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世界は数式で抱きしめられている  作者: 海内裏


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第Ⅱ章 第6話:『屈折する、私と世界との境界線』【光学/光の屈折】

第Ⅱ章:響き合う電荷、まじりあう熱量

「光の屈折? ごめん先生、私の脳みそ、完全に全反射(100%シャットアウト)してるわ」大学近くのカフェ。私は物理の教科書を閉じ、冷めたココアをすすった。

私は東京の私立大学に通う文系一年生。高校で物理を真っ先に捨てたのに、一般教養の単位のために個別家庭教師の「先生」――理工学部の大学院生――を雇う羽目になった。

「諦めるのが早いよ」と先生は苦笑する。「光や音はね、違う物質の境界線に進むとき、スピードが変わるから曲がるんだ。これが屈折の法則。レンズが光を集めるのもこの仕組みだよ」

「物質の……境界線?」「そう。空気から水に入るみたいに、環境が変わると進む角度が変わる。境界線に対して、すんなり通してくれない抵抗があるイメージかな」先生の説明は丁寧だった。でも、私の頭の中のレンズはピントがちっとも合わない。数式だらけの世界は私とは無縁の異郷だった。


◇まっすぐ曲がる、私のままで

「ひかりの引く境界線は、いつも少しだけ、おばあちゃんの匂いがするね」大学のサークルで出会った文系のあの子――彼女にそう言われたとき、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

私の父は、厳格な裁判官だ。常に法という侵しがたい物サーチを持ち、白黒をはっきりと分ける世界で生きている。そんな父の背中を見て育った私は、自然と法学部を選んだ。でも、私が法律を学ぶ本当の理由は、父とは少し違う。

私は生まれつき体が弱く、寝込んでばかりの子供だった。実の母の記憶は一切ない。私がまだ一歳と一か月のとき、病気で急逝してしまったからだ。父は裁判官としての激務の傍ら、幼い私を育てる限界を感じたのだろう。すぐに新しい女性と再婚した。幼かった私は、冷徹なまでに合理的な父の決断と、急に変わった家の空気に、心を閉ざしてしまった。病弱な私の唯一の逃げ場所は、母方の祖母の家だけだった。

「ひかり、大丈夫だよ。ゆっくり、ゆっくり大きくなればいいからね」おばあちゃんは、熱を出して寝込む私の枕元で、いつも優しく手を握ってくれた。しわくちゃで、ぽかぽかと温かい手。おばあちゃんは、母を失った私の寂しさを埋めるように、あふれるほどの愛情を注いでくれた。父がどれほど冷たく見えても、新しい家庭に馴染めなくても、「私にはおばあちゃんがいる」という事実だけで、私は世界と繋がっていられた。私の命のひかりを灯し続けてくれたのは、間違いなくおばあちゃんだった。だからこそ、私は法律を学びたかった。

父の言う法律は、冷たい境界線だ。ここから先は違反、ここまではセーフ。境界線の上に立つ人間がどんなに傷ついていても、法は冷徹に判決を下す。でも、おばあちゃんの愛に救われてきた私は、そうは思わない。法という境界線は、きっと弱い立場の人を守るための「砦」であるべきだ。社会の片隅で震えている人を、優しく包むための境界線。

私は、机を挟んで座る彼女に向かって、ノートに一本の直線を引いた。

「法律ってね、社会の『境界線』を引くものなの。でも面白いのは、時代や国っていう『違う物質』にその境界線を持ち込むと、法律の適用され方がグニャッと曲がること。昔の法律を今のネット社会に当てはめようとすると、解釈がねじ曲がったりするでしょ? 環境の抵抗に合わせて、法律の進む向きを変えるの」

彼女は目を見開いて、私の引いたノートの直線を見つめていた。

「私の名前ね、お母さんがつけてくれたんだって。暗闇の中にいる誰かを、そっと照らす光になりなさいって。だから私は、おばあちゃんにもらった温かさを乗せて、これからも法律の境界線を引き続けたいな。私の引く法の光は、きっとこれからも、おばあちゃんの優しさの分だけ、あたたかく屈折していく」

「先生! 屈折の法則、わかったかもしれない!」

次の指導日、私は先生にひかりから聞いた話を一気にまくしたてた。法律が環境によって曲がること、それが社会の境界線だということ。先生は目を見開いた後、嬉しそうにポンと手を叩いた。

「素晴らしいよ。まさにその通りだ」

「え、本当に?」

「うん。物理の光もね、一番時間がかからない最短の時間で進めるルートを選んだ結果、境界線で曲がるんだ。これを『フェルマーの原理』と言う。法律も同じじゃない? 社会の歪みや抵抗に対して、一番摩擦が少なくて、みんなが納得する最短の解決ルートを探した結果、解釈が曲がる(屈折する)」

先生は教科書のレンズの図を指さした。

「レンズは、バラバラに進む光を一つに集める。法律というレンズも、バラバラな個人の意見を社会のルールとして一つにまとめる役割(焦点)を持っているんだよ」

教科書の無機質な直線が、急に血の通ったものに見えた。光が曲がるのは、サボっているからじゃない。新しい環境の中で、一番正しいルートを必死に探している証拠なのだ。

「私、ひかりに出会って、先生の物理の光とも繋がった気がする」

「ひかり、か。いい名前の友達だね」

先生が新しく淹れてくれた温かいコーヒーの表面に、カフェの電球の光が綺麗に屈折して、小さな焦点を結んでいた。

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