第二十一話 小さなお姫様と、夕暮れのおさんぽ騎士
霊峰ヴァルグヴェルドの深い山に佇む、大魔女モルガナの館。そこには人の言葉を解し、魔法を操る誇り高き『魔犬』たちが数百年の年月を共に暮らしていた。
ある日、麓のベイスの町に住む、少年ノランと金の魔犬ブランが出会い、やがて故郷の町を守るため大魔女と契約を交わした少年レオンは、白銀の魔犬クゥとともに「町へ降りる魔犬たちの世話役」としての歩みを始める。
宮廷で孤独を抱えていた第三王女エレアノーリエは、ノランやモルガナとの出会いを経て成長し、やがてノランと絆を結んでベイスの町の領主となり、人と魔犬が共に笑い合う「魔法都市」の礎を築いていく――。
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漆黒の毛並みに身を包んだ私、魔犬アルトは、自分の前に咲く一輪の黄色い花と、その手前にある小さな足跡を見つめていた。
(人間というのは、実に柔く、そして愛おしい存在だ)
私がまだ毛玉のような、幼い子魔犬だった頃、山からこのベイスの町へ降りてきて、最初に出会ったのが優しい少女——マーガレットだった。
マーガレットは私の艶やかな黒の毛色と、キリリとした顔立ちをいたく気に入り、干し肉のおやつ、ふかふかのクッションなど、魔犬が気に入るものを家に揃えて招待してくれた。
「く、魔犬さん、お肉は好きかしら?ほら、ふかふかのクッションもあるのよ」
私は当初、宿を借りるつもりで家に上がった。しかしーー
「かわい…あ、やだかっこいいわ魔犬さん」
「これ!新しく買ってきたスパイスでお肉を味つけてみたの!どう?おいしい?」
「ずっと、ずーーーっとここにいてね?」
マーガレットから並々と注がれる愛情に私も絆されてしまい…いつしか、私から「名前をくれ。君を友にしたい」と申し出たのだった。
その時の彼女の顔といったら…。おっと、これは控えておこう。
ともかく、その後も毎日変わらず、彼女は私を愛してくれたし、私はそれに彼女の傍にピタリと身を寄せ守ることで返していた。
穏やかで幸せな日々。マーガレットは私が愛する唯一のニンゲンであり、私は彼女の唯一の愛犬であると信じて疑わなかった。しかし、その幻想はある日破られるのだった。
「アルト…あの、実は…その、紹介したい人がいるの」
もじもじとしながらマーガレットが連れてきたのは、なんとも凡庸な、やや情けのない顔をしたニンゲンのオスであった。
私はそのオスに牙をむき、オスも顔に似合わぬ胆力で退かず、取っ組み合いの喧嘩にまでなった。…無論、私は必要以上に傷つけぬよう手加減したが、オスの粘りもなかなかであった。
お互いボロボロになったところで、普段はおっとりと優しいマーガレットからの一喝。私とそのオスは肩を並べて、ひどい状態になった家の居間について、彼女からの説教を受けた。
そんな顛末もあり、私は渋々、そのオスがマーガレットの隣にいることを認めたのだった。
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やがて、マーガレットが子供を産んだ。
それが、もうすぐ三歳になるミナだった。
生まれたての赤ん坊だったミナを初めて見た時、私はその小ささと柔らかさに息をのんだ。毛皮もなく、爪も尖っておらず、少し突けば壊れてしまいそうな小さな命。しかし、ふっくらとした頬や確かに聞こえる呼吸からは生きる輝きが溢れだしている。
その瞬間、私の胸に熱い使命感が燃え上がったのだ。
(マーガレットの傍にいて人間の脆さはよくわかったつもりでいたが、赤子とはこれほど…一瞬たりとも目を離してはいけないな)
以来、私はミナの傍を片時も離れずに守った。ミナが揺り篭から落ちそうになれば、それを救い、ミナが夜泣きをすれば尻尾と毛並みであやした。そんなミナと私を、マーガレットたち両親は「小さなお姫様と騎士」などと揶揄しながら、子育ての力強い助手としてありがたく思ってくれていたようだった。
それから、すくすくと育ったミナは、私の大きな首元にしがみついては「アル兄、アル兄!」と実の兄のように慕ってくれた。
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普段の「おさんぽ」は、最も神経を使う任務の一つだ。本気を出せば風のように街中を疾駆できるのだが、ミナと歩く時は違う。
ちょこちょこ、とんとん。
ミナの小さな足音と、頼りない歩幅。自分の体長よりも遅いスピードに合わせ、前足をゆっくり、ゆっくりと地面に下ろす。
通りかかる町の人々からは、微笑みとともに声をかけられる。
「あらあら、アルト兄ちゃんは今日も本当に良いお兄ちゃんだねぇ」
「ふんっ」
褒められた私は、挨拶代わりに鼻を鳴らし、漆黒の胸を張るのだった。
――だが、そんな平和な日常を揺るがす「事件」は、ある穏やかな午後に起こった。
母マーガレットが奥の台所で夕食の準備に追われていた時のこと。
ミナがその目を盗み、そわそわと玄関へ向かって一生懸命に小さな靴を履こうとしていた。
「んっしょ…よちっ! ちとりで『だいぼうちぇん』にいくのよ!」
(訳:一人で「大冒険」に行ってきます。)
(……ッ!?)
思わぬ言葉に耳がピンっと立ってしまった。すぐさま玄関へ滑り込み、大きな体を横たえてドアを通せんぼした。
「ミナ、一人ではいけない。どうしてもと言うのなら、私が着いていってやろう」
私はマーガレットに外出を告げねばとやおら立ち上がろうとした。しかし、ミナはぷくっと頬を膨らませ、腰に手を当てて言い放った。
「ダメ! きょうは、ミナちとりでいくのよ! ……あのね、もしアル兄がちゅいてきたら……」
(訳:今日は私一人で行きます。…もし着いてきたら…)
ミナは小さな指を私の鼻先に突きつけ、この世で最も残酷な宣言を口にした。
「……ミナはアル兄のこと、チライになるのよ!」
(訳:私は貴方を嫌いになります)
ずがびびびんっ!!
私の脳裏に、雷が突き刺さった。
(チライ……キライ……!? 私が……ミナに……嫌われる……!?)
あまりのショックに、誇り高き魔犬の耳がペタッと頭の後ろに倒れ込み、尻尾は完全に丸まってしまった。失意のどん底に突き落とされ、その場に崩れ落ちそうになる。
思い出させるのは、ミナが産まれてから今まで、本物のお姫様のように慈しみ大事に育てた記憶。その幻想に私はフラフラとおぼつかない足で立っていた。
しかし、ミナが小さな手で扉を開け、トコトコと外へ踏み出していく姿を見て、私は正気を取り戻した。
(き、嫌われるなど、絶対にいかん! だが……野放しにして事故にでも遭ったら一生の不覚! えぇい!こうなったら……!)
私は覚悟を決めた。
山を駆け、獲物を捕らえる魔犬の身体能力と魔法を駆使して、絶対にミナに見つからず、かつその身を影から守れば良いのだと。
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姿を隠すため、私は壁の影、建物の隙間、果ては屋根の上へと身を躍らせた。大きな体を縮め、足音を消して、ミナを上空や陰から見守る。
ミナはご機嫌で鼻歌を歌いながら、石畳の道を歩いていた。
目的は「もうすぐお誕生日のお母さんに、黄色いきれいなお花をプレゼントすること」らしい。
だが、幼い子の足取りは予測不能だ。
(あぶっ、危ない!)
石畳のわずかな段差につっかかり、ミナが前方へ派手に転びそうになった。
屋根の上にいた私は、咄嗟に前脚を差し出し、極限まで威力を抑えた繊細な風魔法を放った。
ふわり――。
温かな風のクッションがミナの体を包み込み、タンポポの綿毛のようにゆっくりと地面に着地させた。
手をつくこともなく無傷で踏みとどまったミナは、目を丸くして空を見上げた。
「わぁ……! ふあふあ……! くふふっ!ちゅごーーい!」
(訳:ふわふわ浮いて、すごいです)
屋根の陰で、私は冷や汗を収めながら、ニンマリと口角を上げる。
しかし、試練はこれで終わらなかった。
ミナがお花を探すうちに、薄暗い裏路地の方へと歩を進め始めたのだ。
(しまっ……! そっちはダメだ!)
私は路地裏の物陰に滑り込むと、微弱な光魔法を繰り出した。
ぽっと生まれた、温かい小さな金色の光の玉。それをミナの前にそっと動かし、安全で日当たりの良い大通り側のへと躍らせる。
「あ!きあきあ!ひかってゆ! おもちろーい!」
(訳:キラキラ光っていて、面白いです)
無邪気なミナは光の玉に誘導され、クルリと向きを変えて安全な道へ。
ーーその後も試練は続き、ミナが小さな花を道端で見つけ、採取できたのは、日が暮れる頃だった。
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夕暮れのオレンジ色の光が、ベイスの綺麗な街並みを包み込んでいく。満足そうに黄色い花を抱え、帰路につくミナ。その姿を、私は一定の距離を保ちながら誇らしく見守り続けた。
(やりきった…!やりきったぞ!ミナを守って帰ってこれた…!)
心中に広がるのは大いなる達成感。
家の前に辿り着くと、異変に気付いたマーガレットが、心配そうに門の前に立っていた。
「あっ!ママーー!!これぇ!あげゆね!」
(訳:これをママにあげます)
ミナはむんずと掴んでいた、小さな黄色い花をマーガレットへ差し出した。マーガレットは何とも言えない顔で受け取りながら、ミナへ問いかけた。
「ミナ?これ、どうしたの?」
「これねぇ、まちでみちゅけたの!それでね!こてんってなりそうなときに、からだがふあふあって!」
(訳:これは町で見つけました。転びそうなときにフワフワと体が浮きました)
私は、マーガレットに見えるように、「ふあふあ」のところで風魔法を使い、落ちていた葉っぱを先程のように優しく地面に着地させた。
「あとね、ひかってるちいちゃいまるいの!おいかけたの!」
(訳:光の玉を追いかけました)
私はまた、光の玉をだしてミナを誘導した様子を伝えた。
マーガレットは、ミナと私を交互にみて、あらかたを察したようだ。
「ミナ、お花ありがとね…。ママとってもうれしい!でも、一人でお家を出ていっちゃ駄目だよ?今日はーーその…見えない『騎士様』が居たのかもしれないけれど、本当にあぶないんだよ?」
「はぁーーい!わかった!!」
(訳:騎士様が守ってくれるなら大丈夫です)
ミナは本当にわかったのか怪しいが、取り敢えず元気な返事をすると、「アル兄~!」と私を探しながら家へ駆け込んでいった。
「やれやれ……無事に送り届けたぞ……」
私は影から抜け出し、疲れた足取りを隠さずマーガレットへ歩み寄った。
「ふふっ…ありがとう。見えない『騎士様』今日夕飯、アルトの分特別にしておくからっ!」
マーガレットはそういって私の頭に軽くキスをすると、ウインクまでして厨房の方へ消えていった。
私は大きく振れる尻尾と気恥ずかしさを隠すように、後ろ足で首をカシカシと掻いた。
「アル兄ーっ!!」
家中を駆け回ったのであろうミナが私の姿を見つけるなり、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。そして、首元にギューッと抱きつく。
「アル兄ただいま! ちとりで『だいぼうけん』できたよ! みえない『きちちゃま』が守ってくれたの!」
(訳:ただいま。一人で「大冒険」ができ、見えない「騎士様」に守っていただきました)
「あぁ……」
私は能天気なミナに疲れを感じつつも、愛おしさに耐えかねて、小さな頬をペロリとなめた。安堵の息が漏れ出る。誇り高き騎士として、最高の護衛を全うできた満足感に浸っていた。
――しかし、物語はここでは終わらなかった。
ミナが「えっへん」と胸を張り、ポケットの中に手を突っ込んだ。
「アル兄! おるちゅばんしてくれたおれいに、ミナが『あしょんであげる』ね!」
(訳:お留守番をしていただいたお礼に、遊んであげます)
取り出されたのは――コロンとした、ミナの手のひらサイズの「丸い木のボール」だった。
(ッ…………!? し、しまった……ボール……!??)
全身の毛並みが逆立った。
魔犬という種族に刻まれた、抗いがたい悲しき宿命。小さな丸いものが転がると、どうしても追わずにはいられない強力な狩りの本能である。
(ダメだ……落ち着けアルト! 私は大人で、あれは獲物ではなくただのボール! 子供の遊びに付き合うなど……)
私は必死に理性を保ち、フンと背を向けようとした。
だが、ミナが無邪気に言った。
「ちょれーっ! えいっ!」
ポーンッ!……
カチャリ、と私の中で理性のスイッチが弾け飛んだ。
次の瞬間、漆黒の大型魔犬は疾風と化していた。凄まじい跳躍で地面を蹴り、空中で見事な弧を描いて躍進。
パクッ!!
「……ッ!!」
空中で見事にボールをキャッチし、着地するやいなや、ちぎれんばかりに尾がバタバタと振れた。
そしてミナの目の前に座り込んだのだ。
「ワンッ!」
『ほら!次だっ!』
ミナは手を叩いて楽しそうに笑った。
「ふふっ! アル兄はこれちゅきねぇ。またなげてあげゆ!」
(訳:本当にこれがすきですね。また投げてあげます)
(……あ、あれ……?? しまった…!完全にミナの掌の上だ……!??)
自尊心と本能の狭間で、アルトは「くぅ〜ん……」と情けない声を漏らし、前脚で頭を抱えそうになった。
それでも、再びミナが楽しそうに投げたボールを追いかけて全力でダッシュしてしまう、誇り高き影の騎士なのであった。
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