第Ⅲ章 第7話(エピローグ):『彼女の力学と私の静かなエネルギー』【力学/エネルギー保存の法則】
第Ⅲ章:保存されるエネルギー
「いい? 前回やったニュートンの運動三法則は完璧。じゃあ、次のステップに進もう。位置エネルギーと運動エネルギーの和は、外部から摩擦や空気抵抗を受けない限り、常に一定に保たれる。これがエネルギー保存の法則」
家庭教師の「先生」は、大学院生らしい落ち着いた声でノートに新しい数式を書いた。真新しいルーズリーフに滑るシャーペンの音が心地いい。
私はといえば、目の前で揺れる冷たい珈琲をスプーンでつつきながら、完全に上の空だった。紅星くんに振られた痛みがまだ胸の奥で燻っている。
「ごめんなさい、先生。私には、その数式がまた呪文にしか見えないです。そもそも、動いてもいない物体に『位置のエネルギー』があるなんて」
理解できないまま、この日の指導は終わった。
◇摩擦のない凪、壁際に震える熱
物心ついたときから、私は周囲の期待する「正解」を完璧にトレースして生きてきた。大手代理店のプランナーという肩書も、洗練された着こなしも、都会のスピードに合わせた呼吸も。
恋だってそうだ。形ばかりの情熱を向けられ、恋人の役割を演じる。初めて心から求めてしまったあの人の前でさえ、私は逃げ道のない昼の光を恐れて、自ら門を閉ざしてしまった。
「なぎこさんは、まるで無限にアイデアが湧き出る永久機関ですね」
後輩にそう言われるたび、胸の奥が白く爆ぜるような錯覚に陥る。永久機関なんて、この世に存在しない。私はただ、自分の外壁を摩擦のない鏡のように磨き上げ、他人の熱を反射しているだけだ。内側はいつだって、絶対零度の静寂が支配している。
そんな私が、表参道の退屈なレセプションで、壁際にぽつんと佇む「彼女」を見つけた。おろしたてのヒールが痛むのだろう。痛みを堪えるように小さく震えるその姿は、周囲の華やかな熱量に完全に気圧されていた。けれど、その瞳だけは、濁った大人の社交界とは違う、ひたむきで静かな光を宿していた。
放っておけなかった。気づけば、私は彼女を夜風の吹くテラスへと連れ出していた。
「ねえ、退屈だよね。あっちで風でも当たらない?」
私のとりとめのない仕事の話を、彼女はまるで世界で一番大切な秘密を聞くように、目を輝かせて受け止めてくれた。失恋したばかりだという彼女の語る大学生活は、泥臭くて、不器用で、だからこそ眩しかった。
彼女と過ごす夜は、不思議と心地よかった。私が熱っぽく語れば語るほど、彼女はそれを吸い込んで、さらに強い輝きを放つ。まるで、私が放出した熱が、彼女というフィルターを通して、全く別の瑞々しいエネルギーに変換されていくようだった。
けれど、彼女が私を「全能の光」のように見上げるたび、私の胸には静かな罪悪感が募った。私は君が思うような人間じゃない。中身は空っぽで、冷え切った石壁なのだと、言えなかった。
だから、ニューヨークへの赴任が決まったとき、どこかで安堵している自分がいた。このまま東京にいれば、私は彼女の純粋な熱量すらも、自分の冷たさで凍らせてしまうかもしれない。
出発の直前、私は彼女に、自分自身への呪詛のような、けれど彼女への祈りを込めた言葉を遺した。
「広い世界を見なさい。東京に縛られる必要なんてないわ」
環境のせいにせず、私のようにはなるな、という願いを込めて、言葉を継ぐ。
「……もし、夜の闇でも消えない本物の熱に出会えたら、その時は絶対に逃げちゃダメよ」
それは、いつか私自身の関所を、跡形もなくぶち壊してくれるような「本物の熱」への、届くはずのない憧憬でもあった。
◇
「……というわけなんです。私、なぎこさんと出会って、勝手に舞い上がって、勝手に失恋したみたいになって。結局、私自身には何の中身もなかったんだって気づいて、すごく虚しくて」
次の家庭教師の時間、私はすべてをぶちまけた。先生は、冷めかけた珈琲カップを置き、私の目を見つめた。
「前に教えた『エネルギー保存の法則』、覚えている?」「え? ええ、まあ。摩擦がなければ、足したものは一定っていう……」「なぎこさんという、高い場所にいる人と出会ったとき、あなたはその引力に引っ張られて、自分自身の『位置エネルギー』を最大まで引き上げられたんだ。それは決して、あなたの中身が空っぽだったわけじゃないよ」
先生はノートを開き、なだらかな坂道の絵を描いた。
「彼女が去って、元の低い場所に戻ってきたように感じているのかもしれない。でもね、位置エネルギーは消えたんじゃない。高い場所で蓄えた分の熱量は、今、あなたの中で次の場所へ進むための『運動エネルギー』に形を変えている最中なんだ」「運動エネルギー……?」「そう。彼女の言葉、彼女の生き方、彼女が見せてくれた景色。それらが今度は、あなた自身を動かす力に変わっていく。誰かに出会って生まれたエネルギーは、形を変えながら、僕たちの人生の中でずっと保存されていくんだよ」
私の心の中で、冷たく眠っていたあの数式が、にわかに温かい血の通った言葉として脈打ち始めるのを感じた。
私は胸元に手を当てた。なぎこさんの姿は見えなくなっても、彼女が私を高い場所へ引き上げてくれたあの感覚は、確かにここにある。
私が笑うと、先生は驚いたように、それから嬉しそうに、メガネの奥の目を細めた。
東京の片隅で、誰かが誰かに引き上げられ、形を変えたエネルギーが確かに回り始めている。――それは巡り巡って、いつか私が、夜の闇の底で「本物の熱」と対峙するための、静かな予兆のように。




