心に君臨するのは、全身に無数の闘争の傷を刻んだ、漆黒の毛並みを持つ「ボスの魔狼」だった。その鋭い眼球が、不気味な赤色に爛々と輝いている。
私が結界から一歩外に出れば、ボスを筆頭に数頭の狼たちが低く唸り、雪を蹴って間合いを詰めてくる。一触即発の、張り詰めた緊張感。
しかし、十歳の姿の魔女は、怯えるどころか冷徹な瞳でボスを見つめ返した。
私の周囲に『精霊魔法』による微かな純白の光の衣が揺らめく。それは狼たちにとって、「噛もうとすれば、その牙が砕けるぞ」という、底知れぬ静かな威圧だった。
野生の王であるボスの魔狼もまた、本能で察知していた。目の前の小さな人間の怒りに触れれば、群れごと消し飛ばされる。だが、誇り高き狼として縄張りを譲るわけにはいかない。
襲いかかりはしないが、決して牙を収めない。
私が外に出て薬草を摘む時も、常に一定の距離を保ちながら、鋭い殺気で見張ってくる。数ヶ月に及ぶ、張り詰めた沈黙の冷戦。私もまた、彼らを追い払うでもなく、ただ「領域を侵さぬならば、命までは取らない」という無言の境界線を、その場に敷き続けていた。
*
その平穏が破られたのは、ひときわ嵐の激しい吹雪の日のことだった。
突然、館のすぐ近くの雪原から、地を揺るぐような咆哮と、魔狼たちの悲痛な悲鳴が響き渡った。
弾かれたように看視塔に似たテラスに向かい、見下ろすと、そこは凄惨な戦場と化していた。
山の奥深くに眠っていた、地下迷宮へと続く空間が開かれたのだ。そこから溢れ出たのは、泥泥とした濁った目を持ち、全身から黒い腐食の毒を滴らせる、異形の魔物たちの群れだった。
数において圧倒的に勝る魔物の群れが、魔狼たちの縄張りを蹂躙していた。
「……あいつらは」
私の瞳に、微かな嫌悪の火が灯る。あの十歳の日にすべてを奪ったモンスターと同類の、悪意の塊。
雪原では、魔狼のボスが群れを守るために文字通り命懸けで戦っていた。しかし、毒爪に体を切り裂かれ、おびただしい血が白銀の雪を赤く染めていく。
そして、ついに――ボスの巨大な首級が、魔物の強靭なあぎとに噛み砕かれた。
ボスが殺された。
絶対的な王を失い、恐怖と絶望に染まる魔狼の群れ。散り散りに逃げ惑う狼たちの中で、ただ一匹、死んだボスの遺体にすがりつきながら、群れの中で最も深く傷つき、孤立しながらも必死に牙を剥いている「若い狼」がいた。
その若い狼は、まだ体も一回り小さく、毛並みも荒い。だが、獰猛な魔物の群れに包囲され、全身から血を流しながらも、その瞳だけは決して諦めていなかった。泥と血にまみれ、圧倒的な絶望を前にしてなお、生への執着を燃やして牙を剥き続けるその姿。
その瞬間、私の脳裏に、かつて十歳の冬、泥にまみれ、絶望の中でそれでも生きて内陸へと歩き続けた「過去の自分」の姿が、鮮烈に重なった。
「……まったく、不愉快なほどに似ているわね」
私はため息をひとつ吐くと、館の扉を静かに開け、雪原へと一歩を踏み出した。
気まぐれだ。助ける義理など、どこにもない。
だが、その生きようとする牙が理不尽に折られる瞬間を、私の魂が見過ごすことを拒んだ。
私が小さな指先を、ぱちんと一つ鳴らす。
瞬間、私は狼の目前に転移した。直後、背後に展開されたのは、アイゼンハルト家で極めた極大戦闘用『魔道魔法』の幾何学的な魔方陣。空間そのものを圧殺するほどの超高密度の魔力が、吹雪を割って炸裂した。
ドゴォォォォォン!!
目にも留まらぬ速度で放たれた無数の魔力の光弾が、若い狼を取り囲んでいた魔物たちを、一瞬で肉片一つ残さず微塵に圧殺し、消滅させた。
大魔女の一撃の前に。山を揺るがした魔物の群れは消し飛んだ。しかし、依然として迷宮から這い出ようとする泥泥とした気配は止まらない。
私はすかさず、『精霊魔法』による封印の結界を展開し、モンスターたちを迷宮へ閉じ込めた。
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嵐が去ったかのような静寂の中、生き残った若い狼は、荒い息を吐きながら、信じられないものを見る目で私を凝視していた。恐怖と、畏怖と、かすかな困惑。
その視線を無視し、私は家へと歩を向けた。すると、若い狼も、頼りない足取りで追従してきたのだ。
玄関まで戻っても、未だ背後にいる狼の荒い吐息が聞こえた。私は小さくため息をつくと、振り返って、勤めて冷たく言いはなった。
「勘違いしないで。家には招き入れない。私は孤独を求めてここに来た。傷を癒やしたら、残された群れを連れて、さっさと自分の縄張りへ帰りなさい」
バタン、と容赦なく扉を閉める音が、冷たい雪山に響く。
だが、傷ついた若い狼は、その場から動かなかった。ただじっと、かすかに魔道の温もりが漏れ出る石造りの館を見つめ、雪の上にその身を横たえるのだった。
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「帰れと言ったはずだけどね」
翌朝、私が館の重い扉を開けると、そこには昨日と全く変わらぬ光景が広がっていた。
満身創痍の若い狼が、凍てつく雪の上に小さくなって伏せていたのだ。私の気配を察すると、びくりと耳を立て、警戒と、それ以上の「懇願」を孕んだ瞳で私を見上げてくる。その背後には、絶対的な王だったボスを失い、行き場をなくした数頭の小ぶりな狼たちも、怯えながら身を寄せ合っていた。
若い狼の足元には、彼が残った力を振り振り絞って仕留めたのだろう、一匹の野ウサギが不器用に置かれていた。血は凍りつき、雪にまみれている。
「家には入れない。それだけは譲らないわよ」
私は狼たちにそう告げ、野ウサギを館へと運びいれた。そして、代わりに館の外に大きな石皿を出して、自らの『魔道魔法』で毒素や寄生虫を完全に解析・除去した安全な肉と、痛みを和らげる『精霊魔法』の息吹を込めた薬草を、大量に盛り付けておいてやった。
それが、私たちの一見して冷徹な「等価交換」の始まりだった。
若い狼は毎日、命を懸けて仕留めた最も見事な獲物を館の前に届け続けた。私はそれを無言で受け取る代わりに、彼らが生き延びるための安全な糧を与え、館を囲む強固な結界の「敵対条件」から、その若い狼と彼に従う群れの波長だけをそっと外してやった。
面白いことに、これによって狼たちの群れに明確な「淘汰」が始まった。
人間の魔力を本能的に嫌い、狂暴性を剥き出しにして館の結界に歯向かう個体たちは、自ら山の奥へと去り、厳しい自然と他の魔獣との諍いの中で次々と命を落としていった。
一方で、私の放つ、『精霊魔法』の清らかな波動に強く惹かれ、館の周辺に居座り続けた個体群だけが生き残り、繁殖を始めたのだ。
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不老の魔女と狼たちが過ごした山籠りの歳月は、数百年を数えた。
それは、世代を重ねる狼たちにとって、人知を超えた「劇的な進化」の数百年でもあった。
彼らは毎日、私が日常的に放つ、二つの高濃度な魔法の残滓を浴び続けて生きていた。
まず変化が現れたのは、その肉体だった。
私が館の周囲、結界内に満たし続ける『精霊魔法』の「守護と浄化」の力が、彼らの体内から魔獣特有の泥泥とした狂暴性や毒性を、世代を追うごとに綺麗に削ぎ落としていったのだ。
かつて針のように硬く、血の匂いを放っていた漆黒の剛毛は、精霊の光を優しく反射する、絹のように美しい純白や高貴な灰色へと様々に変化していった。凶悪な鋭さを誇った顎や爪は、他者を無駄に傷つけない、洗練された美しいフォルムへと変貌していく。
そして、それ以上に劇的だったのは、彼らの「知性」の開花だった。
私が使う高度な生活魔法や結界の、論理的な「魔力の構築式」を間近で見続け、その余波を感じ取ることで、彼らの脳は異常な発達を遂げた。
ただの獣だった彼らは、物事を論理的に思考し始めた。
私は彼らと生活を共にしていない。当然、人間の営みや、言葉を教えたわけではないが、隣人として彼らを認めてからは、気まぐれに言葉をかけることがあった。
「今日は少し冷え込むわね」
「あちらの谷の木の実が、よく熟しているわよ」
狼たちは、そういった私の言葉を「音」ではなく、その奥にある「魔力と精神の構造」として理解し始めていた。
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月日は容赦なく流れ、かつて私が気まぐれに救った、あの若い狼にも、終わりの時が訪れた。特別な体質だったのか、群れの他の個体は数十年で寿命を迎えるなか、群れの長として何百年も君臨し続けたのだった。
ある大雪の夜。老いぼれ、目も見えなくなったその狼は、最後の力を振り絞って館の扉をその前足で叩いた。私が扉を開けると、彼はそのまま崩れ落ちるようにして、生まれて初めて、館の「中」へと倒れ込んできた。
「……頑固な子。あれほど家には入れないと言ったのに」
私は苦笑し、けれど彼を追い出すことはしなかった。大きな暖炉の前に毛布を敷き、その上に彼を横たわらせる。
かつて馬ほどもあった巨体は小さく縮み、漆黒だった毛並みは真っ白に禿げ上がっていた。彼はもう、呼吸をするのもやっとの状態だった。
私は彼の隣に腰掛け、その老いた頭をそっと撫でた。十歳の姿の私の手は、数百年前と全く変わらず小さく、瑞々しいまま。対する彼は、時間を駆け抜けて行ってしまった。
「お前はよく生きたよ。最も気高い一匹の狼だった。私はお前を、隣人として誇りに思う」
私の言葉を理解したのだろう。白濁した瞳を微かに開き、愛おしそうに私の小さな手を一度だけ、温かい舌でペロリと舐めた。そして、満足したように静かに、本当に静かに息を引き取った。
孤独を求めたこの山で、長い年月を傍で暮らす存在に出会えていた。私は、彼の最後の呼吸を聞き遂げたとき、頬を伝う一筋の涙とともにその事実にようやく気がついたのだ。
死を見送る切なさは、アイゼンハルトの家を出た時と何も変わらない。けれど、私の胸にあるのは暗雲ではなかった。彼が遺した血脈が、館の外で確かに息づいているのを知っていたからだ。
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さらに数代の交代を経て。
かつて山を恐怖させた獰猛な魔狼の面影は、そこには微塵も残っていなかった。
彼らは人の言葉を完全に解し、自ら魔法を操り、人間の生活様式に溶け込めるほどに穏やかで知的な、世界にただ一つの血統――『魔犬クーシー』へと、完全なる変貌を遂げていた。
初めの群れ長が亡くなってから、私は狼たちとの境界線を一つ外し、館へと招き入れるようになった。長く続いた等価交換のみの関係から、生活を共にする関係へとなったのだった。
その過程で、常に展開されている精霊魔法への順応と、私が日常的に使用する魔道魔法への理解が進み、彼らに芽生えていた知性が一気に花開いたのだった。
魔道魔法によって人間の発声を獲得した狼たちは、初めは辿々しく、次第に流暢に私に話しかけ、会話を重ねるうちに、言語を獲得していった。
また同時に、私も鳴き声に込められた思念を魔法で解析し、彼らに二つの言語体系があることに気がついた。狩りでは、瞬時に意思の疎通ができる、いわば「犬の言葉」を使用し、日常の会話は「人間の言葉」で。この多彩さに、思わず感心してしまったものだ。
しかし、私は一つ、「名前をつけない」という境界だけは残していた。
名付けるということは、その存在を自らの世界へ、特定の役割や枠組みの中に縛り付けることと同義だ。かつて人間としての名前を捨て、家柄という檻から這い出た私にとって、それはあまりにも傲慢な行為に思えた。
私は彼らを、私に服従するだけの猟犬にしたかったわけではない。自らの意志で生きる、対等な隣人として扱いたかったのだ。それこそが、彼らの独立した魂に対する、私なりの敬意の示し方だった。
それに……深く魂を結びつければ、それだけ失う時の痛みが大きくなる。彼らは私を置いて、あまりにも早く時間を駆け抜けていってしまうから。
名を持たない獣たちと、時の止まった魔女。その曖昧で、けれど心地よい距離感こそが、私たちが永く寄り添うための、唯一の最適解だったのだ。
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パチパチ、と暖炉の薪が心地よい音を立てて爆ぜる冬の夜。
館の広間で、いつものように大きな椅子に腰掛け、古い魔導書をめくる私。その足元には、立派な体躯をした現在の『長』をはじめとする魔犬たちが静かに伏せ、穏やかな寝息を立てている。
私も床に向かおうかと、本から目を離した、その時。
椅子の下から、もぞもぞとした短い毛並みの感触が伝わってきた。
「キャン!」
愛らしい高音と共に転がり出てきたのは、新しく生まれたばかりの、まだ片手で持てるほどに小さな子犬たちだった。様々な毛色をしたその子犬たちは、短い足を一生懸命に動かしながら、私の足元をトコトコと歩き回っている。
一匹の子犬が、私のローブの裾を小さな歯で甘噛みし、もう一匹は私の靴の上にしがみつこうとして、コロンと後ろに転がった。
「こら、やめなさい」
私は呆れ半分、愛おしさ半分で声をかけ、その小さな子犬を両手でそっと抱き上げた。子犬は嬉しそうに尻尾を千切れんばかりに振り、私の鼻先を小さな舌で舐めてくる。
この静寂と、名を持たない彼らとの心地よい距離感。そして新しく紡がれる、小さくも騒がしい命の気配。これこそが、私が数百年をかけて築き上げた、誰にも侵されない完璧な楽園だった。
――そう、この私の腕の中で無邪気に尻尾を振っている、好奇心旺盛な蜂蜜色の子犬――「ブラン」が、人間の街へと脱走してしまう、あの日までは。
思ったより長くなっちゃった、、犬を書きたいのに!




