表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
町の小さなお守り魔女と、言葉を紡ぐ金の犬  作者: あづみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/9

第一話 蜂蜜色の子犬と、オレンジ色の街灯り

思い付いちゃったが吉日。連載を放り投げて投稿しちゃいました。

 膨大な魔力を修行の末に得て、不老となった魔女は、かつて孤独を求めて深い山にこもった。


 そこで出会った獰猛な魔狼を隣人とし、その子々孫々と暮らし続けた結果、狼たちは人の言葉を理解し、魔法を操り、狂暴性を削ぎ落とされた美しい『魔犬クーシー』へと変じていった――。


------------------------------


 しんしんと降り積もる雪が、世界から一切の音を奪い去っていた。


 天を衝くような針葉樹の林も、険しくそびえ立つ岩肌も、すべてが容赦のない純白の外套に覆われている。冬の山は、生半可な覚悟で踏み入る者を拒絶する、凍てついた死の世界そのものだった。 


 だが、その山頂近くにある頑強な石造りの巣穴には、寒さなど意に介さない強大な命の群れが息づいていた。


 灰黒色の精悍な長い毛を持つ者、漆黒の夜のような毛並みの者、あるいは淡い金色の毛を蓄えた者。


 彼らは魔狼の血を引く、山の誇り高き住人だ。生まれながらに冬の冷気を魔法の障壁でねじ伏せ、凍土を鋭い爪で蹴って疾駆する。それが彼らの日常であり、当然の営みだった。


 しかし、その年の初めに生まれたばかりの一匹の子犬だけは、その大自然の理から完全にこぼれ落ちていた。



「ふえ、っくしゅ!」



 子犬は小さな鼻を鳴らし、くしゃみと共に短い身体をさらに丸くした。


 そこは山の一角にある石造りの館――この山を統べる主であり、犬たちのかけがえのない隣人、魔女の部屋だった。


 子犬には、父や母、そして兄姉たちの多くが持つような、冬の厳しい寒さに耐えうる頑丈で分厚い毛皮がなかった。陽だまりの光をそのまま凝固させたような、蜂蜜色の短く滑らかな毛並み。触り心地こそ極上の絹のように柔らかく、光を浴びれば美しく輝いたが、この容赦のない冬の山を生きるにはあまりに薄く、あまりに寒がりだった。


 同じように淡い毛色を持ちながらも立派な体躯を誇る両親や、大柄な兄姉たちが外の白銀の世界を楽しげに駆け回っている間、この蜂蜜色の子犬にできることといえば、魔女の部屋の片隅にある暖炉の火にしがみつき、自らの体温が逃げないように祈るように丸くなることだけだった。


 パチパチ、と薪が爆ぜる乾いた音だけが、静寂に満ちた部屋に響いている。


 部屋の奥、大きな黒檀の机に向かって、主が静かに古い魔導書をめくっていた。


 その姿は、人間の基準で言えば十歳ほどの少女にしか見えない。


 透き通るように色白い肌は、長年この深い森の奥で陽の光を浴びずに暮らしてきたことを物語っていた。床に届くほど長い髪は、夜の帳をそのまま紡いだような漆黒で、かすかな魔力の残滓を帯びて時折ゆらりと揺れる。


 しかし、その瞳の奥に宿る光は、少女のそれとは決定的に異なっていた。何百年という歳月を見つめ、無数の生と死を見送ってきた者だけが持つ、深く、冷徹なまでに静かな智慧の輝き。


 魔女はめくる手を止め、暖炉の前で小さく震えている蜂蜜色の子犬へ、そっと視線を向けた。


 彼女は椅子の背から音もなく下りると、裸足のまま冷たい石の床を歩き、子犬の傍らへと歩み寄る。精度高く編まれた魔力の揺らぎが、彼女の周囲に柔らかな空気を生み出している。彼女は、小さな、けれど驚くほどに温かい手のひらを、子犬の頭の上へとそっと置いた。


 なでる、というよりは、そこに置いて自らの体温と重みを伝えるだけのような触れ方だった。


 魔女は犬たちを心から愛している。だが、その愛し方は人間が愛玩動物に向けるものとは違っていた。彼女にとって、この犬たちは自らと共に生きる獣であると同時に、独自の進化を遂げた尊厳ある一つの命だった。だからこそ、過剰に甘やかすような真似はせず、互いの領域を侵さない、静かで心地よい距離を保ち続けている。


 彼女は犬たちに名前を与えない。名前とは他者との境界を縛る鎖になり得る。ただ、そこにいる命として、穏やかに見守るだけだった。


 頭に乗せられた手の温もりに、子犬は嬉しそうに目を細め、短い尻尾をパタパタと床に打ち付けた。


 魔女は小さな唇をわずかに開き、口数の少ない、鈴を転がすような声で語りかける。



「外は雪よ。他の子たちのようにはいかない。人間の街へ下りてはいけない」



 子犬は耳をピコピコと動かして、その言葉にじっと聞き入った。魔女の声には、世界を書き換えるほどの膨大な魔力と、同時に深い慈悲が込められている。



「人間の里は、本質的に牙を持つ者を強く恐れている。山の奥深くに潜む不気味な不老の魔女、解き放たれる魔獣の噂は、街の人々を酷く怯えさせているわ。不意に現れた私たちの姿は、彼らにとって災いの前触れにしか見えない。だから、この山の中で静かに過ごしなさい」



 子犬は小さくワン、と鳴いて、分かったというように魔女の手のひらに濡れた鼻先を押し付けた。魔女は満足したように一度だけ頭を撫でると、再び机へと戻り、外界の動きを一切遮断する深い瞑想を交えた研究に没入していった。


 部屋の中には、また退屈な静寂が戻ってきた。


 退屈だった。寒がりで外を駆け回ることもできず、魔法の訓練すらまだ満足にできない子犬にとって、この静かな部屋でただ冬が過ぎるのを待つ日々は、あまりに長すぎた。


 子犬は部屋の高くに穿たれた窓枠へと飛び乗り、前足で結露を拭いながら、何日も、何日も外への渇望に耐え続けた。冬の葉がすっかり落ちてしまった木々の隙間から、遥か麓の世界を見下ろす日々。


 そこには、人間の街があった。


 冷たい雪と静寂に支配されたこの山とは違い、麓の暗闇の中には、ぽつぽつと、小さなオレンジ色の灯りがいくつも揺れていた。


 それは魔女の部屋の暖炉よりもずっと小さくて、けれど、数え切れないほどたくさん集まって、暗い夜の底を優しく、どこか楽しげに照らしていた。



(あの光の下には、何があるんだろう。行ってはいけないけれど……でも、どうしても見てみたい)



 何日もの葛藤の末、膨らみきってしまった好奇心は、もう誰にも止められなかった。


 あの灯りの正体が知りたかった。あそこに行けば、この退屈な冬を吹き飛ばすような、見たこともない温かい何かが待っているかもしれない。


 魔女の規則正しい呼吸の音が部屋に満ちる。彼女が完全に意識の底へと沈み、寝静まったある夜、子犬はついに音を立てずに部屋の扉を鼻先で押し開き、魔女の言いつけを破って夜の雪山へと駆け下りてしまった。


------------------------------


 山を下り始めたとき、空はひどく穏やかだった。 


 風はなく、ただ大きな雪の結晶が、闇のなかを静かに、しんしんと降り積もっていく。子犬はその幻想的な光景に目を輝かせ、最初は楽しげに足を動かしていた。


 ...しかし、冬の夜山は、そんな静寂の中にこそ本質的な恐怖を隠し持っていた。


 一歩、また一歩と長く歩くうちに、音もなく降り積もる雪は、子犬の短い足を容赦なく飲み込んでいく。防寒性のない蜂蜜色の薄い毛皮は、吸い寄せられるように積雪の冷気を吸い込み、じわじわと、確実に子犬の体温を奪っていった。



「くぅ、ん……」



 気づけば、足元の感覚はとうに失われていた。


 あまりの冷たさに、一歩進むごとに鋭い氷の針が肉球に突き刺さるような痛みが走る。帰ろうかと、山の上を振り返ったが、そこには自分が歩いてきた足跡さえも、新しく降り積もる雪によって綺麗に消し去られていた。


 戻ろうにも、どちらが上かも分からない。体はすっかり冷え切り、激しい震えの後に、ひどい眠気が襲ってくる。寒さに苛まれ、後戻りもできなくなった子犬は、街の灯りに届く手前の開けた雪原で、ぽつんと倒れ込んでしまった。さらさらとした冷たい雪が、小さな蜂蜜色の身体を優しく、しかし非情に埋めていく。意識が急速に、暗い底へと沈んでいった。


 どれほどの時間が経っただろうか。


 ザッ、ザッ、と、雪をかき分ける物静かな足音が、遠くから近づいてくるのを、子犬の鋭い耳がかすかに捉えた。



「――あれ? こんなところに、何かが落ちてる……」



 届いたのは、驚いて声を張り上げるでもない、ひどくおっとりとした、柔らかな少年の声だった。


 子犬が薄く目を開けると、雪の中に自分の前にそっとしゃがみこむ、一人の人間の男の子の姿がぼやけた視界に映った。年齢は魔女の見た目と同じか、少し上くらいだろうか。


 男の子は、雪に埋もれかけていた蜂蜜色の子犬を見つけると、慌てる風もなく、「大変だ、凍えちゃうね」と穏やかに呟いた。温もりが、男の子の手から微かに伝わる。彼は自分の着ていた厚手の温かい上着を迷いなく脱ぐと、それで子犬の体を優しく包み込んだ。


 人間の体温が残る上着の温もりが、子犬の凍てついた皮膚にじんわりと伝わってくる。男の子は子犬を壊れ物を扱うように大事そうに両腕でしっかりと抱きかかえ、街の自宅へと向かって歩き出した。


------------------------------


 次に目を覚ましたとき、子犬はあまりの心地よさに、自分が死んで天国にいるのかと思った。


 パチパチ、と目の前で心地よい音が爆ぜている。レンガ造りの大きな暖炉の中で、真っ赤な炎が踊っていた。部屋全体が、これまで経験したことがないほどの濃厚な温もりに満たされている。



「あ、気がついた?」



 すぐ傍らから、さっきの物静かな声が聞こえた。


 振り返ると、おっとりとした目元をした男の子が、床に座ってこちらを覗き込んでいた。その手には、湯気を立てる小さな木のお椀が握られている。



「お腹、空いてるでしょう。山から迷い込んじゃったのかな。はい、温かいミルクだよ。火傷しないように、少し冷ましてあるからね」



 床に置かれたお椀から、甘くて香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。子犬はたまらず身を乗り出し、お椀に顔を突っ込んでミルクを舐め始めた。温かい液体が喉を通り、胃に流れ込むたびに、凍りついていた細胞の一つひとつが蘇っていくのが分かった。



「僕はノラン。君の名前はなんていうの?」



 男の子は子犬の顔をじっと見つめながら、穏やかな声で語りかける。


 ノラン、というその音の響きは、どこか優しくて素朴だった。ノランは子犬の蜂蜜色の柔らかな毛並みを、大きな手のひらで何度も何度も、優しく優しく撫てくれた。



「きみ、不思議な毛の色をしてるね。僕たちの街の冬はいつも灰色だけど……きみは、まるでお日様みたいだ。でも、雪の日に出会ったから」



 ノランは少し考えてから、ぽつりと言った。



「……今日からきみの名前は、ブランだよ。ノランとブラン、なんだか僕たち、兄弟みたいだね」



 その瞬間、子犬の胸の奥で、何かがパチンと弾けるような感覚があった。


 これまで誰にも呼ばれたことのなかった自分。数多くいる魔犬の「一匹」でしかなかった自分に、明確な輪郭が与えられたような、魂が震えるほどの強烈な喜び。



(ブラン……。ぼくの名前は、ブラン!)



 自分の心の中に満ちていくその響きが、愛おしくてたまらない。ブランはノランの顔を何度も舐め、ちぎれんばかりに尻尾を振った。


------------------------------


 あまりの嬉しさに、ブランの頭は完全にのぼせ上がっていた。


 心が幸福感で満たされ、山での抑圧や退屈がすべて消し飛んだそのとき、彼は自分が「人の言葉を完全に理解し、操れる魔犬」であることを、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。



「うん! ぼくブラン! かっこいい名前、ありがとう、ノラン!」



 高く澄んだ、幼い少年の声が暖炉の部屋に響き渡った。


 それは紛れもなく、ブランの喉から発せられた、流暢な人間の言葉だった。



「……え?」



 ノランの手がぴたりと止まった。


 ちょうどその時、様子を見に部屋に入ってきたノランの父親と母親が、持っていた食器の手を止め、血の気が引いたような顔でブランを凝視した。部屋の中が一瞬にして緊迫した静寂に包まれる。



「あ……」



 ブランはハッと息を呑み、慌てて両前足で自分の口を塞いだが、もう遅かった。



「ノ、ノラン……! その生き物から離れなさい……!」



 父親が低い声で警告を発し、傍らにあった防犯用の斧へ手を伸ばした。母親は恐怖で身を震わせ、神への祈りを口の中で唱え始める。



「山に潜む不気味な不老の魔女……その魔女が従えるという、人の言葉を話し、魔法を操る魔獣だわ……! 災いが我が家に持ち込まれてしまった!」



 この街の人々にとって、魔獣は物語の中の存在ではなかった。


 彼らが日々脅かされているのは、野山に跋扈する獰猛な魔獣や、時折大地に口を開く危険な「地下迷宮」の存在だった。それらを防ぐために魔法研究を重ね、必死の思いで街の結界を維持してきた彼らにとって、山奥に潜む謎の魔女やその魔犬の噂は、いつ自分たちの生活を蹂躙するか分からない「絶対的な恐怖の対象」だったのだ。



「待って、父さん、母さん! この子はちっとも怖くないよ。ただの寒がりな子犬なんだ!」



 ノランが、ブランを庇うように両腕で包み込んだ。



「言葉を話すけれど、温かくて、ミルクを美味しそうに飲むんだよ! 迷宮の魔獣なんかじゃない!」



 ブランはノランの腕の中で身を縮めながら、必死に誤解を解こうと言葉を絞り出した。



「ま、魔女様は怖くないよ! すっごく強くて物静かだけど、ぼくが寒いときはいつも頭に手を置いて温めてくれるんだ! 悪いことなんか、一度もしたことないんだから!」



 怯えるブランの姿と、ノランの必死の説得に、両親はすぐには斧を引かなかった。しかし、ブランの蜂蜜色の柔らかな毛並みには野山の魔獣のような毒々しさはなく、震える姿は哀れなただの子犬だった。



「……本当に、街を襲いに来たのではないのだな?」



 父親が警戒を解かぬ鋭い目で睨みつける。



「うん、ぼく、街の灯りが綺麗で、見てみたくて山を下りちゃっただけなんだ……。魔女様からは、人間に怖がられるから絶対に下りてはいけないって言われてたのに、ぼくが悪いんだ……」



 ブランが俯いて涙をこぼすと、両親は深い溜息をついた。好意的になったわけではない。ただ、「魔女への強烈な恐れ」を抱えながらも、目の前の小さな命を雪の中に追い出すほどの非情さを持てなかっただけだった。



「決して家の外へ出してはならないぞ、ノラン。もし街の連中や防衛隊に見つかれば、どんな大騒動になるか分からないからな」



 父親はそう言い残し、重い足取りで部屋を去った。ブランが初めのぼせ上がって語ってしまった「魔女の存在」は、好意ではなく、確かな恐怖と緊張感と共に、この家の中に居座ることとなった。


------------------------------


 それからの家の中の空気は、決して明るいものばかりではなかった。


 ノランの両親はブランをあからさまに遠ざけ、ブランが少しでも声を立てると「静かにしなさい」と怯えを孕んだ目で牽制した。


 けれど、ノランだけは違っていた。彼は両親の目を盗んでは、ブランの蜂蜜色の毛並みを優しく撫で、「大丈夫だよ、ブラン」と声をかけ続けてくれた。ノランが差し出してくれる温もりだけが、ブランにとっての救いだった。


 ブランはノランの膝の上で、よく山のお話をした。魔女がどれほど深い智慧を持ち、どれほど静かに自分たちを見守ってくれているか。ノランは「へえ、不思議な魔女様だね」と、怯える両親とは違い、純粋な好奇心でその話を聞いてくれた。


 しかし、冬の終わりが近づいたある夜。


 ノランの腕の中で眠っていたブランの頭の中に、冷徹なまでに澄み切った、けれど確かな温もりを内包した「声」が直接響き渡った。



『――聞こえますか、迷子の子犬』



 ブランはびくりとして跳び起き、耳を鋭く立てた。


 それは、山頂の館から放たれた、魔女の精神感応だった。



『言いつけを破り、街へ下りて数ヶ月。案の定、人間に怯えられ、隠されるようにして過ごしている。そこまでは私の目にもすべて見えていますよ。……さあ、戻りなさい。あなたのいるべき場所は、こちらの静かな山の中です。冬の終わりは近いわ』



 魔女の声は、絶対に逆らえない重みがあった。


 しかし、ブランは自分を命がけで庇ってくれたノランの手を見つめた。魔犬の成長は人間の時の流れとおおよそ同じであるため、数ヶ月経った今でも、ブランはまだ小さな子犬の姿のままだ。ノランの腕の中にすっぽりと収まるその小ささが、今のブランのすべてだった。



(いやだ……! 魔女様、ぼく、まだ帰りたくないよ!)



 ブランの心から、必死の感情が溢れ出る。



(確かにおじちゃんやおばちゃんはぼくを怖がるけれど、ノランはぼくを『ブラン』って呼んで、兄弟みたいだって言ってくれたんだ! ぼく、ノランの特別になったんだ。もっとノランと一緒にいたい!)



 山頂の館で、古い魔導書を閉じた魔女は、小さなため息をついた。


 子犬から返ってきた強い拒絶と、人間への深い愛着の念。彼女はそれを無理に引き裂こうとはしなかった。それもまた、その子犬が自らの意志で選び取った「個」の尊厳だと認めたからだ。



『……仕方のない子ですね』



 魔女の声に、わずかな苦笑の気配が混じる。



『分かりました。人間の温もりがどれほど心地よいものか、今のうちに十分に味わいなさい。ですが、いつまでも甘えているわけにはいきません。その街の厚い雪が解け、山の緑が芽吹く頃――。冬が完全に終わりを告げるときには、必ず自分の足で山へ戻ってきなさい。それが、自らの足で境界線を越えた者の果たすべき、唯一の義務です。良いですね、ブラン』



 初めて魔女の口から自分の名前――『ブラン』という響き――が呼ばれたことに、ブランは息を呑んだ。



(……うん。分かった。雪が解けたら、ちゃんと帰るよ。ありがとう、魔女様)



 魔女の気配が静かに遠ざかり、頭の中の冷涼な空気が消えていく。ブランはノランの胸元へと身体をすり寄せた。雪解けまでの残されたわずかな時間。それはブランにとって、一秒一秒が黄金のように輝く、切なくも美しい季節となった。


------------------------------


 季節は容赦なく巡り、頑固だった冬の氷が少しずつ緩み始めた。


 屋根から滴る雪解け水が規則正しい音を立て、街のあちこちの土から、小さな青い春告げ花が顔を覗かせ始める。それはブランにとって、ノランとの別れの時間が来たことを告げる合図だった。 


 ブランは、まだほんの少しふっくらとした程度で、相変わらず小さな、蜂蜜色の子犬のままだ。ノランはそんなブランを大切そうに抱きかかえ、街の境界線である山道の入り口の大木の下に佇んでいた。



「ブラン、本当に行っちゃうんだね……」



 ノランの声が小さく震えている。ブランはノランの足元に寄り添い、そのズボンの裾を優しく甘噛みした。



「うん。行かなきゃいけないんだ。魔女様が呼んでいるからね。雪が解けたら帰るって、ぼく、魔女様と約束したんだよ。これ以上いたら、ノランのお父さんたちもずっと怒ったままだし……」



 ブランが人間の言葉で告げると、ノランはボロボロと涙をこぼしながら、小さなブランの身体を強く抱きしめた。



「ごめんね、ブラン。僕の街の人たちも、みんな君たちのことを野山の魔獣や地下迷宮の呪いみたいに怖がってばかりで……。でも、僕はお前がちっとも怖くない。君は僕の、世界で一番の弟だ」



 ノランは涙を袖で拭うと、そのおっとりとした瞳の奥に、これまでにない強い光を宿してブランを見つめた。



「ブラン、待ってて。君が山から下りられないなら、僕が君を追いかける。僕、もっとたくさん魔法を勉強して、魔獣や地下迷宮に負けないくらい強い魔法使いになる。そうしたら……必ず、その山のてっぺんの、魔女様のお家まで君に会いに行くからね」



「えっ……!? 山の上はすっごく険しいし、ぼくの父さんや母さん、兄ちゃん姉ちゃんたちはすっごく強いんだよ!?」



「平気だよ。だって、ブランが自慢してた魔女様だもん。君がこんなに優しいんだから、きっと話せば分かってくれる。だから、これは別れじゃないよ。僕が君のところへ行くための、約束だ」



 ノランの静かで揺るぎない決意に、ブランは胸が熱くなった。



「ワン!」



 ブランは力強く一度だけ鳴き、ノランの手を最後にもうひと舐めすると、決然と反転した。まだ短い四肢を一生懸命に躍動させて、山道を駆け上がっていく。後ろから「またね、ブラン! 必ず行くからね!」というノランの声が響き、その言葉がブランの走る速度をさらに加速させた。


------------------------------


 春の柔らかな光が差し込む山の館。


 ブランが息を切らせて石造りの巣穴へとたどり着いたとき、そこには、様々な毛色の家族たちが待っていた。灰黒色の長い毛を風に揺らす立派な父犬、漆黒の毛並みの母犬、そしてブランと同じような淡いクリーム色の毛を蓄えた兄姉たち。彼らがずらりと並んで待っていた。


 ブランは山道を必死に登ってきた安堵感と、同時に、あれほど固く禁じられていた街への脱走を犯してしまったことへの、凄まじい罪悪感に襲われていた。蜂蜜色の小さな身体をさらに縮め、耳を後ろにぴったりと伏せながら、おずおずと両親や兄弟たちの前へと進む。



「あ、の……父さん、母さん、みんな、ごめんなさい……。ぼく、言いつけを破って、勝手にお山を下りちゃって……」



 ブランが消え入りそうな声で謝罪の言葉を口にすると、ずい、と前に進み出てきたのは、ブランの父親だった。その魔狼の威厳を色濃く残す鋭い眼光に、ブランは思わず身を固くした――が、次の瞬間、父親の大きな前足が、ブランの小さな頭をごしごしと乱暴に、けれど温かく押し包んだ。



「――馬鹿野郎、心配させやがって!」



 父親が不器用な声で吼えた。



「お前みたいにまだ魔法も使えない、毛の薄いチビが、急にいなくなるんだぞ! どれだけみんなで山を捜し回ったと思ってるんだ!」



「そうだよ、ブラン! 人間に見つかって酷い目に遭わされてるんじゃないかって、母さん気が気じゃなかったんだから!」



 母犬も涙ぐむようにして駆け寄り、ブランの身体に鼻先を押し付けて、怪我がないかを確かめるように執拗に匂いを嗅いだ。自分と似た淡い色の毛を持つ姉犬たちも次々に集まり、ブランを囲み込む。ぶっきらぼうで、荒々しい狼の血を引きながらも、そこには紛れもない家族としての深い愛情が満ちていた。 



「みんな、ごめんなさい……、ごめんなさい……!」



 ブランは涙をこぼしながら、何度も両親や兄弟たちに頭を下げた。


 古びた広間の影から、静かな足音が近づいてきた。犬たちが自然と道をあける。


 現れたのは、数ヶ月前と全く変わらない、十歳の少女の姿をした魔女だった。


 ブランはペタンと床に伏せ、魔女の足元に鼻先を付けた。



「魔女様……ごめんなさい。人間の街へ行ってしまいました。怖がらせるから行ってはいけないと言われていたのに……本当に、ごめんなさい」



 魔女はしばらく無言のまま、伏せているブランを見下ろしていた。その静寂がブランには何よりも恐ろしかったが、やがて、小さな温かい手のひらが、ブランの頭の上へとそっと置かれた。



「無事でよかったわ」



 魔女の、鈴を転がすような声が部屋に響き渡る。



「言いつけを破ったことはいけませんが、あなたが自らの足で、約束通りにこの山へ帰ってきた。その事実を、私は尊重します」



 魔女のその穏やかな言葉に、ブランは救われたような思いで顔を上げた。



「……あのね、魔女様! ぼく、人間のノランっていう男の子のお家でお世話になってたんだ。街の人はみんな魔女様やぼくたちのことを魔獣や地下迷宮の呪いみたいだってすっごく怖がっていたけれど、ノランだけはちっとも怖がらなかったんだよ! それにね、ぼくの名前は『ブラン』って言うんだ! 雪の日に出会ったからブラン! ノランがぼくだけのためにくれた、世界に一つだけの言葉なんだ!」



 ブランが人間の言葉を交えて誇らしげに叫ぶと、周囲の魔犬たちが一斉に驚いたように耳を震わせた。



「名前……?」「自分で呼べる言葉なのか」「いいなぁ」と、口々に羨ましそうな声を上げ、小さな蜂蜜色のブランの周りを、興味津々でぐるぐると回り始めた。



「それにね、ノランは僕を追いかけて、魔法をいっぱい勉強して、この山の上まで来るって約束してくれたんだ! ぼくたちに会いに、ここまで歩いてくるんだよ!」



 ブランがそう続けると、犬たちはさらにどよめいた。人間は自分たちを怖がって結界の中に閉じこもるものだと思っていたのに、わざわざ危険な山を登って会いに来る人間がいる。犬たちの間で、人間の街への複雑な好奇心と、新しい時代の予感が、一気に芽生え始めていた。


 ブランは嬉しそうに胸を張り、大自慢の最中、ふと、部屋の入り口の壁に背を預けている魔女を見上げた。


 魔女はいつも通りの静かな佇まいで、騒がしい犬たちの様子をじっと見つめていた。


 ブランはふと思った。


 自分には『ブラン』という名前ができた。街のノランにも名前があった。 


 なら、この世界で一番強くて、一番優しくて、自分たちの祖先からずっとずっと、何百年もこの山で見守っていてくれたこの魔女様には、一体どんな名前があるのだろう。いつもみんな、敬意を込めて「魔女様」としか呼ばないけれど。



「ねえ、魔女様」



 ブランはトコトコと魔女の足元へ歩み寄り、その小さな、けれど深遠な顔を見上げた。



「ぼくにはブランっていう名前ができたよ。ノランが山の上まで来るって。……ねえ、魔女様の名前は、なんていうの?」



 その問いに、周囲で騒いた魔犬たちも一斉にピタリと動きを止め、静まり返って魔女を見つめた。館の中を、心地よい春の風が通り抜けていく。


 魔女は少しだけ意表を突かれたように目を見張った。驚きに揺れた瞳は、しかしすぐに、遥か遠くの、かつて自分が生まれた海の方向へと向けられた。その瞳の奥には、長大な過去の歴史の重みと、決して消えることのない静かな哀愁が満ちていく。



「私の名前は、モルガナ=コードリア」



 その重厚で神秘的な響きに、ブランをはじめとする犬たちは「魔女様の名前……!」と目を輝かせ、一斉に歓声のような遠吠えを上げた。


 その名を何百年ぶりかに自らの口で名乗った魔女の瞳の奥――静かな記憶の水底では、かつて十歳の彼女がすべてを失った、あの狂暴な海からのモンスターの咆哮と、故郷を容赦なく飲み込んだ巨大な津波の光景が、一瞬だけ鮮烈にフラッシュバックしていた。

我が家で飼っている犬はプーキーです。かわいいんですよ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ